「おとなのこども」 の増加

 「ある小学校の三年生のクラスで、同級生をいじめる男の子に対する学校側の措置を不満とする親たちが、こどもを登校させない同盟休校を行った」 ( 埼玉県浦和市=現さいたま市 )というニュースは、現在の日本の児童の持つ問題性をきわめて集約的に表しているように思われる。

 新聞の報道によれば、このクラスのA君( 8歳 )は、体格もよく腕力も強いことから、同級生に乱暴をすることが多かった。 この同盟休校の発端も、A君が同級生B君を転倒させてB君の頭に一針縫う傷を負わせたことにある。 かねてからA君の行動とA君の父母の 「うちの子は悪くない」 という態度に不満を抱いていたこのクラスの父兄たちは、A君の隔離授業、三年生全体のクラス編成替え、担任教師の変更などを求めたが、学校側が 「乱暴だからといって、A君だけを排除するようなことは教育上できない」 と拒絶したため、父兄側は児童を登校拒否させたとのことである。

 この報道に接して、まず思い浮かべたのは、小羊のようにおとなしく、エゴイスティックで頼りにならないクラスの多くのこどもたちの姿である。 彼らは、いじめられたら、なぜ断固として反撃を試みないのであろうか。 なぜ無法な暴力にいじめられる気の毒な自分の友達を、力を合わせて、守ってあげようとする勇気を持たないのであろうか。 いじめっ子がA君だけなら、またはA君に手下が数人いても、クラスの大多数の反撃と抵抗を打ち負かすことは困難であろう。

 それなのに、こどもたちは、やられるのが自分の場合であっても、自分の友達の場合であっても、無法な力の行使に立ち向かう勇気もなく、いじめられる友達に対する憐憫れんびんや同情もなく、連帯も協力もない。

 それどころか、他の多くの校内暴力事件の報告は、こどもたちが強いものに追随し、弱いものいじめに加担することを示している。

 つまり、彼らは、何よりも身の安全を愛好する“おとなのこども”なのである。

 このこどもたちの親は 「義を見てす」 べき勇気によって事態を解決することをこどもたちに教える代わりに、こどものケンカを買って出た。


暴力からなぜ逃げるのか

 大切なわが子が、ケガをして帰ってくれば、親が腹を立てることは当然ではある。 しかし、勇気を教えようとしたかつての親が、 「これしきの痛みに泣くとは何という臆病者です」 とこどもを励ましたのとは対照的に、現在の親は、こどもを危険に近づけないために、家庭に閉じこめた。 しかし、同盟休校とは、またいかにも否定的で陰湿な手段ではなかろうか。 そこには同じ年頃の子を持つ親としてのA君に対する配慮はまったくない。 A君はたったひとりで登校し、ひとりで授業を受けたという。 A君はおそらくこの日の教室の光景を忘れることはできないであろう。 村八分にされた心の痛手、級友に対する軽蔑と反感は、今後A君が暴力を振るうことを動機づけることになるであろう。

 A君の暴力の被害者の親たちは同盟休校などという手段に訴える代わりに、なぜA君を直接叱責し、その非を正してやろうとしないのであろうか。 父兄が、心から自分のこどもの身の安全を案じ、しかも自分のこどもがおおらかで寛容、明朗で、他人に対する信頼を失わず、正義を愛する人間に成長することを望むなら、彼らはそうすべきであっただろう。

 もちろん、教師と学校は、 「善意ではあっても、無能である」 のそしりを免れがたい。 相手は、わずか8歳の45人のこどもたちである。 その間に発生した葛藤すら解決することができなくて、教育をすることなどができるのであろうか。

 「A君の乱暴な行動の原因は、愛情の欠如にある」 という担任教師の認識はおそらく正当であろう。 そこで、A君がわざと給食をひっくり返したようなときでも、先生は黙ってその後かたづけをしたという。 しかしA君は先生のこのような保護ではなく、厳しい叱責を求めていたのではなかろうか。 教師は、体罰を加えることは認められていないが、教育上必要なときは懲戒を加えることはできるのである。 A君の保護者も、A君が他人に損害を加えたときは、その親権者としての監督責任を免れないことを忘れているのであろう。


「人の道」 を教えよ

 各種校内暴力事件の報道を通じて、ショッキングなのは、加害者と被害者という主役たちの行動とともに、その他大勢の同級の児童の行動様式である。

 

 もしこれがこどもたちの教育の過程、社会化というものであるならば、それは、われわれの社会が、勇気と連帯を欠き、保身と追随が横行し、利己的で無責任な、その結果として、はなはだしく冷酷な人間が、あふれているからに他ならない。

 国際児童年を契機として今年はこどもに関する多くの議論が行われた。 しかし、結局のところ、われわれは 「子は親のかがみ」 であり、 「この親にしてこの子がある」 ことの真実性をかみしめざるを得ない こととなったのではなかろうか。