ゆとり教育に異議あり




 教育のビッグバンといわれる 「ゆとり」 を中心とする教育改革が間近に迫ってきました。 果たして、 「ゆとり( 堕落・甘やかし )教育」 が、登校拒否や落ちこぽれ・学級崩壊など、さまざまな問題を解決する切り札となるのか。 その検証と問題点を探るなかで、真の子供への愛情とは何なのかを考えてみたいと思います。


半分になる学習内容

 毎週土曜日が休みになる完全学校週休2日制が、2002年から小・中学校で実施されます。
 これに合わせて学習内容が3割削減されると同時に教科枠にとらわれない、親としては何とも不可解な 「 総合的な学習の時間 」 も導入されるそうです。
 今回の学習内容の削減は、過去2回の改訂に引き続くものであり、25年前の人々が教わった内容とくらべれば、その学習内容は全体として 「 半分 」 になり、いわば、 「 骨と皮 」 状態にまで薄くなるということです。
 これは、文部省とマスコミが一体となって唱えてきた 「 ゆとり教育 」 の徹底化といえるでしょう。
 しかし、いかに 「 ゆとりが大事 」 とはいえ、学習内容を削減し続け、遊びに重点を移そうとすることが、果たして本当に子供たちのためになることなのでしょうか。
 事実、 「 詰め込み教育 」 や、画一教育が原因と言われつづけた、非行やいじめ、.不登校は、授業内容を削減したところで、減る傾向はありません。
 少年の凶悪犯罪は、増加するばかりか、悪に対する規範意識はますます薄れるばかりです。


ゆとり教育が落ちこぼれを増やす

「 このままでは、日本の未来が危ない。 将来の日本を背負って立つトップ層の学生を含めて、学力が急速に低下し始めている 」
「 ここ数年、簡単な足し算や九九でも間違える子供が増加してきた 」
「 1枚のレポートを課しても数行書くのが精一杯 」
「 授業で英文の経済記事の講義を行なおうとしても読解どころか、英文のどれが主語で、どれが動詞かすら分からない 」
「 教科書から、問題の量が減って、かえって反復練習が不十分になり、基礎学力が落ちている 」
「 自分の考えを文章で表現する能力が、非常に落ちてきている 」

 最近大学の教授を含めた学校の教師から、日本の将来を憂える声が、日増しに増加しています。
 そのほかにも、数々のデータによって、日本全体の知的レベルの低下が紹介されるようになってきました。
 小学生から大学生に至る日本の学生の学力が、 「 地盤沈下 」 を起こしているというのです。
 なぜ、こういう状況に陥ってしまったのでしょうか。
 明治以降の日本の教育は、他の先進諸国がうらやむほど平均レベルが高く、ちらばりの少ない 「 基礎学力 」 を培ってきました。
 その結果、国全体の知的レベルが向上し、今日の繁栄を築いたのは、世界が知るところです。
 しかし、今日では、一生懸命勉強することが、あたかも悪いことのように文部省や教育関係者が錯覚し、さらにはそれをマスコミがあおりたてて きました。
 それが子供たちの 「 基礎学力 」 を脅かし、勉強についていけない子供を増やす結果となり、ひいては日本の国力をも衰退させる大きな原因ともなりかねない深刻な問題となってきました。


勉強することは人生にとって大いに役に立つ

 今後の文部省の教育方針は、内容を精選してぜい肉を削ぎ落とし、要点だけを教えて授業内容を少なくする方針のようです。
 しかし、実際、学びを続けていきますと、 「 知識 」 というものは、クモの巣のように有機的なつながりを持っており、学習内容を精選することは、そのつながりを断ち切ってしまうことになり、逆に理解しにくくなる場合が出てくることがわかってきます。
 つまり、 「 知は力なり 」 と言いますが、知識というものは、量が増えれば増えるほど 「 理解力 」 や 「 判断力 」 や 「 考える力 」 といった、人生を渡っていくときに大切な 「 基礎力 」 ・ 「 元手 」 が増して来るようになるのです。
 何のために学ぶのか、それはまず、 「よりよき判断をするためであり、悩みを断ち切って心豊かな人生を」 送るためです。
 また、事業や仕事を発展させ、成功に導くためには、 「考えを練る」 こと、イノベーション( 革新 )を行ない、それまでのやり方を捨てて、新しいものを生み出すことが非常に大切ですがその際に必要な 「考える力」 は、青少年時代の知的訓練が非常に大きな意味を持ってくる からです。
 長い人生を漕ぎ渡っていくには、仕事と同様、氷山のごとき海面下のタメの部分、いわゆる 「 基礎力 」 がとてつもなく大切で、この部分が大きい人ほど 「 安定感 」 がでてきて、周りの人から信頼される人間となり、本当の意味での 「 ゆとり 」 が生まれてきます。
 「 真理は汝を自由にする 」 とは、このことを意味する言葉であり、また、荘子が言った 「 無用の用 」 とは、この海面下の部分の必要性を説いた言葉なのです。


未来社会と必要とされる人間像

 「 アメリカの産業を変えた男 」 と称される P・Fドラッカー氏は、その著書 「 ポスト資本主義社会 」 の中で、21世紀以降は、 「 知識 」 が新たな資源として富を生む知識社会の到来を予見し、これからの時代は、ますます情報や知識を中心にした社会が来ることは間違いないと述べています。
 来世紀を有用な人間として生き延びていくためには、 「膨大な知識や情報を、どのように役立つものにできるか、また、その力をどう開発するのか」 ということが、非常に大きな課題になるだろうと思います。
 受験に合格しさえすればよいという価値観 に対しては、問題があることは認識しておりますが、来世紀以降の日本を背負う子供たちには、ますます 「 情報を取捨選択する力 」 とその 「 情報を生かす力 」 が非常に大切になることもまた現実であると思います。
 真に子供の将来を考え、世の中の役に立つ人間として、自立する人間となれるよう導くためにも、もう一度、教育関係者やマスコミをはじめとして、日本人全体が、全ての学びは、人間にとってかけがえのない大切なことであるという 「 学びの大切さ 」 を認識しなおす必要があるように思えてなりません。


「楽しく」 「共生」 「平等」 「体験学習」 「ゆとり」

 耳触りのよい言葉や、甘い言葉を子供たちの耳元でささやき、 「自助努力」 や 「切瑳琢磨」 という向上心や克己心を骨抜きにしようとする日本の教育改革。 この改革の行き着く先は、果たして発展なのか。 衰退なのか。
 「勉強」 を通しての 「心の教育」 の可能性を探り、教育の再生を切に望みます。






ゆとりがもたらす著しい学力低下

 「 ゆとり教育 」 がもたらす深刻な 「 学力低下 」 と、 「 学ぶこと 」 の大切さについ述べてきました。
 この顕著な例が、最近話題の広島県に見られます。
 この広島県で行なわれたのが、 「 ゆとり教育 」 の見本のような教育です。
 たとえば、勉強しなくても必ず高校に行ける入試制度によって、極端に学力の低い生徒でも入学できる ようになりました。
 また、 「学力」 が公平に評価されない、選考基準が不明瞭な推薦制度 により、教育現場が混乱しました。
 その他にも、授業時間の大幅カット、子供たちの学習や行動の記録も残っておらず、また、運動会では徒競走の順位をつけるのがいけないとの理由で1位、2位、3位のかわりに青・赤・白になった そうです。
 このような、 「 ゆとり 」 「 平等教育 」 によってもたらされたものの一つが、極端な 「 学力低下 」 です。
 ある調査では、大学入試センター試験の県別ランキングで、89年に15位だった広島県の順位が、96年には、全国で45位まで低下しております。
 教師からは 「ここ数年、2桁の整数の足し算や引き算さえ満足にできない生徒が入学してくるようになった」 とか、 「少しでも学力を伸ばそうといった、気迫やチャレンジ精神が全くなくなってきた」 などの声が多く聞かれるようになったということです。


非行化を加速する 「ゆとり教育」

 しかし、問題は学力の低下だけではありませんでした。
 勉強しなくなった子供たちの非行、不良化も、急速に進んでいるようです。
 平成10年の参議院予算委員会での佐藤教諭の証言が、その凄ましさを如実に物語っておりました。
 また、県教委がまとめた調査でも、平成9年度中に県内の公立高校で、1542件の暴力行為が発生しており、 「 教師に対する暴力 」 も184件あったとのことです。
 広島市内の繁華街を歩くと、授業中であるはずの昼間にもかかわらず、制服をだらしなく着た高校生が、ここ数年非常に目に着くようになったという報告もあります。
 進学希望者は全員学校に行けるようになり、 「 実質的な中・高一貫教育 」 が実現しつつある広島県。
 その一方で、 「 受験 」 という目標を失った予供たちが、漂流し、学校の荒廃となって現われてきました。
 広島県の教育水準は、今や全国で最低の部類に属し、青少年の犯罪発生率は日本一というほどになりました。
 まさしく、四書のひとつである 『 大学 』 にいわく、 「 小人閑居して不善を為す 」 ( 人間はゆとりや暇があると、どんな悪いことでもしかねない )の言葉通りであります。


学問への情熱なくして未来の発展はない

 勉強することが、いかにも 「悪」 であるかのように喧伝し、 「ゆとり教育」 を称賛した結果が、実は深刻な 「学力低下」 と 「非行」 をもたらす例を述べてきました。
 では、 「 ゆとり教育 」 によって失った、いま最も必要とされる教育方針は何でしょうか。
 それは、 「学問の大切さ」 と 「自助努力の精神」 の大切さの再認識 であると思います。
 明治以降の日本は、2冊の本でできたといわれています。
 一冊は福沢諭吉の 「 学問のすすめ 」 であり、学びこそが品性を高め、人をして独立させる礎であるとし、 「 学問の大切さ 」 を説きました。
 もう1冊が、あの有名な言葉 「 天はみずから助くる者を助く 」 で始まるサミュエル・スマイルズの 「 セルフ・ヘルプ( 自助論 ) 」 です。
 当時、日本でも大ベストセラーになったこの書には、 「 自助努力の精神 」 によって道を開いた西洋の成功者たちの立志伝が書かれており、この精神こそが、個人の成功と国家の繁栄の源泉にほかならないということが説かれています。
 この 『 セルフ・ヘルプ( 日本語訳一西国立志編 ) 』 がイギリスで出版されたのは、今から150年くらい前で、イギリスが全盛の時ですが、この本を読んで奮い立った明治の若者たちが 「 坂の上の雲 」 を目指して努力し、近代日本を作り上げていきました。
 まさしく 「 学問への真撃な情熱 」 と 「 自助努力の精神 」 こそが、個人と日本の繁栄と未来を切り開く原動力となったのです。


地獄への道は善意で舗装されている

 しかし、先に見てきたように、日本の教育は今 「 ゆとり 」 や 「 共生 」 といった耳触りの良い言葉によって、子供たちから 「 刻苦勉励の習慣 」 や 「 自助努力の精神 」 が道を開いていくという公平な世界観そのものを奪おうとしています。
 「 地獄への道は善意で舗装されている 」 と言われる通り、子供に優しすぎ、安易に流れる教育は、亡国への道に通じているといえると思います。
 そもそも、教育の本道とは、社会に貢献できる人間を創ることであり、その基礎として、 「自助努力の姿勢」 や 「自主独立の精神」 を身に付けさせること だと思います。
 21世紀以降の、光り輝く日本を築いていくためにも、学校教育は今一度教育の原点に立ち返り、近代日本を切り開こうとした、 「 学ぶ姿勢 」 と 「 自助努力の精神 」 を、真剣に見直すべきであると思います。


最も必要なこと、それは、大きな理想を持つこと

 それでは、この 「 学ぶ姿勢 」 と 「 自助の精神 」 を取り戻すには、何が必要なのでしょう。
 それは、 「 着実さ 」 に裏打ちされた 『 大きな理想 』 を持つことであると思います。
 同じ意味のことを、司馬遼太郎氏は晩年日本の未来を憂い、その原因として 「 志の喪失 」 にあると言われました。
 その人の理想が大きく、高ければ、人間はその理想に到達するまでの距離の遠さを思って、まだまだこんなことでは 「 慢心 」 などしていられない、まだ安心してはいられないと、常に議虚に自らを省みて、自分を律するようになると思います。
 それが 「 学ぶ情熱 」 へと転嫁して、 「 自助努力と向上への道 」 をコツコツと歩むようになっていくように思います。
 今の教育は 「ゆとり」 という名の下に、 「大きな理想」 や 「夢」 というものは教えず、偏った 「人権」 や 「平等」 という言葉のもとに、子供が大人や先生と 「対等」 のように振る舞うことが良いことのように教えています
 そのために、何を勘違いしてか、 「傲慢」 な人間が増え続け、 「礼節」 というものも失われようとしています
 これからの教育とこの国の将来を考えたとき、最も大切なことは、原点に立ち返って 「 大きな理想を持った、謙虚さからの出発 」 を始めることであると思います。
 そのために、日本や世界の歴史に残る 「 先人たちの生涯とその思想 」 を謙虚に学び、人間として 「 大きな理想を持つ 」 ことが、非常に大切なことではないかと思えてなりません。
 そして、これこそが 「 心の教育 」 と 「 勉強 」 とをつなぐ、最大のポイントであると断言したいと思います。

 「これで完全だ」 と決して思い込んではいけない。 何年苦労しようと、「完全だ」 と思い込んだら最後、堕落が始まる。
セオドア・マーティン( イギリスの詩人 )




〜実るほど頭を垂れる稲穂かな〜

「勉強は良いこと」 からの出発

 評論家の立花隆氏によると、近年、日本人の科学知識や科学への関心は、サミット7ヵ国の中でことごく最下位となっているということです。 そして現在の日本人の学力低下を嘆き、次のように述べておられます。
 「はっきりいって、21世紀はこのような国( 日本 )の世紀ではない。 20世紀に起きた、全方位な知識の爆発は、21世紀に入ると、さらに進むと考えられる。 そのような事態に対して、教育の面からも一般市民の面からも、情報公開をもとにした社会全体の知的情報の流れのレベルアップの面からも、早急に対応をとらないと、日本は確実に21世紀に沈没してしまうだろう。」 …… と。
 このように、実学としての 「 知 」 もますます重要になるのは明白であり、今多くの識者が 「 ゆとり教育 」 に対して非難の声をあげ始めています。
 現代において罪悪視すらされている 「 学び 」 をもう一度見直すために、学びというものが人生を漕ぎ渡っていくときいかに有用で必要であるか、学ぶことによっていかに 「 生きる力 」 が育まれるのかということを考えてみたいと思います。


「謙虚さ」 が身に付く

 人間というものは、ついつい甘い見積りを立てやすく、ちょっとした成果がでるとすぐに慢心し、 「 自分はたいしたものだ 」 などと錯覚してしまいがちです。
 なかでも、 「 知的な重し 」 や 「 知的な努力 」 が足りない人ほど 「 慢心 」 してしまうものです。
 ところが、 「 実るほど頭を垂れる稲穂かな 」 と言われますが、世に言う成功者ほど意外に謙虚なのです。

 その理由を考えますと、次のようなことが言えると思うのです。
 古来より、 「 自分が何も知らない、ということを知った人ほど賢者である 」 と言われますが、知的な努力が深まれば深まるほど、まだまだ自分は未熟である、世の中にはまだまだ自分の知らないことが山のようにある、ということに気付き、もっともっと勉強しよう、もっともっと謙虚に学ぼう、という気持ちになるのだろうと思います。
 かくいう私も、10年ほど前までは、 「 勉強の大切さ 」 も知らず、自己中心の 「 偏った見方 」 しかできない、短気な人間でしたが、少しずつではありますが、 「 多様な見方 」 や 「 謙虚さ 」 を身につけることができるようになったのも、さまざまな書物との出会いを通して、 「 自分の未熟さ 」 を知ったからだと思います。  

 最近、すぐ 「ムカつく」 とか 「キレる」 などといった 「瞬間湯沸器」 的な 「すぐカッとなる、傲慢な人」 が非常に多くなったといわれていますが、その 「傲慢さ」 は、 「学びによる重し」 が足りていないことの現れではないかと思えてなりません。


「感謝」 と 「寛容さ」 が身に付く

 人は、学びを通して 「 謙虚 」 になっていきますが、それと同時に 「 寛容さ 」 がでてくるように思えます。

 「 すべてを知ることはすべてを許すことにつながる 」 と言いますが、知れば知るほど、自分がどれほど不完全な人間であるかということがわかってきて、そんな不十分な自分ではあるけれども、多くの人に許され、生かされているという、その事実がわかってきます。
 その自己認識が 「 感謝 」 を生み、この感謝が他人への寛容さとなって現われてくるのだと思います。

 松下幸之介氏は、著書の中で指導者の条件の一番大切な事柄として、この 「 感謝 」 と 「 謙虚さ 」 をあげておられますが、この 「 謙虚さ 」 と 「 感謝を伴う寛容の心 」 こそ、真に成功していく道であり、それを子供たちに教えることこそが、真の愛情ではなかろうかと思います。
 そして、このギスギスとした世の中において、本来の日本の素晴らしき 「 大きく和する心 」 である 「 大和の心 」 を取り戻し、人々が仲良く、睦まじく生きていくためにも、この 「 謙虚な心 」 と 「 感謝を伴う寛容の心 」 が、今どうしてもどうしても必要なことではなかろうかと思います。


「判断材料」 が持て、悩みが少なくなる

 悩みがない人はまずいませんが、悩みの原因はたいていの場合、その件に関する 「知識」 がないか、 「経験」 がないことによって生じる 「判断がつかない」 ことにある ようです。
 ですから、悩みを解決するには、まず 「判断するための材料」 「考える材料」 というものを持つ必要があります。

 自分自身の頭で考えても考えてもなかなか結論が出ないことがあると思いますが、考える材料として、一定の知識や情報を持つことによって、物事を判断するときに、非常に早い時間で結論を出せるようになります。
 悩みといっても、世界中で自分だけがぶつかった難問などは、めったにあるものではありません。
 意外と 「 よくある話 」 であり、かなり多くの人がすでにぶつかった問題であることが多いのです。

 したがって 「 学生時代 」 は、ある問題を自分だけのものと考えるよりは、先人や先輩たちが、それをどのように考え、解決し、乗り越えていったかということに対して、謙虚に耳を傾けるべきであり、主としてそうした 「 思考の材料 」 というものを手に入れるために、学生の期間はあるのだと思います。

 その意味では、人生の基礎作りの時期である学生時代には、まず、学生の本分である知的なアプローチによって量的にも種類的にもできるだけ多くの 「 考える材料 」 を手に入れ、それを集積することが非常に大事であると思います。

 本当の 「 生きる力 」 とは 「 生きる力を育む 」 といった、意味不明な言葉をもとに、文部省などは勉強を減らす方向で指導しておられるようですが、真の 「 生きる力 」 とは 「 智慧 」 を獲得することにあり、そのためにはまず、しっかりと学び続けるという姿勢が大切です。

 どうか、マスコミの扇動や世間の軽い言説に惑わされることなく、 「 知ることは人間にとって役に立つことであり、非常に大切なことである 」 ということを知っていただければと思いますし、 「 一生懸命学ぶこと 」 によって智慧を獲得していくことこそが本当の 「 生きていくための力 」 や 「 悩みを断ち切る力 」 となることを知っていただきたいと思います。

 真に学びを深めることが実は真の心の教育にもつながる道であるのではないでしょうか。

【 論語 】温故知新( 故きを温ねて新しきを知る )
 歴史を深く探求することを通して、未来への展望を深めていく態度が、人生を充実させる方法である。
【 礼記 】学びて然るのちに足らざるを知る
 学ぶことによって自分に不足しているものがわかってくる。 だから、学ぶことには終わりがない。