回転ドア事故で見る日本特有の反応



 六本木ヒルズの入口回転ドアに、幼児が挟まれ、死亡するという痛ましい事故があった。 この事故後のマスコミの扱いに、 「ああ。 またこうなのか」 と、日本社会特有の反応の仕方に疑問を持った。

 ビルのオーナーであり、管理者である森ビルの社長が、幼児の通夜に出てお悔やみしようと、わざわざ大阪まで出向いたが、門前払いを喰わされたという。 遺族は、ビルの安全管理が不備であったために、愛児を殺された、とでも思っているのだろう。

 私が事故を知ってまず思ったのは、親の子供に対する管理責任としつけのことである。 勝手に駆けだしていく子供に声をかけなかったのか。 ふだんから都会は危険がいっぱいであり、それに備えるようにと、しつけをしてこなかったのだろうか。 はじめての東京の盛り場へ、不慣れな子供を連れて出るのである。 手をしっかりつないでおくなどの注意をどうしてしなかったのか。

 自分の振るまいと結果には、自分が責任を持つという原則をないがしろにし、安全は社会が守ってくれるべきだという、超過保護社会を日本は作ってしまった。 何かが起きれば、管理責任が問われる。 それをおそれて、過度な完全対策がとられる。 安全措置が不十分なら責任を免れようと、過度の立て看板、音声による注意呼びかけが行われる。

 デパートや駅のエスカレータでは、終日 「エスカレーターに乗るときは、ああしろ、こうしろ」 と、お節介な放送がくり返される。 京都駅の新幹線のホームで、注意事項を数えてみたことがある。 8項目も注意点があるのだった。 それをくり返しがなり立てる。 JRや地下鉄のホームでは、電車がはいってくるから白線より下がれと言い聞かされる。 乗った電車のなかでは、駆け込み乗車をするな、とご注意がある。 この種の放送を外国で聞いたことがない。 外国から帰ってくるたびに、この 「騒音」 に、日本社会の問題性をいたく感じる。

 公園の遊具の安全性が問われると、使用禁止や撤去の方向で問題を解消しようとする。 使用禁止となっているジャングルジムを見たことがある。 自由にブランコを漕ぎ、ジャングルジムを小猿のように伝い歩き、木登りをし、飛び降りたりした、私たちの少年時代の冒険の喜びには、今の子は無縁である。 水戸の 「少年の森」 を昨日訪れた。 木陰の傾斜地に、数々の木製の大きな遊具が備え付けられている。 そのわきには、大きな立て看板があって、高いところに登るなとか、飛び降りるなとか、数々の注意事項が厳めしく書かれている。 管理者は、その注意書きによって、いざというときの管理責任を免れようとしているかのようである。 午前中の比較的早い時間だったせいか、遊んでいる子を一人も見かけなかった。

 アメリカのグランドキャニオンの絶壁の上に、防護柵がないのはよく知られている。 断崖のどこまで行って大丈夫か、自分で判断すればい。 そこで落ちるようなことがあったら、それは自分の責任だ。 スイスアルプスでもそうだった。 断崖絶壁や氷河のへりなどに、これより先は行かせない、などの柵やロープは張られていない。 日本では、公園、海岸、スキー場、 …… あらゆるところが、立ち入り禁止の柵や立て札だらけである。

 それでいて、基本的な生活習慣がおろそかである。 車が通るせまい道を子供の手を引いて歩いている。 車の通る側に子供を歩かせて平気でいる親がいる。 子供の手を引くとき、車の通行にさらされる側を自分が歩き、車から子供を守ることなど当然ではないか。 女性と二人連れで歩くときも同じだ。 車道側を自分が歩き、女性を保護する姿勢を見せるのが、紳士というものだ。 エレベータの乗り順にしても、出入口で先をゆずるのもそうである。 そういう習慣がついていない親に限って、子に何かが起きれば、他者の責任をがなり立てる。

 学校は今は校門を固く閉ざしている。 昔は学校は、ある種のパブリック・スペースだった。 誰でもが自由に出入りできたし、生徒や先生たちと交流もできた。 放課後や日曜日は、町や村の人々の運動場にもなっていた。 一つ二つのきわめて例外的な事故が、すべての学校の門を固く閉ざさせた。 門を閉ざすことによって、生徒を守るよりも、 「外」 に対する対処のできるように教育することの方が大事なのではないだろうか。 しょせん子供たちは、危険が満ちている 「外」 へ向かって出ていくのだから。

 保護し、危険から遠ざけることによって確保できる安全もあるだろう。 しかし、それだけに頼ろうとする社会のあり方でいいのか。 世の中は危険がいっぱいである。 その危険から、自分の判断で身を守っていく。 その生活習慣をつけていくことの方がもっと大事ではないか。 過保護に甘やかされた子を育て、それが親になり、何かが起きれば、自分ではなく、他に責任を問うそんな甘ったれた大人で構成されているのがいまの日本社会のようだ。 マスコミの最前線にも、そんな大人がいて、会社や国の管理責任を問う大合唱が始まる。 何が起きても、このパターンである

 公であれ、私企業であれ、施設にしても、食にしても、環境にしても、100パーセントの安全など確保してくれるはずがない。 不安全な世の中に自分らは住んでいるのだ。 それを前提に、まず自分の安全は、自分で判断して守る過度の安全策を求めないその代わり得られる、個が独立した社会の自由闊達さを享受する。 その方が私は好ましく思える。