日本文化会議専務理事 鈴木重信氏 ( 昭和50年7月2日 )



【視点】 今で言う 「 学力問題 」 を論じた鈴木氏の論文である。 これが書かれた昭和50年当時の小中学生は、今の子供たちの約2倍の知識を授業で学んでいた。 「 詰め込み教育の解消 」 が叫ばれ、旧文部省と日教組がともに 「 ゆとり教育 」 を目指して検討を進めていた時期だ。
 鈴木氏は占領政策に便乗した戦後の漢字制限政策などを批判し、そこには 「 子供に難しい漢字を教えこむのはかわいそうだ 」 という大人の偏見があると指摘した。 10歳までの子供は 「 旺盛な知的吸収力 」 があるとして、漢字教育の充実を訴えた。 また、小学校低学年では、特に国語と算数の基礎教科を重視すべきだとした。 今でも、そのまま通用する提言である。


子供とは何かに理解不足

  「 おとなは、だれでも、はじめはこどもだった。 しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない 」 。 これはサン・テグジュペリが、有名な 「 星の王子さま 」 の献辞に書きしるした言葉である。 戦後30年間の教育は、どうやらこの言葉のように、自分がかつて子供であったことを、すっかり忘却した大人たちによって立案され、促進されてきたのではなかろうか。 すくなくとも 「 子供とは何か 」 についての共通の理解の上に立って、すすめられてきたか、どうか。 すこぶる疑わしいものだと、私は考えている。
 いま 「 詰め込み教育 」 の解消を焦点として、盛んに論議されている教育課程の改革についても、やはりこの感が深い。 たとえば、先日のある新聞の論説は、40歳の会社員の父親による、 「 義務教育は減速を 」 という投書を取り上げて、もっとゆとりのある教育課程を要望している。 もちろん、その趣旨には賛成なのだが、問題はこの投稿者があげている具体的事例である。 算数の九九など、自分たちの頃は小学校4年の3学期に習ったものを、今では3年の2学期にやっている、なぜそんなに急ぐのかと、非難している。 ここには明らかに記憶の間違いと、事実の誤認があるようだ。 多分、この父親が九九を習ったのは、30年以上むかしのことであろうが、その頃の教科書では2年生の後半で九九を教えていたはずだし、また現在も2年の3学期にやることになっている。


国語に戦後最も深い病根

 なにも些細な記憶違いで、揚げ足をとろうなどというのではない。 一番大切なのは九九を教える時期の早い、遅いよりも、子供の発達段階からみて、どの学年が最も適切なのかをまず見極めることである。 数学教育の専門家に聞いてみると、四則の基礎的ルールとしての九九は、2学年で習うのが望ましく、子供自身、負担になるどころか、楽しんで覚えるし、その後の発展のためにも効果的だということである。 むしろ戦後の一時期 ( 33年 )には、2年の3学期で、九九の 「 五の段 」 までを、3年の1学期で、 「 六の段 」 以上をという具合に2学年にまたがって、懇切丁寧に教えることにしたことがあるが、この思いやりは逆に子供の理解を停滞させたり、混乱させる結果になった。 そこで43年には、再び現行のように改正されたのである。
 とかく、おとなの子供理解というものは、おとな白身の願望や偏見の投影であることが多い。 ある時は子供への買い被りであったり、ある場合は思い過しでしかなかったりする。 その都度、いつも迷惑を蒙るのは子供の側なのだ。 九九の例は僅かの期間で改正されたので、まだしも罪は浅い。 国語教育は戦後教育の最も根深い病根であるが、これもまた子供に対する大変な誤解からきている。


極端な漢字制限の愚かさ

 いうまでもなく、戦後、文部省は占領政策としての教育改革に便乗して、極度に漢字を制限し、歴史的仮名遣いを改変してしまった。 小学校で教える漢字数は、それまで1300字以上であったのを僅かに881字( 46年に115字追加されたが )に切り下げられている。 しかも注目すべきは、1年生では46字、2年生で105字、3年生で187字というふうに、低学年から上級に進むにつれて増加するように字数が配当されている点である。 ここにはいたいけな子供に難しい漢字を教えこむのはいかにも可哀そうだという、生類憐れみの令にも似たおとなの偏見が働いている。 だが今日の脳生理学は、10歳までには思考力よりも、記憶力をつかさどる領域の方が先に発達し、旺盛な知的吸収力を示すことを教えている。 おとなの思い過しや、感傷主義は無用なのである。
 漢字の故国である中国でも、盛んに文字改革が推進されていると聞けば、どんな大胆な革命が断行されているかと、日本人は想像するかもしれない。 だが陳舜臣氏によると、現実には小学校の国語教科書で3600字を学習しているという。 これは日本の小学校の4倍以上の量である。 しかも興味深いのは小学校での漢字の学年配当が、1年生―750字、2年生―850字、3年生―600字、4年生と5年生がそれぞれ500字ずつ、六年生―400字と上級に進むほど逓減している点である。 これは日本の場合と全く逆であり、脳生理学からみても極めて合理的であることは高く評価すべきであろう。


まず人間形成の視点から

 さて 「 詰め込み教育 」 是正への要求はもはや天下の公論であるといっていい。 いよいよ実質審議の日程に入ろうとする文部省の教育課程審議会も、一方、すこぶる大胆で、意欲的な中間報告を発表した日教組の中央教育課程検討委員会も、過密化した現在の教育内容を抜本的に改革しようとする方向においては全く軌を一にしているようである。 だが解決の方途はそんなに容易ではなさそうである。
 大体、43年におこなわれた前回の教育課程の改定も、審議の出発点では今度とほとんど同じ意気込みであった。 「 基礎内容 」 を重視、全体を 「 精選・集約 」 するという原則は全員一致で支持されたが、さて個々の教科の審議の段になると、俄然空気は逆転してしまった。 総論賛成・各論反対とはまさにこのごとである。 この点、教育課程審議会を学者の机上の空論の場であるとする批判は必ずしも当らない。 各教科の検討に入ると、文部省の専門担当官を中心に、エキスパートの教師が参加し、さらに時間数の分捕りには全国的規模の教科別圧力団体が動員されて、夜討ち朝駆けの攻防戦が展開される。 こうなると審議会委員など雛壇の飾り物に過ぎなくなる。 形式的には天降りでも、実質的にはかなり自主編成的側面をもっていたのが実情である。
 では一体どうすれば良いのか。 問題は第一に子供とは何かについて、共通の客観的な理解をもつことである。 第二は教科毎に先ず何を捨てるかを覚悟することである。 子供の発達段階に応じて、何を教え、何を教えないかについて合意が成立しない限り、詰め込み教育の解消など単なるお題目に終わるであろう。 さしずめ、小学校の低学年では国語と算数に重点を置き、理科、社会を思い切って廃止することが試金石になるだろう。 少くとも文部省も日教組もこの点では一致しているからである。 戦前は4年ないし5年で始まった理科、社会が戦後、低学年で割り込んだ結果、それだけ国語、算数の時間が減少して、思考力の訓練が弱体化し、逆に理科、社会そのものを底の浅いものにしてしまった。 教科は子供の人間形成のためにあるのであって、その逆ではないことを思い知るべきである。