文科省はゆとり教育の敗北を認めよ




なしくずしの新学習指導要領

弥縫策びほうさくそしりは免れない 》

 文部科学省は8月22日、小学校算数の授業で理解の進んでいる児童に対し、学習指導要領の基準を超えた発展的な学習を教える際の指導資料をまとめて、公表した。

 示された14事例のうち、 「3桁のかけ算」 「台形やひし形の面積の求め方」 「小数の割り算の計算の工夫」 など5事例は、新指導要領で消えた内容の 「復活」 だ。 筆算では3でよいとされていた円周率も 「3.14」 で復活した。

 また8月28日には、全国約1,700校の小中学校を 「学力向上フロンティアスクール」、200校の高校を 「フロンティアハイスクール」 に指定することなどを内容とした、 「学力向上アクションプラン」 を発表し、これら学力対策費を来年度予算の概算要求で、前年比5.5倍の77億円とした。 今年一月に遠山文科相の 「学びのすすめ」 アピールの内容を具体化したものである。

 以上、最近のふたつの動きは、新学習指導要領が 「学力低下を招く」 との批判を受けて文科省が 「ゆとり教育」 から軸足を明らかに動かしつつあることを示したものであろう。 しかし、 「学力重視」 への移行自体は大いに結構だが、やはり弥縫策の謗りは免れまい。

 何より、発展学習の指導資料が示されたのは、小学校の算数のみで、現在のところ他の教科はない。 また新指導要領は、既に施行されており、現時点での指導資料の公表は遅きに失したとも言える。 学力向上指定校も全国のほんの一部の学校でしかない。


《 役所のメンツに拘ることなし 》

 文科省が単に 「学力低下」 批判をかわすのではなくして、本気で 「学力重視」 に移行するのであれば、ここは役所のメンツに拘ることなく、一日も早く、新学習指導要領の廃棄を宣言することである。 この種の朝令暮改は国民も大いに歓迎するところである。

 ここで今一度、新指導要領が如何なる教育理念を背景としたものかを確認しておこう。 新指導要領を理論面から支えている国立教育政策研究所の関係者が執筆した 『学力低下論批判 』( 黎明書房 )には次のような記述がある。

  「確かに、学力を 『読み、書き、計算する力』 に限定して捉えることは、わかりやすく、国民一般の関心を呼び起す。
 しかし、それはIT時代にふさわしくない。 …分数にしても、小数にしても重要なことは分数や小数の意味を理解することであって、計算は計算機の方が正確かつ迅速にしてくれるのである。 子どもたちに分数や小数の不思議さやおもしろさを教えるべきであって、計算は計算機に任せるべきである。 同じことは 『漢字や英単語』 についても言える。 漢字や英単語など識別できれば充分で、正確にスペルしなくてもよい時代にある。 重要なことは、相手に伝えたい内容をしっかり持つことである。 正確に綴ることは電子事典に譲るべきである」


 しかし、簡単な分数や小数の計算が正確にできなくて、どうしてその 「不思議さやおもしろさ」 を理解できるだろうか? 基本的な漢字や英単語が正確に綴れなくて、どうして識別できるだろうか?


《 読み・書き・計算こそが重要 》

 この種の 「IT時代」 には 「読み・書き・計算」 は不要だとの論は、未来小説の読み過ぎというものである。 諸外国は、むしろIT時代にこそ、 「読み・書き・計算」 を基礎とした国民の学力向上が必要と認識している。 またそうでなければ、国際競争社会を乗り切れないと考えている。 一昨年4月に東京で開催されたG8教育大臣会合の議長サマリーも次のように述べていたはずだ。

  「知識社会は、重要な機会を提供すると同時に、現実的な危機をもたらすものである。 …労働市場で求められる技能レベルは高く、すべての社会は教育レベルの向上という課題に直面している。 高い技能レベルを身につけ維持できる者は、社会的にも経済的にも大成功を収めることができるが、そうでない者は安定した職業及び、その職業によって得るべき社会的・文化的生活活動に必要な収入を得る見通しも立たない状態で、かつてない疎外感の危険に直面している」

 労働市場でも、高い技能レベルを必要とするIT時代に、簡単な分数や小数の計算、漢字や英単語の読み書きができなくて、どう対応せよというのだろうか?

 各国は今、挙げて教育の 「再武装」 を行っている。 独り我が国のみは、 「一方的武装解除」 を行っている。 文科省は、ただちに 「ゆとり教育」 の敗北を認めるべきだ。





文科省は ゆとり教育政策を転換したのか
   まだ 「ことば遊び」 の域を出ていない


《 文科省の風向き変わった 》

 残念ながら、本年度から小中学校の授業時間も授業内容も大幅に削減された新学習指導要領が施行されてしまったが、最近の文部科学省の動きを見る限り、風向きがずいぶん変わったという声は強い。

 本年4月の新指導要領の施行に先駆けて、1月17日には、文部科学大臣名で 「学びのすすめ」 という緊急アピールが出された。 そこでは、カリキュラムの削減より大切であると主張してきた少人数授業や習熟度別指導の導入を認め、また基礎・基本の定着も明確に謳われている。

 さらに8月30日に出された 「新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成」 というやはり文部科学大臣からのメッセージでは、 「確かな学力の育成」 が第一項目にあげられ、 「国民の教育水準は競争力の基盤」 と明言されている。 そして、特筆すべきは、 「確かな学力の育成」 のための具体的な施策の例の中に 「教科書において、学習指導要領に示されていない 『発展的な学習内容』 の記述を可能とする検定制度の改善」 が明示されていることだ。

 これらの内容を見る限り、文部科学省は従来の 「ゆとり教育路線」 を見直し、学力重視路線に転換したと見る向きも多い。

 確かに 「ゆとり教育」 の名のもとにスカスカのカリキュラムを一律に押し付けてきたころと比べれば柔軟性はでてきたといえる。


《 批判をかわすだけの策か 》

 しかし、これらのことを謳った文部科学省のホームページを見る限り、これらの文面は、ことば遊びの印象が強く、本質的な政策転換とは見受けられない。

 このふたつの文部科学大臣名のアピールに共通するのは、これまでの教育の目標とされていた 「生きる力」 ということばを極力排し、その代わりに 「確かな学力」 なることばが出現してきていることだ。 しかし、このことばのなかみは 「自ら考える力」 を目標としている点では旧来の 「生きる力」 と変わるものではない。 知識の習得や計算力の育成を古い学力と切って捨てたこれまでの発想と変わるところはなく、批判をかわすために、多少の選択の自由を許しているに過ぎない印象が強い。

 要するに、 「ゆとり教育」 路線を推し進めてきた官僚や教育課程審議会の御用学者に遠慮して、これまでの教育政策の何が悪くて、どの部分を改めるべきかの総括がまったくできていない のである。

 旧文部省が初めてゆとり教育路線を採用したのは、1977年の学習指導要領改定時である。 しかし、カリキュラムを減らしたにもかかわらず、授業についていけない子は減ることはなく、この減らされたカリキュラムを受けた小学生が大学生になる90年代に入ると大学生の学力低下が問題にされ始めたのである。

 しかし、89年に指導要領を改定する際には、この事態について、何ら総括されることなく、カリキュラムをさらに減らすことになる。

 ただし、カリキュラムを減らすだけではいけないという議論になったのかもしれないが、生徒の評価方法が大幅に変えられることになった。 ペーパーテストで測られる学力( 諸外国では学力といえばこれを指す )は古い学力だときって捨てられ、 「新学力観」 なることばが登場する。


《 うわべの 「改善」 で解決せず 》

 これに伴って、 「観点別評価」 が採用される。 ペーパーテスト学力だけでなく、意欲や態度も評価の対象にしようということになって、主要科目の内申点は、中間テストや期末テストなどの平均点でなく、教師の授業態度の評価などを交えてつけられることになった。

 カリキュラムの削減のみならず、この教師の主観の入った評価システムは、学力低下に大きな影を落としたと考えている。 いくらいい点をとっても教師に嫌われたら内申でいい点がつかないと生徒に思われるのでは、彼らの意欲をかえってそぐだろう。 ついでにいうと、生徒のメンタルヘルスにも悪いようで、この評価システムの採用後、中学生の不登校、ひきこもり、校内暴力などが急増した

 しかし、教育課程審議会は、この評価システムに何の総括も加えず、本年度のゆとり教育導入の際に、さらに発展させるように答申し、生徒間評価の導入まで提言している。

 失敗を分析したり、改めるのでなく、これまでの政策は全部是にした上で、何かを追加する形( 今回の場合は、教科書の制限撤廃と少人数クラスの導入 )で 「改善」 すればよいと考えている限りは、学力低下の流れに歯止めがかかるようには思えない。





学力劣化に耐えられず

 むかしの寺子屋は 「読み書きソロバン」 が主力だった。 冬のすきま風などものともせず、静座で声を張り上げた。 遺憾ながら、いまどきの大学生より洟垂れ小僧の方がよほど暗算がうまかった。
 かつて国際標準を上回っていたわが中学の数学授業時間数はいま、年間105時間で世界最低クラスだ。 改定されるとしても200時間のインド、シンガポール、台湾、ベトナムに遠く及ばない。
 社会党が騒いで高校が全入になり、いまや大学が全入に近くなった。 「教育の普及は浮薄の普及なり」 という金言に従えば、やがて国まで危うくする事態がくる。
 理工系大学院の修了証をいまの企業人は信じない。 学生の中には、交流の電圧が100V、乾電池が1.5V さえ知らない者がいる。 微分積分、三角関数どころか、電卓がなければ2ケタのかけ算すらできない。

 これは最近、自動車部品メーカーの技術担当役員から聞いた本当の話である。
 院生にしてこれだと学部生においてをやである。 算数さえ危ういから私学の幾つかは学習塾に教師派遣を依頼して補講をしている。 「高校数学」 の講座があることが逆に大学の“売り”になっているというから呆れる。 そんな大学の理工系学部はいらないと思うが 「いや、ドングリの背比べ」 と聞いて事態の尋常ならざるを知った。
 ただ、 「ゆとり世代」 の学生たちにその責任をすべて転嫁しては気の毒な気もする。 高校までの学習内容が3割削減され、学習機会が剥奪されているのに周囲の冷たい視線にさらされる。

 都内のある大学を訪ねると、学生たちが中国人留学生を支援して、四川大地震の災害支援のカンパを募っていた。 彼らの正義と誠意を四川にだけでなく、ミヤンマーのサイクロン災害にも振り向けてほしいが意欲は買いたい。 それでも、理工系の大学院教授の顔つきはさえなかった。
 先端技術の講座を持つ主要な大学院では、院生のおよそ半分が中国人留学生に占められているのだという。 留学生たちは学業に貪欲だから知識、技術の吸収が早い。 彼らが帰国して米国や欧州の留学組に合流すると、世界最強の技術が生み出されることになる。
 部品メーカーの役員は、 「とくにハイブリッド車や燃料電池車の分野で、日本勢が中国に追い抜かれる日がくる」 と危機感を語る。 最先端技術であるほど容赦なく、かつ合法的に流出していく。
 そんな現状なのに日中首脳会談が開催されると、わが首相は 「3000人の中国人留学生を受け入れる」 などと安易な約束をする。 国の決定に国立大学はいやでも配分を受け入れなければならない。
 こうなると、企業も独自防衛に乗り出さざるを得なくなる。 入社試験では 「人柄重視」 「協調性」 をやめ、 「学力重視」 に切り替える。 人柄重視は基礎学力があって初めて意味があったからだ。

 近ごろは企業が独白の社員向け再教育機関を開設するところが増えている。 だが、モノを教えて給料を払う矛盾にいつまで耐えられるのか。 桜美林大学の芳沢光雄教授によると、日本企業が自国の学生に見切りをつけ、中国人やベトナム人を大量採用する日だってそう遠くないかもしれない。
 教育劣化の特効薬を先の役員に聞くと、 「弥縫策だけでは役立たない。 ゆとり教育の以前に戻せ」 と明確だ。 お国の教育政策に焦りとともに怒り心頭なのである。