法務総合研究所・研究官 佐藤欣子氏 ( 昭和52年6月24日 )



【視点】 佐藤氏がこの論文を書いた昭和52年は、旧文部省が新学習指導要領で授業時間を大幅に減らしヽゆとり教育へと艦を切った年だ。 教育界では、いわゆる 「落ちこぼれ」 児童の問題が盛んに論議された。 救済策として 「能力別学級」 の構想も浮上したが、日教組などは 「エリート教育につながる」 と強く反対した。
 佐藤氏は、人間にはスポーツや芸術など多様な能力があるとして、学力の面でも 『知能の高い子』 のためのエリート教育が必要だと主張した。 一部で検討されていた 「入試くじ引き論」 の “悪平等” 性も指摘した。 その後、習熟度別授業が平成5年度に導入され、英才のための飛び級制度も9年度からスタートした。




 「エネルギー危機」、 「食糧不足」、 「気象条件の変化」 など、21世紀に向かう人類の将来の予測は、グルーミイである。 しかしその陰鬱な予測にもかかわらず、なお人々に希望を抱かせ得るものは、まず人智の可能性、人間の知性に対する信頼であろう。
 つまり、人類は、厳しい制約の下にあっても、自然科学や社会科学の急速かつ飛躍的な進歩によって、これらの困難な問題を解決してゆくことができるであろうという希望である。 かつて、歴史の諸段階でそうであったように、現代もまた繁栄と平和を可能にする偉大な知性、天才的な存在の出現を求めている。 高い知能を持つといわれている日本人の中から、このような秀れた知性が現れ、日本が直面する困難の解決ばかりでなく、人類の福祉に大きく貢献することが、求められているのである。
 5千人に一人か、1万人に一人かはともかくとして、特別に卓越した知能を持つ子供は確かに存在している。 このような卓越した知能を選び出し、幼い日には特に傷つき易く、致命傷を受け易いその才能を育てあげること、つまり教育することが、日本人のみならず広くは全人類の生存のために絶対に必要であることは異論のないところであろう。




 しかし残念ながら、このような特別の知能を開発するための教育は、わが国ではほとんど行われていない。 また、 「教育」 といえば、 「落ちこぼれ」 とくるほど、学校についてゆけない子供のための教育はよく論じられているが、そしてそれはそれで大変立派なことではあるが いわばプラスの落ちこぼれであるこのような高い知能を持つ子供に対する特別の教育の必要性が論じられることは乏しいのである。 それどころか 「知的な“選手”を作ることはまかりならぬ。 悪平等がいいことだという考えがはびこっている」 ( 伏見康治 )状況の下では、エリート特別教育という言葉だけでも激しい反発を受けることを覚悟 しなければならないであろう。
 しかし、いまさらいうまでもなく、人間には多種多様の能力や才能が、人々の間にさまざまな割合で分布している。 スポーツ選手もいれば芸術家もいる。 いわゆる知能指数もほぼ100を中心として正常分布を示すことは周知のとおりである。 従って、知能の高い子供と低い子供を同じクラスで教育することは、あたかもオリンピック選手をめざす子供と、ぶきっちょな肥満児とに同じ体操をやらせるように不能率かつ無理なことである。
 一般に、日本の教室では、知能の高い子供は関心の外におかれ、退屈し、その能力はフル回転せずに眠らされている。 子供が自分自身でその能力を開発することは困難である。 彼等はその能力を開発すべき教育を必要とするのであり、それなしには、貴重な能力は、しばしば枯渇してしまうのである。




 これに対して例えばアメリカでは、多くの州で知能指数120以上の子供または特に芸術的な才能を持つ子供は、特別教育を必要とするものとして承認され、強化クラス、特別学習や実地指導などのプログラムが実施されている。 また能力に応じて学年を飛び越すこと( スキップ )ができるので、著名な高等教育の大学院課程の入学者の中には、20歳未満の者も相当数ふくまれている。 それに反して、わが国では、中学・高校も修業年限を修了しなければならないので、ある種の自然科学においては、最も創造的であり得る20歳台にその能力を発揮するに至らないことが多い。 若い頭脳は貴重な日々を空費するのである。 かくして優秀な日本人は教育大国を作り上げながら、ついに 「独創的な仕事をなしえず、永久に物まね国民として終わる」 ことになりかねないのである。
 人間の能力が多様である以上、ますます多くの人間が教育を受けるようになった現在、教育機関も一層多様化すべきなのである。 しかるに、わが国の教育は、画一化、平準化の傾向を強めている。 その極端な表現が、大学、高校、中学などの 「入試くじ引き論」 である。 アーチン・トロウは、高等教育の進学率が15%を越すようになると、 「人々は進学を一定の資格をそなえたものに許された権利であると考えるようになり」、 「進学率が50%に近づけば」、 「進学は一種の義務とみなされるようになる」 と指摘している。 高等教育のマス化にともなって、かつてのエリート高等教育機関に対する門戸開放、各大学間の平準化の要求は高まる。




 しかし大学が学生の能力に関係なく、 「くじ引き」 で学生を入れれば、各大学は多様な学生の要求に無関係な、 「誰もが入れて、誰もが入りたがらない大学」 となるであろう。 「平準化」 の要求は、しばしば、いわゆる 「ひき下げデモクラシー」 の一表現であり、そのこころは 「ジェラシー」 にほかならない。
 「くじ引き入試」 に承服しがたい理由は、ほかにもある。 それは受験生の努力や願望を無視して、 「くじ引き」 という不条理を導入するからである。 もし入試が 「くじ引き」 ならば、 「選挙」 も 「就職」 も各種コンクールも、およそ競争を伴うものは、 「くじ引き」 にすればよいであろう。 そしてこのような、フェアな競争の回避は、人々の心に救いがたい正統性の喪失、アナーキイ、退廃と無気力を生み出すであろう。
 悲しみを必死にこらえながら、大統領選の敗北を認め、勝者を祝福し、すべてのアメリカ人に新大統領に対する支持を訴えた昨年11月4日のフォード大統領とその夫人の写真は感銘深いものであった。 全力を尽くした戦いの後に、敗者は潔く敗北を認め、勝者は彼に勝利をもたらしたものを謙虚におそれる。 そこにこそ勝利の正統性がある。 敗北の原因が分かっているとき、敗者はむしろ敗北に堪えることができる。 そして、ある者は捲土重来けどじゅうらいを期するであろう。 しかし、 「くじ引き」 という不条理に対しては、その挫折を回復することはできないのである。