ゆとり教育と総合学習




 今月18日の中山文科相の 「 総合学習見直し 」 発言は、教育現場に新たな火種を持ち込んだ。
 この 「 総合学習 」 の行く末はこれからの地域社会、ひいては日本の将来を左右する要因になるのではないかと考えている。

 そこで、この総合学習に対しての意見を主に最近の新聞記事、インターネット上の記事や掲示板などから拾って考察してみることにした。


< 教育関係の方 >

【 廃止または抜本的な改革派 】
実質的に勉強時間が削られているのだから、( 学力を向上させるよう )現場に努力しろと言われても限界がある。 理科は数年前の週4時間から、週2,3時間に減った。 入試の勉強をする余裕はない。
個々の教科の充実を通じてこそ達成できる 『 生きる力 』 の育成を、総合学習でやろうとしたのが間違い。
総合学習は、時間をかけている割りに成果が上がっていない。 体験が学びに結びついていない。
教科書がないかわりに、教員の力量によって学習内容に差が出てくる。
読解力が低く漢字も苦手なため、数学の問題すら理解できない子もいる。
そんなに強要されてやる気もないし、それだったら主要5教科を進めるべきだと思う。 現にテスト前なのに総合をやっていて範囲が終わらない現状がある。
外部に頼むという選択肢もあるが、ボランティアが協力的な地域は限られており、そうでない場合には予算もかかる。 そして予算には限度がある
 
【 存続派 】
地域の人の話を聞いたり自分で書物を調べたりすることで、子供たちの学ぶ意欲が育った。
川に遊びにいくことの何が悪いのか。 低学年ではいろんな生き物を獲ったり、分け合ったり、時にはケンカもしながら子供は夢中になって遊ぶ。 そうやって試行錯誤していくうちに人間関係の作り方を学んでいく。 図鑑で名前や飼い方を調べたり、日記や作文、絵の材料にもなる。 中学年では、そんな楽しい川がなぜ汚くなったのか、これからどうしなければいけないのかを課題にして発表をした。 子供たちの表情はこれ以上ないくらいに充実していた。
総合学習はようやく軌道に乗ったばかり。 導入から三年でようやく教師が対応し始めたところ であり、見直しははっきり言って時期焦燥。
総合学習の導入は生きる力を育てようというのが国の大きな狙いだったはず。
今一番求められているのは心の教育。 これ抜きに基礎学力は語れない。 学力低下の原因が、総合学習にあると見るには検証が必要だ。
学習意欲とコミュニケーション能力については総合学習があることで救われている。 なくせば深刻な学習意欲の低下に陥るに違いない。
家庭での学習や地域での学習が希薄になった現在、子供の 「 社会で生きていく力 」 をつけるためには、単なる国語や算数というような教科では不十分。
 
【 その他 】
( 文部科学省が )朝令暮改では現場が混乱する。
OECD( 経済協力開発機構 )の調査結果を受けたいつもの揺り戻し。
国の方針が揺れ続けて、最終的に犠牲になるのは子どもたち。
学力低下は20人程度の少人数制クラス編成で解決すべき。


<生徒の側の意見>

【 廃止または抜本的な改革派 】
「 総合学習 」 の時間はお喋りをすることは当たり前、授業をサボるいい時間だった。
具体的な模範が存在していないため、生徒自身のモチベーション、意欲がその人にとっての総合の時間を大きく左右している。
学力のことを思うと、やはり主要教科をやったほうがこれから先の為にもなるのではないか。
総合学習は、遅れている授業の埋め合わせだったり、単なるホームルームであることが多かった。
道徳すらまともに扱っていない学校が多い中、やる気がない先生に当たってしまった場合、得るものがあるとは思えない。
 
【 存続派 】
総合学習の時には、友達と班を作り、楽しく一緒に学び、学習したことを新聞などにまとめて、クラスのみんなの前で発表した。 友達と一緒に学んだことで、今まで以上に仲が良くなった。
確かに、数学などの授業数は昔に比べ減っているようだが、地域のことなどを学ぶということも重要だ。
進路についての学習の時間があまり無く、世の中にどのような職業があり自分が何をしたいかが分からなかったのでこのような時間は有意義。
学力低下よりも、まず第一に生徒の将来的な好み、適性、目標をつけるべき。 学力は、自分が将来的につきたい職業や目標が決まれば自然とついてくるはず。


<一般の意見>

普通の教師に、総合学習をゼロからプロデュースさせて、生徒の考える力を養うなんていうのは、はじめから夢物語のような無理な構想。
教師に任せすぎ。 全体でサポートするべき。
総合的に考えたり、自ら問題を発見し、解決するという総合学習の趣旨について、それが最も出来ない大人は 「教師」 ではないか。
総合学習の見直しではない、必要なのは教師や親が一から 「 教える 」 という事を根本的に学ぶ事だ!
教育方針が教える側の判断だけで、こんなに簡単に見直しされて、子供は学校・教師に対する信頼を維持できるだろうか。





 現状はどの立場の方も廃止または抜本的な見直しの声が多いようだ。
 廃止派は、主に基礎学力向上が必要なことを前提として、総合学習への疑問とそれを行うことの非合理性を説いている。
 ゆとり教育の方針により、完全週休二日制になり、さらにその中の週2〜4時間が総合学習に充てられるのだから、その苦労も理解できる。
 子どもたちや両親の希望の上位を占めるであろう進学への要望を叶えるためには、現状では時間的に厳しいのかもしれない。
 ならば、ベースを以前の詰め込み教育、点取り教育に戻すべきなのだろうか。

 存続派は概ね成功体験に基づいて意見を構築している。
 自分たちで課題を見出す⇒調べる⇒解決する⇒新たな課題を見出すというプロセスを体験し、克服していく様子が確かにイメージはできた。
 このような成功事例は数少ないが、 「 総合学習 」 がうまく機能すれば、社会を新しく切り開く能力= 「 生きる力 」 に長けた子どもたちを育成できるのではないかという可能性を感じる。

 しかし、問題は成功事例がかなり少ないのではないかということだ。
 そしてそれは現場の教師の方の能力不足に起因していると考えられる。
 といっても彼らを決して愚弄するわけではなく、この授業を意義あるものにするためには企画力、構成力、知識と教養、これらを統括して子どもたちを導く能力が極めて高いレベルで要求されるはずだからだ。
 総合教育の授業は担当教師の裁量に大きく左右されているのが実情だろう。
 この点で前の日記で述べたように外部スタッフの導入も選択肢の一つであると思う。
 ( 予算は別な手段で解決しなければならないだろうが )

 また、 「 知識=基礎学力 」 という構成要素がないと 「 考える力 」 は育たないという意見もあった。
 その知識を教える時間を削って総合学習が成り立つのかというものだ。
 確かに知識が多い方が、問題処理は簡単に済むだろう。
 しかし、少ない知識でも問題を見出すことは可能だと思う。
 要は、成長レベルに応じたアプローチができるかということではないだろうか。

 例えば地域でゴミの分別が守られていないという問題があったとする。
 小学校高学年の授業では、社会の授業でそれなりの知識は入っているはずだから、現状を調べ、しかるべき役所の担当部署を調べ、最終的には行政で解決する手段を模索する方向へ導くべきだが、低学年ならば、ゴミの種類を分けることからはじめ、まず自分の家庭から決まりを守るように道筋を立てるといったように。

 どちらを重視しどちらを蔑ろにしていいという問題ではない。

      ◆

 この問題を追ってみて感じたことは、文部科学省や現場の教師への枝葉末節的な批判が目立つことだ。
 文科省の朝令暮改体質やナタで振ったような指示は確かに改めるべきだが、その批判に始終し、特に教える側から 「 今の子どもたちに必要なのは何なのか 」 を浮き彫りにするような意見や論調が、ほとんど隠れてしまっているのはどうか。
 文科省や担当大臣への公務員というよりはむしろサラリーマンのぼやきに近いような発言が現役の先生から驚くほど多く聞かれたのが非常に残念だ。

 この春も子供達が新品のランドセルを背負う。
 そもそも教育とか学力って何なのだろうかと改めて思う。
 受験という規格に適合するための優れた工業製品を生み出すことではないし、親もそれが幻想であることをもういいかげん気付くべき時期なのではないだろうか。

 結論めいたものを提示することは叶わなかったが、以降も何かしらの形でこの 「 総合学習 」 を追いかけていくつもりである。











 全ての教育機関において共通する理念は、 「 ゆとり 」 「 ふれあい 」 「 自主性 」 「 生きる力 」 など文部省が現在使用している意味不明な美辞麗句のオンパレードでありました。

 地方分権という美名はどこへ行ったのやら、どこを切っても 「 金太郎飴教育 」 という感想を持ちましたし、一つ一つの教育にどれほどの信念と真理への確信をお持ちなのか、はなはだ疑問を持った次第であります。

 たとえば、 「自主性」 や 「自ら学ぶ」 という名の下に、寝っ転がったり、校長先生を○○さんと呼ぶ教育 に対して、ある人の思想を持ってきて( ジョン・デューイなど )理屈をつけてはおりますが、その方の思想界における評価はいかばかりなのか、また、歴史的評価は固まっているのかどうか、また、はたしてそのような教育が子供たちの将来にいかなる影響を及ぽすのか、過去の歴史の中で考えられてきた教育方針はまったくの間違いであったのか、どこまで真理というものを把持した中でその教育方針が実行されているのか、非常に疑問を持った視察になり、ある意味において非常に参考になる視察になったと思います。

 また、何かと言えば、 「体験学習」 と称する、私から見れば、遊びとしか思えない教育 についても一言述べてみたいと思います。

 言葉は悪いのですが、 そのような教育は、発展途上国に行けば日常の生活でいくらでも見ることができる風景 であります。

 日本という国は、敗戦後の焼け野が原( 発展途上国 )から国民の勤勉さと精密な技術力により、現代日本を作り上げてきたことは、周知の事実 であります。

 その過去の先人の方々の努力にあぐらをかいて、発展途上国にタイムスリップするような教育が果たしてこれからの日本にとっていかなる結果になるかと思うと、非常に震憾する状況ではなかろうかと思えてなりません。

 一定の基礎知識なくして 「自ら考え、自ら判断し、自ら行動する力」 など持ちうるはずはなく、知識と言うものがいかに学校教育に必要なことかを、ひょっとしたら今の教育関係者や先生方はご存じないのではなかろうかと危倶する 次第でありました。

 ピーター・ドラッカーはその著書 「 断絶の時代 」 の中で、これから求められるものは 「 知識の裏づけのもとに技能を習得し続ける者である 」 と言っております。

 学生時代から刻苦勉励をなし、強い精神力を養っておかなければ、将来大人になったとき、本当の意味で多くの人たちのお役に立てないということを、子供たちに教えておくことこそ大切なことではなかろうかと思いました。

 加えて、 「 体験学習の欠点 」 を述べるとするならば、確かにその子にとっての一つの貴重な体験にはなるとは思いますが、それが必ずしも真理ではないということです。 あくまでも個人の経験であって、それが普遍化するかどうかはわかりません。
 体験学習をするからにはその中から得られる普遍化するものをしっかりと教えてあげなければ、逆に偏った経験でものごとを判断することになる危険性があるのです。

 その経験の中から普遍化する真理や教訓を取り出すのは、私たち凡人にとっては至難の業であるということをはたして先生方はご存じなのだろうか、また、その体験学習から得られる真理を先生方はご存じで授業を行なってあるのか、非常に疑問を持った次第です。

 逆に、過去からの普遍化できるであろう人類の英知を知識として教えてあげるほうが、どれだけ子供たちの将来に役に立っかと思えば、 「 少年老い易く学なり難し 」 という諺のように貴重な時間をもったいないなーと思ったのが正直なところでした。

      ◆

英語教育についての一考察

 近年、英語教育を小学校から行なう予定だと聞いておりますが、今回視察した学校でも行なわれていましたので、その感想を述べてみたいと思います。

 確かに子供たちは喜んで授業を行なっていたようにも思えましたが、これは、単に新しいものを学んだという、人間の本能に伴う嬉しさなのではなかろうかと思っています。

 小学校から始めた場合と中学校からとでは、初期段階での差はあるがその後はあまり影響がないという話も聞いておりますので、小学生からわざわざ英語教育を行なう必要があるのか疑問を持っておりますし、その貴重な時間で、他にもっと大切な教えるべきことがあるのではなかろうか と危倶しております。
 また、学習レベルとしては非常に幼稚なレベルであると思わざるを得なかったということが正直な感想であります。

 更にもう一つ言えることは、やはり 基礎学力を充実させなければ、いくら英語を読めたとしても意味が分からないということです。
 英語をぺらぺら話せる人がインドに行って英字新聞を読むとまったく意味が分からなかったという話を聞いたことがあります。
 つまり、インドについての知識がないために、インドのことをいくら書かれても、単語はわかっても意味がさっぱり分からない ということなのです。
 やはり、先ほどもいったように、基礎知識あっての英語教育を行なわないとあまり効果はないのではなかろうかと思います。
 また、国際化という理由で英語教育が行なわれてもいるようですが、外国に行ってまず必要なことは逆に自分の国のことです


 ソクラテスは 「 汝自らを知れ 」 と言いましたが、正しく必要となるのは 「 自国の伝統・歴史・文化 」 であります。
 この原点を教えることなく、浮ついた教育を行なっておりますと、取り返しがっかない事態になるのではなかろうかと、後顧の憂いを強くするものであります。