道徳荒廃の根っこに社会主義制度がある

道徳の確立は社会主義を払拭しないと回復しない。




 人間というのは 道徳やその集大成である宗教がどうしても必要なんです。
 生きていく上で必要不可欠なんです。 どうしてか?
 また、福祉国家では 宗教心や道徳心がなくても かまいません。 これもどうしてかって?
 その理由をこれから順次説明していきたいと思います。

 現在の道徳の荒廃、教育の荒廃の原因がわかるわけです。


☆人は年取ると例外なく動けなくなる。

 人は年取ると例外なく一人では生活できなくなります。
 言うなれば、ここが人間の最大の弱点なのです。
 動けなくなった後いかに無事に人生をまっとうするかこれは人類に課せられた難問なんです。
 これを乗り切るために人間は大変な時間と労力を費やして努力や腐心するわけです。


☆道徳と宗教は人の一生にとって必要不可欠。

 人が一人では動けなくなった後、無事一生をまっとうするには、人が本来持つ善意と道徳心は欠かせませんからこれをシッカリ持ち高めようとしますね。

 さらにしっかりとこの難問に答えを出してくれ、うまく取り計らってくれるのが宗教です。

 親孝行を説き、親を大事にすることは最高の美徳と子供の心にシッカリ刷り込んでくれる。
 人間が自然に持つ道徳心をより高いものに昇華させるわけですね。
 いろんな機会を捉え子供の心の中に自然に親に対する尊敬の心が芽生え根付くよういわばマインドコントロールしてくれるわけです。

 そうした努力の結果、やがてそれは信念にまで高まりようやく人は安心して老後を迎えられると言うことになるわけです。

 このように、道徳心とその集大成である宗教は人が一生まっとうするに欠かすことのできないものなのです。
 これなしには一生は無事まっとうできません。
 宗教にはこのような重要な側面がありますね。


☆やがて生活そのものが宗教そのものにまでなる。

 人は老後の弱みがあるがゆえに道徳的にならざるを得ないし宗教心をシッカリ持たざるを得ないのです。

 もちろん子供や家族がなくしては最初から話になりません。
 子供をシッカリ育て家族経営を熱心にし道徳心や宗教心を備えるよう教育することになるわけですね。

 したがって宗教はやがて家族経営そのものであり、生活そのものであるところまでなって行き熱心に真剣に活動がなされていくわけですね。
 いろいろ説かれる心得の中でも親孝行の部分は自分の命にかかわる最も重要な部分といえましょう。

 孝道を説く必要がある限り人の命にかかわることとして熱心にならざるを得ません。


☆福祉国家では無宗教でも困らない。

 ところが60億人類社会において福祉国家は例外状態なんです。

 福祉国家では自分で育てた子供ではなく『 社会やみんなが連帯して老後を支えてくれ』、個人の老後の保障責任を『 社会化した制度 』になっています。
 自分の育てた子供や家族に頼る必要のない制度ですね。
 ( 自分の子供には頼らないが他人が育てた子供にはシッカリ頼っている )

 毎月掛け金さえ払っておけば老後は国が保証してくれます。
 いや、掛け金さえ払わなくても生活保護で路頭に迷うことはありません。
 家族や子供に頼ることなく一生まっとうすることが可能です。
 ( これも長く続けると少子化で国は立ち行かない )

 したがって宗教の孝道を説く部分が命にかかわるものではなくなっているわけです。
 それどころか無宗教でも困りません。
 このように老後の保障制度の整った国においては、宗教は命にかかわる必要不可欠なものではなくなっているわけですね。

 宗教心は徐々に薄いものになっていきますし、儀式儀礼的要素だけ残ると言う状態になっていくわけです。

 もちろん宗教は孝道の部分だけではなくいろんな要素が人々の共感を呼び受け入れられています。
 しかし、社会全体で見ると福祉国家では宗教熱は薄くなっていくわけです。


《 国が老後の生活を保証すると無道徳でもかまわないし、宗教心など必要ないということになる 》

 福祉国家では国の制度で老後は完全に保障され路頭に迷うことはなくなっています。

 国が老後の保証をすると子育て努力をしないでも死ぬまでの生活の保証と介護が政策で保証されています。
 子供や家族は必要ないから道徳教育など子供の教育は顧みられなくなります。

 後継者育成努力を回避できるわけですね。

 制度的に 老後は不安がなく子供がいらないのですから、子供に無関心な親が増えていきます。
 放任主義が横行します。
 夜遊びして遊びまわろうが子供に関心を示さないということになります。
 青少年非行の増加です。

 学力が下がろうが深刻な問題ではなくなります。
 子供の学力が将来の老後の生活に全く関係ありませんからそうなります。

 無道徳でもかまわないし 宗教心など必要ありません。
 少年非行の増加や学力の低下の原因はここに求められます。

 このように、国が老後の生活を保証すると無道徳でもかまわないし、宗教心など必要ないということになるのです。

 この国の老後の保障政策がなかったらそういう風なことをいってたら路頭に迷うから、決してそんな態度ではいることはできませんね。


《 老後の保障政策がない場合、人は子育てと教育に必死に取り組むようになる 》

 社会主義を止めたら、つまり国が年金政策や施設介護を止めたら、道徳は復活せざるを得ませんし、ほっておいても宗教心は強くなります。

 老後 子供や家族が面倒を見るとすれば、道徳的に立派でないといけません。
 介護ロボットが今後発達すれば、昔のように手間隙がそうかからず、親にしっかりとした愛情を注いだ介護が可能になってくるでしょう。
 しかし、いくら介護ロボットが発達しても、基本的には子供や家族が、日々の生活の 世話をやくわけですから、やさしさや 面倒見に 教育の成果は現れてきます。
 できの悪い子だと、ほっポリ出されるかもしれません。


《 社会全体が道徳心や宗教心を大事にする雰囲気になる 》

 学校で道徳を教えてくれ という声は自然に上がってくる でしょう。
 また、教師には 第一に 道徳的な完成度が 求められるはずです。

 それだけでは どうしても足りません。
 まだ不安の人も多いはずです。

 学校が終わったら 人格者 つまり立派な宗教家の話を 聞きに行かせて教育したい人も増えるはずです。
 道徳の集大成である宗教心も大事にされることになります。

 テレビや雑誌の はちゃめちゃな モラルのものは やめろ~、止めてくれ、の 声が 強くなって 止めざるを得なくなります。
 このように、道徳や宗教心が 強く求められるようになるんです。
 社会全体が道徳心や宗教心を大事にする雰囲気になります。


《 道徳を破壊し必要なくしているのは、人間の作った制度に原因がある 》

 老後の生活を委ねるとなると知識だけでは役に立ちません。
 道徳的に 立派にしないと 頼りになりません。
 命にもかかわることなんです。
 ですから道徳的にとにかく 立派に 育てようと一生懸命になり、熱心になります。

 自分の将来の生活と命がかかってるんですから、それは真剣にならざるを得ません。

 子供の教育に道徳は欠かせなくなるしその集大成である宗教心も必要になります。
 老後を託すことのできる立派な子供がいないといきられないからです。
 自分の生活にかかわるからです。
 ほっぽりだされて路頭に迷うことになるかも知れないし、扱いがアラっぽくなるかもしれないらです。

 このように見てみると、道徳を破壊し必要なくしているのは、人間の作った制度に原因があるということが判ります。

 年金制度や施設介護は子供が必要なくします。
 したがって、少子化を呼んで負担する人が少なくなります。
 負担する人が少なくなれば一人当たりの負担の額は徐々に高くなります。
 保険料や税金が高くなって結局破綻するんです。

 もしくは破綻の逃れるため保証水準は下がり続け結局保証では暮らせなくなり実質破綻する事になります。

 このように、システムとして成立しません。
 破綻するまで私達はこの制度を 続けるんでしょうか。

 ヨーロッパ諸国は これまでいろんな少子化対策をしてきています。
 みんな成功していません。
 それは ほんとの原因に 手当てできていないからです。
 少子化を解決するためには根本的な原因である、年金政策と施設介護政策を改革するしか 他に方法はないんです。

 いっこくも早い改革を。


《 老後の保証政策が見直されてこそ初めて、社会に本格的な教育や道徳が復活する 》

 私達の社会から社会主義色をキッパリと捨て去ること、それが今求められる根本的改革で緊急に必要な政策なんです。

 たとえば社会主義の売りである年金生活を良く見てみましょう。
 年金生活とは自分では後継者育成努力を回避し、他人の育てた子供の払う保険料と税金に頼る制度です。
 後継者育成責任を果たさず、他人の育てた子供に頼る制度です。
 全く無責任な生き方で正しいライフスタイルとは思えません。
 こんな無責任なライフスタイルを国民皆年金制度ですべての国民に奨励すると言うのですから、国はおかしくなるのです。

 このような、無責任な生き方ではなく、後継者をしっかり育成し老後を託していく行き方こそ、社会に貢献した立派な生き方なのです。
 社会主義は間違いで私的な老後の保障責任を社会化したことが間違いなのです。
 間違ったものは元に戻す必要があります。

 経済分野でも国営化された企業が私企業に戻されています。
 民生面も社会主義ではなく個人の責任に戻すべきなのです。

 そうすると、道徳荒廃など社会問題も一緒に解決します。
 老後の生活を託すためそれこそ教育に必死になるからです。

 社会に道徳を回復し、子供の教育をシッカリしたものにするためにもどうしてもこの改革が必要です。

 戦後日本が廃墟から立ち上がりここまでになったのはひとえに教育熱心さによる優秀な人材がなせる業です。
 資源もない十分な農地さえもないないないずくしの日本は教育が生命線です。
 昨今の教育の崩壊、改訂のたびに薄くなる教科書など教育レベルの低下はまさに日本の危機でしょう。

 真剣な教育なくして日本の将来はありません。

 老後の保証政策が見直されてこそ初めて、社会に本格的な教育や道徳が復活するのです。
 人の一生にどうしても子供や家族が必要だということになって初めて、社会に道徳心が復活し、子供の教育にも必死で取り組むようになるのです。

 それまでは表面的な改革にとどまり、根本的な教育改革、社会改革とはならないでしょう。
 道徳荒廃の根っこに社会主義制度があり、道徳の確立は社会主義を払拭しないと回復しないことがわかります。





( 2013.03.09 )


 教育再生実行会議の第1次提言が出された。 自民党政権下での教育改革にも包括的な議論を行うであろう同会議にも大いに期待をしている。

 第1次提言の主たる内容はいじめと体罰の問題への対処であった。 国として、子供の命に関わることに無関心でいいわけはない。 しかし、いじめや体罰による自殺の問題は、 「いじめ対策」 として行うことでよいのか少々疑問である。 それは社会の問題の一事象にすぎず、陰湿ないじめ、大人の目にはなかなか映らないようないじめ、またそれによって死を選ぶ子供、それらは、今の日本の世の中では起こるべくして起こったことであると私は思うのだ。 それは単に先生の目が行き届いていないとか、教育委員会への報告をしないとか、教育委員会制度が悪いというような、簡単な話ではない。 ましてや 道徳を教科化することが、根本的な解決になるという考えは、あまりにも今の教育現場、子育て現場を知らない人たちの、机上の空論だ。 その意味で第1次提言は少々、期待はずれと感じた。

 では一体、今の子育て、子供の教育の現場はどうなっているのか。 この数年間の親としての経験から、最も危惧していることは、今の親たちの考え方が一言でいって、自分本位で常識知らずということだ。 私自身も、親として発展途上であることは自覚しているものの、今の親たちの考え方はあまりにひどい。 例えば、保護者会。 「出席をとるわけではないからいかない」 という。 子供が学校で熱を出したので迎えに来てくださいという連絡に、 「突然言われても困る」 のだそうだ。 揚げ句の果てには、後日、 「たった37度で迎えにこいといわれた」 と陰口をたたく。 手作りのお弁当を囲むはずの運動会で、学校の運動場からピザの出前を注文する親。 あっけにとられるような出来事が、どの学校でも頻繁に起こっている。

 ある学校では、親の判断に任せておけないと、年度当初の保護者会で、100項目ほどの 「注意点」 を伝えるそうだ。 つまり、親の道徳観や判断力の乱れがはびこり、それが各地で子供を取り巻くさまざまな問題を引き起こす最大の原因となっている と、私は常々感じてならない。

  5歳児( 幼稚園や保育園の年長児 )から小学校卒業まで、親の道徳教育の時間を設ける。 低学年までは年20時間。 つまり長期休暇を除いて月に1回、2時間ほどの外部の人を呼んでの講演会などを開催する。 高学年になれば、半分でもいい。 出席は義務とし、感想文を提出する。 「欠席や未提出があれば、子供の評価に加味」 とすれば、親は血相変えて参加するだろう。 企業側は、その日は証明書の提出をもって有給外の休暇扱いとする。 年少の子がいれば、託児代は国か市町村が補助をする。 これらを義務教育の教育課程に含めるのだ。 「そこまで…」 と思うかもしれないが、今や 「そこまで」 やらなければならない状況だ。 子供の道徳の教科化をやっても、親がこの “惨状” では効果は期待できない。 しかし、親も常に向学心を持ち成長していけば、自分自身の人生も豊かになるはずである。 何よりわが子のために、親も精いっぱいの努力をして、何ら損することはない。 かくして安倍政権の教育再生の 「本気度」 を注視していきたいと思っている。





( 2013.03.27 )

 
     


 教育再生実行会議が第1弾として提言した 「道徳の教科化」。 過去にも検討されたが、 「価値観の押し付け」 「心の問題は評価できない」 などの理由で見送られた。 しかし、いじめに限らず、犯罪の低年齢化など日本人の道徳観が崩れつつある中、識者から 「生き方の座標軸として不可欠」 との声も出ている。

 小中学校の 「道徳の時間」 は原則週1時間の必修とされているが、正式な教科ではない。 国語や算数のように教科化されると、副読本ではなく、検定済み教科書が使われ、成績が点数評価される可能性がある。

 戦前は 「修身科」 があり、学校で道徳を教えていた。 戦後は昭和33年に 「道徳の時間」 として復活したものの、日本教職員組合( 日教組 )などの反対で正式な教科とはならなかった。 「軍国主義を助長した修身を復活させてはならない」 などの理由だった。

 教育評論家の石井昌浩氏は 「教科化されなかったことで、道徳の時間は教材や教え方も学校任せでおざなりとなり、50年以上、たなざらしにされてきた。 いじめ対策という次元ではなく、人間としてどう生きるかの座標軸を見つける手段として不可欠」 と訴える。

 元中学校長で東京学芸大教職大学院の今井文男特任教授は 「価値観の押し付けはよくないという意識の中で、抽象的な道徳教育が行われてきた」 と指摘。 「国が明確な道徳的価値観を示すことが重要」 と教科化の意義を強調する。

 道徳の教科化は第1次安倍政権の教育再生会議でも提言された。 「道徳」 から 「徳育」 へ名称変更し、成績評価の対象とする内容だったが、中央教育審議会( 中教審 )で、 「心の問題を成績評価するのは難しい」 などの意見が出て見送られた。 今回の議論でも、 「性質上なじむのか」 との意見が出ている。

 しかし、石井氏は 「体育や音楽など実技がある授業も、教員の主観が入るため点数評価が難しい。 道徳についても、教員の力量が求められ、子供や保護者への伝え方など慎重さが必要だが、成績の点数評価は可能だ」 と指摘している。

( 教育評論家・石井昌浩 )


 政府の教育再生実行会議が道徳の教科化を提言したが、教科化についての反対論も少なくない。 賛否両論その理由はさまざまだが、道徳教育をめぐる認識の違いが浮き彫りにされていて興味深い。 教科化に賛成の立場で論点を整理してみたい。

 第1に、 「価値観の押しつけに反対」 の立場からの批判について。 価値観の押しつけは教育になじまないという耳に心地よい言葉を口実に、親と教師は子供たちに道徳を語ることから逃げてきたと思う。

 戦後社会において私たちは、価値観多様化を理由に価値判断の分かれる事柄について深く立ち入ることを避けてきた。 このような 「価値相対主義」 によって立つのが道徳教育の主流だった。 そこでは、子供たちの人格形成、価値判断の基準となる、人生の羅針盤の役割を果たす具体的モデルを示すことはしなかった。

 もともと教育には押しつけなしには成立しないところが多い。 価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできるわきまえを身に付けさせるべきである。 幼いうちから 「ダメなものはダメ」 と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない。

 第2に、 「道徳の教科化がいじめ問題解決につながらない」 という批判について。 「道徳の時間」 がいじめ問題の解決に寄与できなかった理由の一つに、教科でないために授業がおざなりにされてきたことがある。

 大人、子供を問わず、人間の集団にはいじめがつきものだ。 学校も人間の集団なのだからいじめが起きるのが当たり前である。 いじめは幼児のいたずらに近いものから犯罪といいうべきものまで多種多様なので、完璧ないじめ対策などあるはずがないと思う。 それでも、死を招くような深刻ないじめについては断じて食い止めなければいけない。

 子供たちの人間形成の多くは学校における学習や生活の場面での子供同士の交流を通してなされる。 楽しいことや、不愉快なこと、屈辱的なことも含めて多様な経験を重ね子供たちは自らの道を切り開いて社会的自立を果たしていくのだ。

 道徳の教科化により体系的理論や古今東西の先人の 「生き方の座標軸」 が提示されることで、子供たちには 「人格の完成」 のような人間性を高めるための普遍的目標が初めて身近なものとして理解されてくるだろう。

 第3に、 「道徳は評価の対象になじまない」という批判について。 教科でないので教科書もなく、指導方法も確立しないままにすべてを学校任せにしてきた 「道徳の時間」 を前提に評価を論じるのには無理がある。

 教科化により検定教科書が使われ、指導方法の研究開発が進むにつれて評価方法も改善されよう。 そもそも他の教科が道徳と比べて成績評価が容易だと考えるのは筋違いである。 たとえば美術、音楽、技術・家庭、保健体育などの技能の習熟を目指す教科における技能評価の難しさは言うまでもないが、国語や社会、理科、数学・算数、英語などの教科の成績評価も決して簡単ではない。 道徳だけがことさらに評価が難しいという主張の根拠は乏しい。

 道徳を教科化することにより長いあいだ形骸化していた 「道徳の時間」 を立て直し、すべての教師が道徳と真剣に向き合える環境が初めて整うのだ。 道徳の教科化は半世紀前からの積み残された課題である。