教育の現場で




 「1970年ごろに全共闘運動が盛り上がり、1980年前後から校内暴力が社会問題化してきます。 当時、ジャーナリストのほとんどが校内暴力を全共闘運動の延長線上にある異議申し立て運動だ、と理解していました。
 しかし、あれは 『反抗』 ではないんです。
 校内暴力を起こす生徒は、とにかく学校に合わないんです。 ただそれだけであって、全共闘運動のように 『何かを改善しよう、変えよう』 と思っての行動ではないのです。 全共闘運動にひかれた学生には、改善しよう、という思いがある点で、教師や学校側と同じ枠内の対立でした。 しかし、校内暴力を起こす生徒は完全に違った価値基準を持っていて、それが学校に適合しなかっただけのことです。 それが今にいたるまで続いているんです
 こどもは反抗することで自分を作りましたよね。 でも今は、こどもの段階ですでにしておとなと違うコンセンサスを持ち、しかも出来上がっているのですから適合するわけがないのです。 だから 『反抗』 じゃないんです。
 戦後民主主義を信奉する人たちは、 『若者は変わっていない』 とよく言いますよね。 でも、こどもたちは違った公共圈を、我々にはまったくわからない未来社会的な公共圈を先取りして作っているとしか思えないのです。 昔の論理や倫理で、 『自分を大事にする』 とか 『青春』 『反抗』 『権力との戦い』 といったキーワードやコンセプトであの子たちを説得しようとしても無理なんです。 全然違うんです。

 諏訪哲二氏は、40年間中等教育に携わり、 『プロ教師の会』 を結成して、戦後教育の歪みを是正して、教育現場のリアリティを訴えてきた方です。
 諏訪氏は、1980年代、つまりは昭和末年あたりから生徒の質がまったく変わってきたとおっしゃいます。 その変質を氏は 「未来社会的な公共圈」 と呼んでます。 つまりはまったく従来と違った、価値観や対人関係をもった世代が登場してきたということです。
 学生と接していて、そんなに彼らが変質をしているとも、能力が低下しているとも思わないのですが、諏訪氏に云わせれば、それは上澄みでの話だということになります。 いわゆる底辺校になると生徒に私語をするな、といった注意をする教師は、 「凶器」 とみなされるそうです。 生徒の側にしてみれば、学校という場所に来るだけで、大変な努力と妥協をしているのに、その上に、何か文句をいったり、叱ったりすることは、想像を絶した行為であり、刃物できりつけるような蛮行と受けとられる ……。
 実際、平成にはいる前後から、学校や子供、若者にかかわる事件が、大人たちの想像の領域を超えた形で起こるようになりました。
 昭和60年から 「いじめ」 が社会問題として表面化してきます。 警視庁のまとめによると、この年9人の子供がいじめを苦にして自殺しています。 「いじめ」 自体はもちろん深刻な問題ですし、仲間を死に至るまで苦しめる精神の荒廃ぶりは暗濃たるものがあります。 けれども、 「いじめ」 の場合は、まだ大人たちの生理の中で理解し、また了解できるものがありました。 同様の行為が、無論程度も性質も違うとしても、昔から学校生活にはありましたし、成年に達しても職場や地域のコミユニテイなどでままあることだからです。
 そういう意味からすれば、理解を完全に超える現象が明確に現れたのは、平成5年のいわゆるブルセラ・ブームからでしょう。 女子中高校生たちが、小遣い欲しさに自分の下着などを売り、さらには売春までして、それにかかわる業者が摘発されたりして話題をさらいました。 「援助交際」 なる不思議な言葉が流行しだしたのもこの頃からです。
 同時期に 「コギヤル」 と呼ばれる少女たちも登場しています。 大人の目から見るとかなり奇怪な姿をして、渋谷などの繁華街で日がな路頭にたむろしている女の子たち。 彼女たちの生態の中には、諏訪氏の云う 「未来社会的な公共圈」 が芽生えているので 平成9年には、神戸で 「酒鬼薔薇」 事件がおき、翌年にかけて教師をナイフで刺し殺すといった、少年事件が多発しています。 子供に 「なぜ人を殺してはいけないか」 をどう教えるか、ということが議論されたのもこの頃です。 このような話題を議論せざるを得ないところに、平成日本が精神的な面でいかに追いつめられているか、倫理だの道徳だのを論じるはるか手前のところで考えざるをえなくなっているかが、明白です。 他国からみれば、このような議論に大人たちが汲々としている日本社会全体が、異様きわまる集団 ということになるでしょう。
 平成9年あたりから、不登校児が急増し、統計に出ているだけで10万人という数字がでています。 低年齢の児童にまで問題が拡大し、平成11年には 「学級崩壊」 が社会問題になってきました。 同時期に、 「引きこもり」 という言葉も一般的に流通をはじめます。 「引きこもり」 は、10代から40代まで広い年代に見られる問題で、もはや単純に若者、子供がおかしいとはいえなくなっています。 平成9年の東電OL殺人事件の被害者の生活と心性に見られるように、従来の尺度では測りがたい行動、あるいはその背後の価値観なり論理が、社会全般全世代に見られるようになります。 いいえ、価値観や論理などという言葉を使うべきではないかもしれません。 思惟とか判断といったものから遠く隔たった、虚無というか空無、しかしそれはけしてただ空なのでなくとてつもなく面倒なものをたくさん詰め込んだ空無があるように思われます。 平成13年の池田小学校児童殺傷事件などは、その空無のもっとも激しく醜悪な露呈なのでしょう。
 平成年間、教育ほど多く論じられた問題はありません。 歴史教育問題にはじまり、教育基本法の見直しと奉仕活動の導入、日の丸・君が代と学校式典のトラブル、学習指導要領の改訂と 「ゆとり教育」 。 そしてそれらの議論の背後には常に、頻発する少年少女の凶悪犯罪や性的類廃、そして学級崩壊などの社会問題が横だわってきました。
 けれども、教育の問題、あるいは子供の問題をつきつめていけば、結局常に顔を出すのは親たち、大人たちの問題なのです。 平成年間には、親や家族による児童の虐待、虐待致死や育児放棄(ネグレクト)なども社会問題化しています。 教育の問題を考えれば考えるほど、大人たちの問題と直面せざるをえなくなります。 もっとも解りやすいのが先生方の問題でしょう。 昔からいわゆる問題教師が起こす事件というのはありましたが、どうも平成になってからその問題の質が変わってきている、理解の範疇を超えています。 平成13年に、女子中学生を監禁しようとして、高速道路で転落致死させた事件がありました。 その犯意の歪み方だけでなく、教師が、自分の生徒たちと同年輩の少女を暴行する意図をもち、手錠までかけて拉致しようとしていた、という図式は、暗濃たるものであるとともに、教師と生徒という関係自体が、溶解してしまったのか、と疑わせます。
 近代国家、近代社会が成立する基盤は、国民教育にあります。 教育を通じて、国民としての、あるいは近代社会の市民としての、共通理解、共通感覚を醸成していく。 つまりは教育によって、国民としての一体感や、共通する倫理観が作られていくわけです。 もともと江戸時代から、地域教育が広く存在していたこともあり、明治から昭和戦前にかけての国民教育は、大きな成功をおさめました。 敗戦から、かくも短期間に回復することができたのは、国民の教育水準が高く、しかも同時に一定の均質性を待っていたからでしょう。 だとすれば、現在の教育の危機は、何よりも、国や社会の共通了解の危機なのです。 あるいは、むしろこう云うべきかもしれません。 倫理についても、価値観についても国や社会に共通了解がない、作ろうとしていないのに、どうして教育の現場においてそれが可能になるのか。
 諏訪さんは、政治家や知識人に、どうすれば教育はよくなるのか、と質問をされると憤りを覚えるそうです。 たしかにそうでしょう。 国全体の舵とりが放棄されている状態において、教育だけを救い出せるわけがない。 それはまさしく、戦略的失敗を戦術で取り戻そうとする愚にほかなりません。
 いずれにしても、教育問題からほのみえるのは、平成年間に日本社会が知らないうちにいかに変質してしまったのか、異様な、歪んだものになってしまったのかということでしょう。





おまけ