ゆとり教育理念はまちがい




 朝日新聞社説を見てみた。 「学校教育にこそ 『ゆとり』 を」 ( 2007年2月17日付朝日新聞社説 )とある。

 朝日新聞は以前にもこの社説と同様な趣旨の左翼系の学者の論説を載せていた。 ( 識者の威を借る朝日お得意のパターン ) どうにもこうにも子供の自主性を尊重したくて仕方がないらしい。 子供という生き物は自然にまかせておけば自発的に勉強し、どんな子でも勉強ができるようになると思っているらしい。 子供性善説である。

 たぶん朝日新聞や左翼のお偉方は子育てをすべて奥さんまかせにして、マルクスの本を読みすぎたんじゃあないか。 あまりにも子供の実態を知らないを言わざるを得ない。

 詰め込み教育への反省に基づき、教える内容を絞って、どの子にも基礎学力をつけさせる。 知識だけを重んじることを改めて、考える力や自発的に学ぶ態度を身につけさせる。 個性を重視する。( 社説より )

 いかにも朝日らしい言い分だ。 しかしながらその朝日も 「 ゆとり教育 」 が結果としては失敗であったことは認めている。

 理念は正しくても、その実践は失敗だったといわざるをえない( 社説より )

 以前、朝日を含む左翼は社会主義が崩壊した時も同じことを言っていた。 社会主義の理念は正しいが( マルクス・レーニンは○ )、実践は失敗だった( スターリンは× )、と。

  「 ゆとり教育 」 は理念からしてまちがっていたのだ。 そもそも子供という生き物はきびしく鍛え上げなければまともな人生など送れはしない。 またいくらカリキュラムにゆとりを持たせてもできない子はできない。 かえって授業時間が減らされた分、落ちこぼれが多くなる。

 見直すべきは授業時間ではなく、授業内容である。 十分な授業時間があってこそ、ゆとりをもって教えることができるのだ。 また授業内容もただ減らせばよいというものではない。 かえっていろいろなことを教えた方が理解が増すこともあるのだ。 ( たとえば私は高校生の時に数学で積分を習った時はさっぱり理解できなかったが,その後に”極限”を勉強したら積分が理解できた経験がある。 また小学校の時に苦労したつるかめ算が中学で連立方程式を習ったら簡単に解けるようになった経験は誰にでもあるでしょ )

 つまり教科内容というのはいろいろつながっているのであって、いろいろなことを習っておいた方がかえって理解が深まるのである。 できの悪い子ほど長い時間をかけていろいろなことを習っておくべきなのである。 小学生の時、つるかめ算はできのいい子しか理解できなかったでしょ。

 基本的に子供の頭にはさまざまなことを詰め込まなければならない。 議論すべきは詰め込む内容であって、量ではない。


《 ゆとり教育と社会主義 》

ゆとり教育とかけて社会主義と解く。 そのココロは共に性善説。

 20世紀初頭、性悪説を前提としていた資本主義のさまざまな矛盾が明らかになり、社会主義という考えが浸透した。 人間とは本来善なるものだ、もっと人間の善を信じる社会を作ろうではないか、ということで前世紀後半から次々と社会主義国が生まれた。 そこでは資本主義と異なり、競争のない、人間性を大切にする理想的な社会が形成されている、と考えられてきた。

 ところが実態はどうだったか。 性善説を前提とした社会は実は資本主義社会に勝るどころかはるかに劣ったものであった。 一世紀近くにわたる”壮大な実験”は見事失敗に終わったのである。

 しかし社会主義を支持してきた勢力はすぐにはその失敗を認めなかった。 曰く 「 社会主義の理念は正しかった。 その実践が失敗だったのだ 」

 この話はゆとり教育にもそっくり当てはまる。 推進派は言った。 「 詰め込み教育が落ちこぼれを生み、子供が画一化した。 それは子供性悪説で子供の人権や個性をあまりにも無視したものであったからだ。 もっと子供の人権を尊重しよう。 子供を信頼し、教える内容を減らそう。 そうすれば子供は自主的に好きな勉強をするようになる。 指導ではなく支援だ。 子供は本来善なるものである 」

 しかしその結果は?日本の子供の学力の低下が明らかとなり、ゆとり教育は失敗であることが明らかになった。 ゆとり教育を進めてきた人たち( 左翼ないしはリベラル派が多い。 社会主義を支持してきた勢力とほぼ重なる )はこの結果を次のように総括した。

理念は正しくても、その実践は失敗だったといわざるをえない。 ( 2/17日付朝日新聞社説より )

 何と社会主義が崩壊した時の言葉と似ていることか。 社会主義は結局実践の失敗ではなく、性善説を信じすぎた理念の失敗であった。 ゆとり教育もまた同じである。


《 子供の学力低下について 》

 日本の小中学生の学力が国際的に低下しているという。その理由はいろいろであろうが、衆目の一致するところはやはりここ数年来続けられてきた“ゆとり教育”と称するカリキュラム削減であろう。

 一昨年、ちょうど私の第一子が小学生になる年に学校は完全週5日制になった。当然のことながら学校で学習する分量も以前と比較して減ってきている。円周率を3.14ではなく3と教える、などといったことがその象徴である。

 個人的にはこんなにどんどん学習内容を減らして行ってしまって大丈夫なんか?とずっと思っていた。人間の頭のキャパは変化しないのに学習内容だけ減らせばどうなるか。

 トップクラスの連中は学校の勉強だけでは物足りなくなるし、中学受験などをしようとすれば当然エクストラな勉強が必要となり、それを教わるために進学塾へ行く。進学塾はますます栄える。大多数のフツーの小学生は学習内容が減って休みも増えるから確かに時間的余裕が出てくるが、親が格別な指導をしなければその時間はおそらくファミコンをやったりテレビを見たりといった子どもにとっては非生産的な活動に費やされることになるだろう。

 文部科学省は子どもを買いかぶっていたのである。学習内容を減らして生活にゆとりを持たせれば子供は自主的に何か生産的なことを始めるであろう、と。つまり子ども性善説である。過重な学習内容が子供の自主性を奪っている、悪いのは子どもではない、多すぎる学習内容だ、学習内容を減らせば子どもは本来持っている自主的能力を開花させ、すばらしい人格ができあがる、という考えである。

しかし私は子ども性善説には与しない。私の考えはむしろ子ども性悪説である。

 子どもというものは本来放置しておけば何ら将来に資するような生産的なことはしない人種である。たとえば子供にもしご飯+おかずとお菓子+アイスクリームを与えて自由に好きな方を食べていいよ、といったらどちらを食べるだろうか。

 当然後者であろう。ご飯+おかずよりもお菓子+アイスクリームの方がおいしいから。うまいものを食いたいというのは人間の本能であるから、あまり美味しくなくとも身体に大事な食べ物よりは身体にはあまりよくなくてもおいしいと思うものを子供が食べようとするのは当然のことなのだ。

 そもそも慢性的飢餓状態にあった原始時代の人類はうまいと思うものさえ食べていれば健康を保つことができたはずなのである。(今でもアフリカなどの食糧不足の国などではそうであろう)ところが飽食の時代となり、現代のように虫歯やカロリー過剰の問題が出てくるとこうした食への本能をコントロールする必要がでてきた。

 そのために幼少の頃からのしつけが大切になる。うまいと思うものよりは身体によいと思うものを親が判断して子供に与えなければならない。つまり現代では食の本能は教育やしつけで矯正しなければいけないのである。

 学校教育もまたこうした考えの延長上にある。ゆとり教育が叫ばれた時、”指導よりも支援を”ということが言われていた。しかしそもそも”支援”などという言葉は誰かが自主的に一生懸命にやっていることを周りの人間がassistすることである。つまり自主的に何かをやろうとしているということが前提なのである。

 たしかに小学校低学年くらいの子どもでも何かに熱中することはある。そうした子どもの熱意は大切で、基本的には何に熱中しているかは問わずそれを親がassistしてやることは望ましいことである。これこそがまさに”支援”である。

 しかし子どもの時は好きなことだけをやっているわけにはいかない。たとえば体育に異常に熱意を燃やす子どもに、おまえは体育が好きだから学課は免除してやるよ、というわけにはいかない。きらいなこと、いやなことでも将来のために子どもの時にはやらねらならない。

 きらいなこと、いやなことを自主的にやる子はいない。(これは人間の本能だから大人でも同じだろう)だから周りの大人が強制的にやらせなければいけない。これを”教育”というのだ。つまり教育というのは子どもが自主的にやろうとすることを”支援”するのではなく、やりたくないことを将来のために”強制”することなのだ。

 かつては”詰め込み教育”という言葉が世上に踊っていた。”ゆとり教育”は詰め込み教育への反省から生まれたのであろうが、はたして詰め込み教育は教育法として誤っていたのか。

 私は詰め込み教育はまちがっていなかったと思う。子ども性悪説からすれば子どもというのはきびしくしつけ、頭のやわらかいうちに生きていくために必要な膨大な智恵、知識を叩き込まなければならない。詰め込み教育というのは子どもの頭に叩き込む内容が問題だったのであって、量の問題ではなかったのである。

 文部官僚はここのところを誤解していた。暗記偏重がよくないということで暗記させる量を極端に減らしてしまった。そのかわり物事を考える力をつけさせる、というのである。

 しかし物を考えるにはある程度の知識がいる。たとえば英文学を原書で味読したければ膨大な量の単語を暗記しておかなければならない。辞書を引き引きの原書講読では辞書を引くのに手間が取られて内容の理解までなかなか頭が回らない。この単語の暗記という壁を克服した者は原書に耽溺する喜びを享受できるが、ここでつまずいた者はそうした知的楽しみを味わえないのだ。

 ピアノの練習などでも子どもの時に苦しいハノンの勉強をやってピアノの指を作らねばならない。その苦しみは英単語の暗記同様無味乾燥なものであるが、ここを乗り越えた者は楽しいピアノ演奏の世界を楽しめるのだ。

 文部科学省がめざした子どもの創意工夫などというのもしっかりとした知識の集積があってこそのもののはず。物を考える楽しみにはその前提として膨大な知識の習得という作業が必要なのだ。小中学生にそうした楽しみを味合わせたいと思うのならば苦しい知識の詰め込みは必須なのである。

 結局文部科学省は詰め込み教育への批判に対し、学習内容を吟味するのではなく、単純に削減するという政策的過ちを犯した。今回の学力調査の結果はここ数年のこうした政策の誤りを白日のもとにさらしたといえる。子どもは誤った政策の犠牲者だ。学力低下に関して子どもには罪はない、と私は思う。

補遺;やはり学校の週5日制はよくない。以前のように子どもは土曜日も学校にいかせるべきだ。大人の労働時間の短縮はおおいにけっこうだが、子どもはやはりもっと勉強させるべきだ。オヤジが土曜日にも仕事に行って(私もそうだがまだまだ土曜日も働いているお父さんは多いだろう)子どもが休みで家にいる、ってやっぱりおかしいと思いませんか?

<結論>
放置すれば子どもはろくなことをしない
子どもにはもっと勉強させよう
子どもは土曜日も学校にいかせよう
詰め込み教育は悪いことではない
創意工夫と智恵はしっかりとした知識の裏付けから生まれる
知識と知恵は車の両輪の如し

孔子曰く。
学んでおもわざるものは即ちくらく、思うて学ばざるものは即ちあやうし


《 初等教育の重要性について 》

 初等教育の大切さについては論を待たない。 将来どんな職業につくのであれ、字が読めないとか、計算ができない、あいさつもできないではどうしょうもない。 現在の先進国と発展途上国とを分けているのも結局はこの初等教育の差である。

 日本が明治になって急速な近代化が可能であったのは実は江戸時代における寺子屋教育の著しい普及があったからである。 明治初頭の日本国民の識字率は当時のイギリスよりも高かったというが、全国津々浦々まで寺子屋があり、江戸期の日本人は農民であれ何であれ、とにかく子どもの教育には熱心であった。

 幕末に日本に来ていたイギリス人オールコックはこの日本の実状に驚き、 「 この国は石炭と蒸気機関があればあっというまに産業革命を起こすことができるであろう 」 と言ったという。 とにかくこうした江戸期の土壌があったからこそ明治になってからの国家による初等教育もスムーズに軌道に乗り、ひいては国家が発展していったのだといえる。

 離島の中でも、そのまたへき地の田舎でも〇〇小学校創立百何十年などとなっている。 「 教育は国家百年の計 」 のスローガンのもと、乏しい財政の中でとにかくこんなへき地にも明治草々に小学校を建てた明治政府の慧眼には恐れ入る次第である。

 フィリピンやメキシコ、インドネシアなどの発展途上国に行ったことがあるが、共通していたのは子どもが働いていることであった。 交差点などでクルマに乗って待っていると必ず子どもが新聞やら何やらを売りにきた。 大通りでいろんなものを並べて売っているのはたいてい子どもだった。 目にはつかなかったが家の中などでも子どもは子守りやら水汲みやら何やらで一生懸命働いていたことだろう。 先進国で行ったことがあるのはアメリカだけだが、3ヶ月住んだけど無論アメリカで子どもが働いている姿を見かけたことはなかった。

 このように、発展途上国では子どもは貴重な労働力なのである。 4〜5歳くらいになればその労働力が期待されるのが当然のこととなっている。

 しかし、本来子どもの時期は勉強をさせなければならないはずだ。 いくらその労働力がのどから手が出るほど欲しくとも、子どもには労働は免除させて勉強させなければならない。 米百表の話ではないが、今を犠牲にしてでも学校を建て、子どもを教育しなければならない。 現在先進国と呼ばれる国は皆こうした初等教育のテイクオフを経験してきた。

 かつては日本やイギリスなどのような先進国でも、子どもが働いていた。 ( マルクスの「 資本論 」などには産業革命初期のイギリスにおける子どもの工場労働の様子が描かれている ) しかしそれではそのときはよくても将来の国の発展はない、と先人は思い、それぞれの親の世代は、自分の身を削って子どもへの投資に回した。 そしてそれが成功した国は民度が上がり、無意味な内戦なども避けて国民が一丸となってよい国家作りをめざし、豊かな国となった。

 だが現在発展途上国と呼ばれている国は、親の世代が身を削って子どもへと投資する余裕がない。 今目の前にいる子どもは早々に労働力と化し、勉強をさせられない。

 水汲みのような単純労働ならばよいが、教育を受けない結果字も読めないから、たとえば機械のマニュアルも読めず、結局質の高い労働力とはなれない。 労働力の質が悪いから産業が発展しない。 雇用が生まれない。 貧乏である。 したがって子どもへの投資ができない。 という悪循環に陥っている。

 さらに、教育を受けていない国民では、国民一人一人の独立した人格と判断を前提とする民主主義はできない。 他人の煽動に載せられやすく、独裁者が出てくる土壌を残す。 ( 但し民度が高くとも独裁者が出る土壌は育つ可能性もあることはヒトラーを生んだドイツが証明しているが ) 

 内戦が絶えない国は貧困のために一様に国民の民度が低い。 ゲリラやテロの原因は貧困による民度の低さである。 十分に喰っていける国富があれば、誰だって銃を取ったりはしないだろう。 その貧困の根本的原因は初等教育の欠如である。 だから世界からゲリラやテロをなくすためには遠回りでも発展途上国の初等教育に力を入れていくしかない。 表面的な援助などを行っても先進国の自己満足に終わるだけだ。

 さて、翻って今の日本はどうか。 先人の苦労のおかげでこんなに豊かな国になった。 そして教育熱心な土壌は今も根強く続いている。 これはよいことなのであるが、これからの日本は子どもの教育に関しては少し視点を変えていく必要があるように思う。

 これまでは親が子どものために身を削ることは美徳とされてきた。 「 子どもさえ豊かになってくれれば自分はどうでもいい、しっかりお金をかけて子どもを教育せねば 」   「 自分はツギハギだらけの服を着てでも子どもにはよい服を着せたい 」   「 自分は家が貧乏で大学に行けなかったから子どもにはなんとしてでも大学に行かせたい 」  云々。

 これらは確かにすばらしいスローガンである。 だが先人の苦労によって豊かになった今の時代、親の世代が子どものために身を削る精神はもう美徳ではなくなっていると思う。 豊かな時代の今の子どもは親が自分のために犠牲になったとて別にありがたがりもしないし、かえってカネをかけると子どもがだめになる時代である。

 豊かな今の時代において、どうすればよりよい教育を子どもに受けさせることができるのか、再考すべきである。 発展途上国の実状、初等教育の歴史などを学び、わが身を削ることなく子どもを教育することができる現代のありがたさを思い、また先人の苦労などを子どもに伝えていくべきであろう。

 そうすれば子どもはまた、発展途上国でろくに初等教育を受けられない同世代を鑑みて、あるいは昔の、教育さえまともに受けられなかった時代を振り返り、初等教育を受けられるありがたさを少しは理解すると思う。

 親というものはいつの時代でも、可能ならば子どものために自分を犠牲にするのはいとわないものではあるが、自分を犠牲にすることなく子どもを教育できればもっとすばらしいことではないか。