痛ましい事件、ほんの数十年前では想像だにできなかった事件が連日のように頻発している。 小学生女児の誘拐殺人。 いたずら目的で、自らの欲望を充足させるためにいたいけな少女たちを何の躊躇もなく騙し、殺す大人。 親をまるでモルモットであるかのように、毒殺しようとする子ども、交際相手の女子高生が冷たくなったというだけの理由で、刃物で刺し殺す男子生徒。 企業のモラル低下などと悠長なことは言っていられない建造物の耐震構造設計の改竄。 建築士、建設会社、不動産販売会社に建設コンサルタントらがぐるになって、生命の危機につながるマンションやホテルを平気で建てる。

 今までの日本人にはなかったDNAがいつの間にか生まれ、畜生の類に落ちているような気すらして、背筋がゾッとなる。

 見るも無惨な現代日本人を解明するキーワードは 「 無責任 」 だ。 私たちの若いころには、 「 無責任 」 は日本人とは対極にある言葉だった。 男は家庭に責任を感じ、親は子に責任を負い、子は自分に責任を持ち、国民は地域、日本の国に責任を感じていた。 仕事に就けば自分の与えられた役割に責任を感じて汗と涙を流しながら歯を食いしばった。 責任をまっとうするために、忍耐と我慢、克己心を発揮して。 ある意味、それは悲壮なくらいで、もう少し肩の荷を下ろしては、と、植木等主演の映画 「 無責任シリーズ 」 がヒットした時代もあった。

 ところが今や、責任感はどこにもなく、本能のおもむくまま。 親、幼児、他人に危害を与え、金儲けのためには人の生命をも顧みない。 日本人はなんと愚かで、犬畜生にも劣る民族になってしまったのか。

 これは一犯罪者の問題ではない。 日本人全体が 「 無責任構造社会 」 を造りだしている。 官界、政界、財界、学界、言論界 ……。 あらゆる社会で無責任がはびこっている。 それはいうまでもなく、私たちが戦後養い続けた必然的帰結だった。 来るべくして到来した社会だ。

 なにゆえ、無責任社会に陥ったのか 。 一言でいえば、 悠久の歴史のなかで先人が育んできた、日本の伝統や文化、精神遺産を戦後、ことごとく破壊してきたからだ

 たとえば戦後教育。 戦後はびこったものに、個人主義、平等主義がある 。 個人主義というとハイカラに聞こえたものだが、その内実は家族の断絶、家の歴史の破壊にほかならない。 人は自分のやりたいように生きるべきだ。 個人の人権は尊重されるべき。 言葉はきれいだが、その裏にある義務や責任が戦後教育からはすっぽりと抜け落ちている

 日本の伝統的な価値観では、人は自らのためだけに生きているのではない。 社会、家庭、地域に責任を負いながら生きている。 それは今という横軸だけではなく、過去未来をも含めた縦軸の価値観まで高めたのが先人たちのすばらしい英知だった。 人としてこの世に生を受ける。 その瞬間、私たちは大きな責任を負う。 今まで営々と日本を築き上げてきた祖先とこれから生まれて来るであろう子孫たちに。

 われわれの先人は清貧に甘んじながらも、後世の日本民族の幸福と繁栄を願い、欲望を抑え、自分たちの生活を犠牲にして、資金を捻出し、鎮守の森や地蔵、神社仏閣をつくった。 日本各地に存在する数々の神社やお寺は、先人たちの想いの集積である。

 しかし、戦後の日本人は二千有余年の歴史のなかで先人たちが築いてきた伝統、文化、歴史をあっさりと放棄したばかりか、正反対の価値観を安易に受け入れた。 その挙げ句が現在の殺伐とした無責任社会だ。 たった半世紀余りで二千年の歴史を反故にした民族は世界のどこを見てもいない

 今が良ければいい、個人が一番大切という教育を、戦後受けた子どもたちが大人になり、その子どもたちの世代になって、私流に言えば横軸の価値観は何の疑いもない普遍的なものとして受け入れられている。 すると、どうなるか。 あふれる 「 ニート 」 。 働く意欲もなく、意志もない若者たちが急増している。 彼らは 「 やりたいことが見つかるまでブラブラしているだけ 」 と言い訳する。 親もそれを認め、 「 個人の自由だから 」 と就職を強要しない。 もっともらしい論理だが、日本の伝統的価値観に照らし合わせれば、これはひとつの犯罪である。

 職にも就かず、ブラブラとする。 これは裏を返せば社会の役に立っていないということにほかならない。 税金も払っていなければ、労働によって社会貢献するという道も拒否している。 親もそのことに気づかず、非難しなければ、若者も 「 誰にも迷惑をかけていないのだから 」 と平然としている。

 働かないこと自体が他人に迷惑をかけ、申し訳ないことなのだという認識がかけらもない。 ましてや、先人や将来の日本人への想いに至るわけがない。

 こうした価値観が究極になれば、自分のやりたいことのためには親や他人を犠牲にしてもどこが悪いという考え方につながる。 そこには罪の意識もなければ、後悔の念もない。 だから、親に毒を盛っても平然として食事を摂る少女や、建築基準を満たさぬ危ない建物をつくり、悪事がばれても他人に罪をなすりつけることばかりを考える輩がいても不思議でもなんでもないのだ。

 誤解を恐れずに言えば、母を毒殺しようとする少女や欲望のはけ口に小学生女児をつけ狙う男も、ある意味、被害者と言えるかもしれない。 むろん、擁護する気は毛頭ないが、彼らを非難しても、蔓延する凄惨な犯罪はなくならない。 この無責任社会を構成した戦後の指導者こそが告発されるべきである。 その原点を踏まえて、日本の伝統とは、継承されるべき精神とは何かを今一度見直し、日本の伝統と文化にのっとった良き社会を構築しなければ、根本的な問題は解決しないだろう。