騙されるな!
 「民主的」 教育論が子供をダメにする



 現在、教育基本法改正への動きが停滞しているが、改正に抵抗している勢力は、ただ改正に反対しているだけではない。 改正案そのものの中に、改正の精神とは相反する思想を忍び込ませる画策をしているのである。
 もし基本的性格に関する部分に、改正の精神に反する思想が盛り込まれるなら、 「愛国心・公共心は大切」 「家庭教育も大切」 という言葉は並んでいても、根本の間違った思想は元のままだという結果になりかねない。 そうした危険は中教審答申の中にも充分に現われている。
 与党の中にも、たとえば通信傍受法を極端に使いにくくさせて換骨奪胎してしまったとか、自衛隊の武器使用にできるだけの足枷をつけようとか、あるいはさまざまな場面で個人思想やジェンダーフリー思想を忍び込ませようという勢力がつねに存在している。 こうした勢力に対抗するためには、良識を持っている人々の理論武装を早急に図り、してはならない譲歩をしないように歯止めをかける必要があろう。
 以下、とくに家庭教育の問題を中心にして、教育基本法改正案の中に潜む危険思想を明らかにし、これらの誤った思想を早急に克服することを提案したい。

1. 家庭教育の崩壊と立て直し

 家庭の教育力が著しく低下していることは日常の経験から誰もが感じているところだが、客観的な調査の結果からも明かである。 たとえば、親がいつも 「嘘を言ってはいけない」 と言っている割合についての国際比較調査によれば、他の国々( アメリカ、韓国、中国、イギリス等々 )ではすべて7割から8割なのに対して、日本はたったの3割程度である。 また2歳児を夜の10時以後に寝かせる家庭が半分以上という調査が複数ある。 つまり子供には大人とは異なる生活のリズムを習慣づけなければならないという意識を持っている親が、今や半数以下になっているという事実がある。
 躾をしなければならないという意識を持っている親が減っており、叱ることはいかなる場合にも悪いことだと信じている親も増えている。 大学生にマナーやルール違反について注意すると、はじめて注意されたと驚く者が多くなっており、そのことにこちらが驚く有様である。 注意されてキレて殺人にまでおよんだケースが何度もニュースとなった。
 そもそも親自身が子供だったときに何の躾も受けなかったという者が多くなっている。 たとえば、PTAの会合で遅刻や私語が絶えないとか、発表会で人前に飛び出してビデオカメラを廻し続ける、果ては運動会の会場で喫煙や酒盛りをする保護者が出現するに至っている。 私の大学でも、いま受験生が教室の下見に訪れるが、付き添ってくる母親が歩きながらパックのジュースを飲んでいる姿を見た。
 「親のマナー違反」 については、すでに語り尽くされている。 親自身が家庭教育を受けていないし、家庭教育とは何をするものかについてまったく関心がなく、子供を躾なければならないという意識もない。
 そもそも家庭・家族が崩壊していたり、躾の機能を失っている場合も増えている。 大阪の弁護士会の調査によれば、凶悪犯の家庭は事実上崩壊しているなど、必ず深刻な問題があった。 私の調査によれば、凶悪少年犯罪の場合には、必ず母性が欠けており、父性も不足していた。
 このように、家庭の教育力の低下と言われている現象は、根本的には親が家庭で何かを教えなければならないという意識を持っていないために、家庭が躾の機能を失っているところに起因している。 さらに困ったことには、家庭での躾を大切だと考える人たちの中でも、家庭で何を教えなければならないかについて社会的なコンセンサスがなくなっている。
 したがって、家庭の教育力を高めるためには、家族と家庭こそが子供を育てるための基本単位であるということを社会全体で確認し合うことと、その家庭で何を教えるべきかについて早急に社会のコンセンサスを確立または復活させることが必要となる。

2. 憲法と教育基本法を改正すべき理由

 家庭教育について国民の意思をまとめていくためには、家庭教育の重要性について憲法と教育基本法の中で明確に唱うことがまず必要となる。

まず理念を高く掲げよ

 家庭教育が人格形成の大切な基礎であるという認識は、すでに国民の非常に多くが共有しており、中教審の答申などにも明記されている。
 たとえば、平成8年7月の中央教育審議会は 『21世紀を展望した我が国の教育のあり方について』 第1次答申において、家庭教育が 「すべての教育の出発点」 であり、 「子供の教育や人格形成に最終的な責任を負うのは家庭」 であるとして、家庭の役割を重要視する見方を明確に打ち出している。 しかも家庭教育への支援策として、
 1 家庭教育に関する学習機会の充実
 2 子育て支援ネットワークづくりの推進
 3 親子の共同体験の機会の充実
 4 父親の家庭教育参加の支援・促進
を提言した。
 さらには、平成14年7月には、 「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」 が報告書を提出したが、この報告書にも 「家庭教育がすべての教育の出発点」 であるという前提から、子供との接し方や教育の仕方が分からない親の増加という事態に対して、 「家庭における子育てや教育を社会全体で応援し支えていく」 必要を訴えている。
 これらの例に見られるように、有識者からなる政府の審議会や懇談会で繰り返し家庭教育が基本であることが確認され、家庭教育を支えるための政策の必要性が提言されているにもかかわらず、実際には家庭教育の強化につながる施策が一向に実現しないのはなぜであろうか。
 それは法律による強制力が働いていないからである。 もともと日本人には、道徳や教育のような自発性の原理に基づくものは、法律による強制になじまないという考えが根強い。 それゆえ教育、とくに家庭教育について法律が口出しすることに対する抵抗感は相当に根強い。 これが家庭教育を立て直す上で見過ごすことのできない障害になっている。
 しかし男女共同参画社会基本法に見られるように、国民の意識や観念に関することでさえ、法律によって強制し、各自治体のレベルで条例を定めて強力に推進しようとすれば、望ましくない意識改革や文化革命でさえ進んでしまう。 それを思えば、望ましい教育改革を法律で定めて推進することに躊躇する理由はないと言うべきである。
 そもそも法律には理念を掲げる法と、強制力をもった法があり、憲法や教育基本法は理念を掲げる法律であり、直接の強制力を持たない。 強制力を持たせるためには、具体的政策を進めるための方法を定めたり、違反に対して処罰の方法を定めた具体的な法律を必要とする。 法律の体系としては、まず理念を掲げる基本法があり、次にそれを実行するための具体的な法律や政策を定めなければならない。
 具体的な法律や政策は理念法を土台として作られる。 その意味では基本の理念法が最も大切だということになる。 家庭教育に関しては、この基本が我が国の憲法と教育基本法に欠けているのであるから、家庭教育が崩壊するのをくい止める手だてを行ないようがないのである。 したがって、教育改革を実効性あるものとするためには、早急に憲法と教育基本法の欠陥を是正する改正を実現しなくてはならない。

日本国憲法の欠陥

 憲法と教育基本法の欠陥はどこにあるのか。
 まず憲法の欠陥。 家庭教育に関して言うなら、日本国憲法の最大の欠陥は、家族が国の最も大切な単位だということを唱っていない点にある。
 憲法の中で婚姻や家族について書かれているのは第二四条においてであるが、そこには 「家族は大切である」 とか 「家族は社会の基本単位である」 とは書かれていない。 ただ 「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」 「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」 と書かれているにすぎない。
 ここには 「個人の尊厳」 「法の下の平等」 「両性の本質的平等」 については書かれているが、しかし家族が子供を育てる基礎単位であるという視点はまったく見られない。
 もし育児や家庭教育の基本単位だという視点を欠いたまま、単に 「個人の尊厳と平等」 だけを唱うならば、子供を躾るために必要かつ適切な上下関係までも否定されかねない。 そうなると、 「子どもの人権」 を楯に、未成年者が成人と同等の人権や発言権を持つことにされてしまう。 それでは子供の教育や躾は不可能になってしまうであろう。 子供の人権や自主性だけを強調する 「民主的」 教育論がいかに教育を毒しているかについては、後ほど詳しく論ずる。
 ここで参考までに、憲法に家族が基本単位だということを書いてない国々と、明確な 「家族」 保護規定を持っている国々とを比較し、家族や家庭教育をめぐる状況がどう違っているかを簡単に見ておこう。
 憲法に家族条項がない国々、たとえばアメリカ合衆国、フランス、スウェーデン、デンマークなどでは、離婚率と犯罪率が高く、基本家族の形態が少なくなっているのである。
 それに対して、離婚率が比較的少なく、基本家族の形態が比較的よく残っているドイツ、イタリア、フィリピンといった国々には、明確な 「家族」 保護規定が存在している。
 この法則的とも言える違いは決して偶然ではないであろう。 憲法に家族条項があれば国の意志、政治家や官僚の意識、国民の意識にも影響を与え、家族や家庭教育を大切にする行動や政策を生み出す原動力になるであろう。
 この法則に唯一と言っていいほどに反しているのが日本である。 日本人はなによりも家族を最も大切だと思っているし、家庭教育も大切だと思っている。 それなのに憲法や教育基本法に家族条項がないというのは、かなり異様なことと言わざるをえない。 早急に家族条項を入れて正常化しなければならない。

教育基本法の欠陥

 教育基本法においては、家庭教育が教育の最も大切な基礎だということは唱われていない。
 家庭教育については、第七条( 社会教育 )の中に、 「社会教育」 の一部という認識のもとに、次のように述べられているにすぎない。
 「家庭教育および勤労の場所その他社会において行われる教育は、国および地方公共団体によって奨励されなければならない。」
 「・国および地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。」
 要するに、家庭教育を社会教育の一環として国と自治体が奨励すべしということと、そのために施設を設置し利用しやすいように努めると述べられているだけである。 つまりは、家庭教育は学校教育 「以外」 として分類されていると言っても過言ではない扱いである。 家庭教育が学校教育等のすべての教育の基礎だという理解は皆無だと言っていい。 これは決定的な認識不足または欠陥だと言うべきである。
 さらに重大な欠陥は、家庭教育において、誰が誰を教育するのかまったく不明瞭なままにされている点である。
 所詮、教育とは、誰がいつ誰をどのように教育するかという問題に帰する。 これを明らかにしないでは、教育論としてはまったく無意味になってしまう。
 具体的に問題点を示そう。
 学校教育に関してはこの点は明瞭に定められている。
 教育基本法の第六条( 学校教育 )には、学校は公の性質を持つとされており、それを受けて学校教育法第二十二条と第三十九条には 「就学義務」 が定められ、保護者は子供に小学校と中学校の義務教育を受けさせる義務を負うことが明記されている。 これによって、義務教育は公としての国や地方公共団体が与えるものであり、保護者はその教育を受けさせる義務を負うことが明記されている。 学校教育については、 「誰がいつ誰を教育する」 という与え手と受け手は明かである。
 しかるに家庭教育については、 「誰が誰を」 教育するのか、まったく書かれていない。 恐らく家庭教育について、誰が誰を教育するのかという問題意識そのものを起草者が明瞭に意識していなかったのではないか。 だからこそ、家庭教育を 「社会教育」 という項目に入れて、何の疑問も生じなかったのであろう。 教育の与え手、受け手を明瞭に意識していたなら、家庭教育を 「社会教育」 の項目の中に入れて平然としている神経にはなれなかったろう。 両者は与え手と受け手において、まったく異なるものだからである。
 社会教育の場合には、受け手は成人が想定されており老若男女さまざまである。 与え手も個人あり団体あり、またその資格もさまざまであり、内容も千差万別、職業教育から教養教育、趣味やスポーツなど多岐にわたっている。 ついでに言えば 「生涯教育」 という場合に幼児から高齢者までを含むのか、成人を対象に考えているのか必ずしも明確ではない。 「生涯教育」 を重視するというのであれば、教育の与え手と受け手を明確にしないと、議論が宙に浮いてしまうだろう。
 家庭教育の与え手は親権者であるということ、親権者は子供に躾を施す責任と義務があることを、明記するのでなければならない。

土台としての教育勅語の廃止

 教育基本法の中に、家庭教育の重要性について明記されていないのは、なぜであろうか。 じつは教育基本法が制定されたときには、その前提となるものが存在していたからである。 それは教育勅語である。 教育基本法は教育勅語の存在を前提にしていたのである。
 教育勅語には、家庭教育に当たる内容が次のように記されていた。 「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ……」
 後半になると家庭のみでなく学校や社会で教えられることも含まれるが、家庭での訓育によって涵養されるべき徳目が網羅されている。 こうした格調高い文章によって教育の基本が宣言されており、それを受ける形で教育基本法が制定されたのである。
 ところがその後、教育勅語は廃止されてしまった。 いわば土台があるからと安心してその上に家を建てたところが、土台だけ壊されたようなものである。 以来日本人はとくに家庭教育に関して土台のない家に住んできたようなものであり、土台のない家が崩壊するのは当然と言えば当然である。
 すでに遅すぎたとはいえ、早急に土台を作る作業に取りかからなければならない。 土台とは、憲法の中に家族が社会の基本単位であるという規定を入れ、教育基本法の中に家庭教育が基礎であるという条項を入れることである。

3. 今回の中教審答申の疑問点

 その方向性は、今やすでに大部分の国民の共通の了解となっており、また数次の中教審の答申によって確認されている。 それは政府の方針としてはっきりと確認されていると言ってよい。
 念のため、この点が今回の中教審の答申ではどうなっているかを見てみよう。 さすがに家庭教育の重要性は充分に意識されており、 「家庭教育」 が独立の項目となって 「社会教育」 からはっきりと区別されている。
 「家庭は教育の原点であり、すべての教育の出発点である。 親( 保護者 )は、人生最初の教師として、特に、豊かな情操や基本的な生活習慣、家族や他人に対する思いやり、善悪の判断などの基本的倫理観、社会的なマナー、自制心や自立心を養う上で、重要な役割を担っている。」
 まったく正しい認識であり、これまで何度かまとめられてきた答申の延長線上に、さらに明確に正しい方向が示されていると言える。 あとはこの方針に沿って、まず教育基本法を改正し、教育改革を実践していくだけである。
 ただし、その実践の方法を考えるときに、看過すべきでない重大な疑問点が混入している箇所に注目しなければならない。
 答申は 「新たな規定」 が必要だとして、次のように述べている。
 「家庭教育の現状を考えると、それぞれの家庭( 保護者 )が子どもの教育に対する責任を自覚し、自らの役割について改めて認識を深めることがまず重要であるとの観点から、子どもに基本的な生活習慣を身に付けさせることや、豊かな情操をはぐくむことなど、家庭の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当である。」
 家庭教育において教えられる内容についてはまったく異論はないし、親( 保護者 )の責任について言及しているのも賛成である。 だが 「責任」 についてだけ言及し、 「義務」 については何も語らないのは、どういうことであろうか。 「責任」 があれば当然 「義務」 が生ずるはずである。 しかしその当然生ずるはずの 「義務」 についてはまったくふれられていない。
 「義務」 の伴わない 「責任」 とはどういうものかと疑問に思いながら、次を読んで、驚いた。 「責任」 の概念の理解が、答申を書いた人たちと私とでは、まったく逆だったのである。
 答申には、続いてこう書かれている。
 「なお、その際には、家庭が子どもの教育に第一義的な責任を持っているという観点に充分留意し、最小限の範囲で規定することが適当である。」
 新たな規定が必要だと言っておきながら、その規定は 「最小限でなければならない」 というのは、不可解である。 「必要」 なものならば、最大限に強調すべきではないのか。 じつはそう思うのは、 「責任」 という言葉を私と同じ意味に取っている人なのである。 私は 「責任」 という言葉を積極的な意味で理解し、たとえば 「責任をもって何々を行う」 「したがって結果を出す責任を負う」 「だからその行為は当然義務となる」 と理解していたのである。
 「責任」 という言葉をこのように理解している者から見ると、 「責任がある」 といいながら、急転直下 「最小限の規定にせよ」 と言われると、 「矛盾ではないか」 と言いたくなってしまうであろう。
 よく読んでみると、答申を書いた人たちの意識においては、 「責任」 という言葉は逆の意味で、つまり他人の介入は無用だという意味で理解されているのである。 すなわち親が 「第一義的な責任を負っている」 のだから、他人は口出しすべきではない、口出しするとしても最小限に限るべきだ、という理解なのである。 こうなると、 「第一義的な責任」 という言葉は 「他人の口出しを排除する治外法権」 という意味に限りなく近づいてしまう。
 となると、最後に書かれた 「最小限」 にとどめよという表現によって、それまで書かれていた 「責任」 という言葉が、すべて親の専断事項のように解釈され、他人の介入を拒む根拠にされかねない。
 それどころか、家庭での教育は親の責任であり、どう育てようと親の自由だから口出し無用だなどという暴論に道を開くことにもなりかねない。 そういう主張が勢いを持ってしまうと、いくら家庭教育の重要性を叫んでも、実際には国や自治体や有志等の働きかけはまったく不可能になってしまうであろう。
 児童虐待や家庭内暴力については、 「家庭の中への不介入」 という原則が問題の解決にどれだけ障害になってきたか、今ではよく知られている。 もちろん暴力に対する対処と、自発的な親による子供の躾とを同列に論じろと言うのではない。 家庭教育の現場に踏み込んで直接指導せよなどという乱暴なことを言いたいのでもない。
 しかし、少なくとも、子供に最低限の教育・躾を行うことが親の 「義務」 であるということだけは、堂々と唱うことができるのでなければならない。
 「最低限の範囲で」 という言葉を付け加えなければならないと考えた委員たちは、 「人権」 だの 「主体性」 だのという幽霊に恐れをなして腰が引けていると言わざるをえない。 家庭教育の重要性を唱うのならば、家庭教育に対する親の義務について、はっきりと打ち出す気構えがなくてはならない。 答申のような腰の引けた弱腰の姿勢では、教育改革の難事業は到底なしえないであろう。

4. 改正を阻む 「民主的」 教育論の害毒

 じつはこうした腰の引けた家庭教育論の背後には、家庭での躾に否定的な発言を繰り返している、 「人権」 派の 「民主的」 教育論者たちの群れがいる。 彼らこそ、家庭教育を基礎にすべき教育基本法改正にとっての最大の障害と言わなければならない。
 その中から、とくにメディアによく登場し著書も多い二人の教育評論家の教育論を取り上げて、その欺瞞性と危険性を明らかにしておきたい。
 一人は広田照幸氏( 東大助教授・教育社会学 )である。 氏は著書 『日本人のしつけは衰退したか』 ( 講談社現代新書 )の中で、 「昔は家庭のしつけがしっかりしていた」 「このごろ家庭の教育力が低下した」 ( しつけの衰退が青少年事件の原因である )という見方は事実に反しているとして、日本人は昔から家庭でのしつけをしてこなかった、 「家族のしつけは衰えるどころか、以前よりもはるかに熱心になされるようになってきている」 ( 198頁 )という認識を示している。 さらに氏は、しつけをできるだけ過小評価しようとして、次のような詭弁を弄している。
 「『 もっと子供のしつけに熱心になれ』 と言われてもそれどころではない、多忙な親や不和の夫婦もあるだろう。 いくら親が注意を払ってしつけをしていっても、思いがけない、とんでもないことをしでかしてしまう子供に育ってしまう可能性もゼロにはならない。 しつけや教育というものは、しょせんその程度のものでしかない。」 ( 199頁 )
 まったく論理的でない文章である。 躾をできない親がいるからといって、躾をしなくていいということにはならないし、いくら躾をしようとしても 「とんでもない」 子供に育つ場合もあるからといって、躾が無駄だということにはならない。
 「家庭のしつけにさまざまな問題の原因を求める議論は、すべての親に 『完璧な両親』 になることを求めるのだが、そんな時代はくるはずがないし、それがもし実現したらずいぶん気持ちの悪い社会になるはずである。 人間の生き方は多様だし、親はそもそも子供のためだけに生きているわけではないのだ。」 ( 199~200頁 )
 「家庭のしつけ」 や 「家庭教育」 が大切だと言うと、どうして 「完璧な両親」 を求めることになるのか、まったく分からない。 「親はそもそも子供のためだけに生きているわけではない」 ということが、どうして躾をしなくていいということになるのか、分からない。 なんともお粗末な非論理的文章である。
 こうした詭弁によって、彼は何を言いたいのであろうか。 要するに躾や家庭教育の衰退が青少年の問題行動の原因ではないと言いたいのである。 彼の隠された動機は、なんとかして家庭教育の重要性を否定したいのである。
 広田氏は学問や言論を 「言いくるめ」 のために使うことが多い。 たとえば、 『朝日新聞』 平成12年8月25日の文化欄に、広田氏の 「メディアと 『青少年凶悪化』 幻想」 という文が載った。
 趣旨は、青少年の犯罪が凶悪化しているというのはメディアがふりまいている幻想であり、凶悪な犯罪は 「ごく例外的に起きる」 事件であり、 「ごくまれにしか起きない例外的事件」 「希有な事件」 に目をうばわれて少年法の 「保護主義的な枠組みの長所を失うのは、リスクが大きすぎる」 というものである。
 前掲著書でも、青少年の犯罪は増えていないだとか、 「非行の大半は、万引きや自転車・オートバイ泥棒のような、 『ちんけな』 逸脱で占められている」 と、ことさらに過小評価しようとしている。 もちろんそれらの 「ちんけな」 犯罪は決して過小評価されるべきではなく、重大な犯罪への入口になっている。 また青少年の犯罪は一般の犯罪と同様に1996年ころから急に増えており、現在も増え続けている。
( 統計を恣意的にすりかえて、検挙数は増えていないと言い張る者もいるが、検挙率が減っているので、発生件数は増えても検挙数は横ばいになる。 こうした詭弁による少年犯罪の過小評価は、すでに前田雅英 『少年犯罪 統計から見たその実像』 東大出版会、同 『日本の治安は再生できるか』 ちくま新書、によって完全に反論されている。 )
 こうしたすりかえ、ごまかしを使いたくなるのは、家庭教育に対する一種の拒否反応があるからだろう。 躾はある種の強制であり、押しつけであるという面のあることは否定できない。 意識や行動様式を習慣化するのが躾であり、社会人となるために必要な躾は繰り返し教えこまなければ身に付かないものである。 自分で自主的に学びなさいと言っていては不可能である。 しかるにこの手の自主性尊重論者たちは、自分が躾を押しつけられたくないという感覚から、躾を軽視したり、家庭の教育力の低下が犯罪の原因だという見方を執拗に否定したがるのである。

 もう一人、家庭教育の大切さを否定する意見を執拗に繰り返しているのが尾木直樹氏である。
 氏は著書 『子どもの危機をどう見るか』 ( 岩波新書、2000年 )の中で、200年に出された 「教育改革国民会議」 ( 首相の私的諮問機関・江崎玲於奈会長 )のアピール案の中にある 「道徳の時間の中で、悪いことをしたら相応の罰が子供に対して与えられることを教える」 「家庭が自分の子供の行動に責任を持つ」 ことを、 「今日の典型的な子ども観」 だとして、否定している。
 すなわちその間違った 「子ども観」 とは、 「子どもは大人への発展途上人であり、未熟な人間である、したがって、成熟した大人には何が正しいかを子どもに教え込む義務があるのであり、そのためには罰を与える必要がある。 しかも、そうした教育活動は、一にも二にもまずは家庭で行われなければならない、という考え方です。」 ( 142~3頁 )
 この子供観がのどこがいけないのか、私にはさっぱり分からない。 子供は大人になりつつある存在であるということや、子供は未熟な人間であるということ、また善悪の基本を教えること、それらはまず家庭で最初に教えるべきこと、これらはあまりにも当然な常識ではないであろうか。
 こういうあまりにも当然の教育観を否定した上で、どういう教育が望ましいというのであろうか。 その点について尾木氏の考えはこうである。
 現代は 「保護される子ども」 がなくなり、その意味での 「子ども期」 がなくなりつつある時代である。 だから子供も大人も( 対等の立場で ) 「共生」 する 「質の高い民主主義」 を実現しなければならない。 「個々が違いを認め合い尊重し合いながら、家庭や地域や学校や社会を作り出していくこと、そのプロセスに子どもが主体的に参加してゆくこと、その中で子どもの自己決定権を育んでいくこと」 ( 176頁 )が理想とされる。
 たとえば、学校では 「スクール・デモクラシー」 が必要だとされる。 「スクール・デモクラシーとは、一人ひとりの子どもが自分らしく生きることができるように成長・発達を支援する徹底した参加中心の民主主義と、その表裏関係にある自己責任能力を身につけさせる学校理念のこと」 であり、これが実現されれば、今日発生している諸問題は 「創造的な解決へと進む」 そうである。
 なんとも極楽とんぼのような楽観論、どこかで聞いたような 「地上の楽園」 のから約束だが、氏の現実認識は真実とはまったく逆であると言うしかない。
 今日の子供の問題は、子供たちが自己責任能力はおろか、自己コントロール能力も自主性も個性もなにもないことを示している。 そういう子供に大人と同じ権利と責任を持たせることができるというのは、幻想であり空論であると言うほかない。 これがいま日本で最も多くメディアに登場している教育評論家のご託宣なのである。
 氏の教育論は、すでに破綻した 「ストレス原因論」 であり、子供を競争させ管理しているからいけないので、 「もっとゆとりを」 与え、自由に自主的に 「学ぶのを支援」 すれば、子供はのびのびと育つ、という子供観と教育観を前提にしている。 その方針で寺脇研氏を中心に進めた教育改革によって、ますます子供の犯罪化が進み、学力崩壊が進んだことをまったく反省しないまま、氏は依然として 「子どものストレスを減らそう」 ( 『読売新聞』 平成15年9月22日付 「論点」 )と同じ歌を歌い続けている。 しかも氏は革新派だけでなく、保守派からも珍重され、テレビ・新聞はじめメディアに最も多く意見やコメントを発表している。 こういう偽善的な空理空論がもてはやされるようでは、日本の本当の教育改革は実現しないであろう。

5. 忍び込む個人単位思想

 しかし、これらの 「民主的」 教育論の理論的間違いを指摘するだけではまだ不十分であろう。 その背後に、社会の白アリとしての個人単位思想が隠されていることを暴かなくてはならない。
 個人単位思想とは、個人をつねに自立し正しい判断力を持った完成した単位と考え、その個人が集まって社会や国家を作り、意思決定をすれば理想の社会が出来上がると考える思想である。
 この思想の信奉者にとっては、その自立した個人なるものが、どのようにして出来上がるのかは関心の外である。 個人はどこからか自動的に現われて主体となる。 彼らの想定する個人は、社会によって作られるのではなく、いきなり現われて社会の前提となる。 いわば抽象的な思考の産物であり、それを基にして社会が作られるべきだとされる。
 この思想のひな形はホッブスやルソーやロックの社会契約説である。 性悪説に立って個人は邪悪だから一斉に権利を放棄して国家に預けるべしと考えるか、性善説に立って個人は善であるから予定調和的によい国家を作ることができると考えるかの違いはあっても、初めに社会とは無関係に個人が出来上がっていて、それを前提にして社会が形成されると捉えていることに変わりがない。
 しかし、個人が社会を構成する単位となるためには、その個人はしっかりとした自我を持っていなくてはならない。 ところが当然ながら個人の自我は社会と無関係に形成されるのではない。 家族や社会からさまざまな影響を受け、価値観を継承しながら、それらを組み合わせて自我が形成される。 したがって自我というものは初めから個性的であるというよりは、時代や社会の枠の中でかなり画一的な性質を持つのである。 その画一性というものは、一概に悪いものではなく、基本的なところではある程度以上に画一的でないと社会は成り立っていかないのである。 要するに家族や社会の前に個人の自我があるのではなく、家族や社会によって自我が形成されるのである。
 それゆえ、子供の自我形成にあたって、まず前提になるのが家族や社会であり、その文化的な伝統であることは、理の当然と言わなければならない。 それらの中にある望ましい価値をしっかりと子供に吸収させることが自我形成の基本とならなければならない。
 つまり 「初めに個人ありき」 ではなく、個人が形成される前提として家族や社会があるという現実をしっかりと認識し、その家族や社会の影響をできるだけよくすることに腐心するのが教育の課題である。
 個人単位思想においては、この順番が逆になっている。 彼らは、どこでどう人格形成されたのか分からない、どこからか突然現われた出自不明の個人が社会を形成すると考えているが、それは自我形成のなんたるかを知らない空理空論と言わざるをえない。
 ただしこの理論は単なる愚かな空理空論ではない。 個人単位思想を唱える者たちが公言しているように、最高位に置かれた 「個人の自己決定権」 とは 「システムを空洞化し腐蝕させる」 ( つまりは家族や社会を崩し破壊する )ための戦略として明確に位置づけられているのである( 上野千鶴子 )。
 この 「社会の白アリ」 としての個人単位思想が、今回の中教審の答申の中に忍び込んでいるところに、日本の病根の深さが現われているのである。
 親の 「責任」 という言葉が、個人単位思想を基にして使われるなら、それは 「個人の勝手」 「親の治外法権」 を認めることになり、事実上の親の無責任を助長してしまうであろう。 親の責任とは、共同体の文化的価値意識を子供に継承させ、社会規範を教え、それにそって自己をコントロールする能力をつけさせる義務を意味するのでなければならない。
 このような意味での家庭教育の方向性を国民のコンセンサスにすることをこそ、教育基本法改正は目指さなければならない。 幸い民間教育臨調では、正しい教育基本法改正の方向性を示すために報告書を作成する作業を進めており、全体の方向性を指し示す本についで、家庭教育部会の報告書もほぼ出来上がり、引き続いて公刊する目処がついている。 この内容は委員各位のご努力によって非常に充実したものになっており、家庭教育の指針として申し分のないものである。 続いて教育理念部会、学校教育部会、教育制度部会の報告書も完成するはずである。 これらの成果を、日本の教育の立て直しに十二分に活用していただきたい。






  

 この10年、私は世界30ヵ国ほどの100校近い小中学校と家庭、地域生活を取材し、41冊の図鑑と1冊の文庫本を創った。 長期にわたる取材を経て、痛烈に感じてきたのは日本の特殊性 「愛国教育」 以前に、 「国家を認識する」 「日本人というアイデンティティを育む」 環境の乏しさ だ。
 精神的に国籍を持たないステイトレス( stateless )が増殖し、かつ日本語主義のモノリンガル( monolingual )という不可思議な環境となっている。 世界的にみれば安全で恵まれた国に生まれ育ちながら、 「幸せ度が低い」 国民でもある。
 昭和の時代、祝祭日などに家の門前ではためく日の丸を目にしてきたが、いつしかその習慣は消えつつある。 私の携帯電話( au )の絵文字にしても 「国旗」 と打って出るのは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、中国、韓国の国旗。 これらの国は国名でも、星条旗や五星紅旗などの絵文字が出るが日本と打っても日の丸は出ず、 「日の丸」 と打ってようやく絵文字が出る始末。
 これは戦後これまでの自民党政治と社会、教育の問題だが、いよいよ民主党政権が船出するにあたって、不安はさらに色濃くなるばかりだ。
 思い起こせば14年前の村山内閣は1年半と短命だったにも関わらず、 「ゆとり教育」 が強化 された。 以降、子どもたちの学力は下降線を辿る
 子ども手当て、高校無償化など票取りのためのばらまき以外にも、民主政権の教育政策は、 「教員免許更新制の廃止」 、 「教科書検定制度維持」 を反故など危険がいっぱいだ。




 本丸は文部科学省の解体らしい。 役割を限定した中央教育委員会へと文科省を縮小させ、保護者や地域住民らによる学校理事会が学校を運営し、教科書採択も学校理事会で行うよう段階的に移行していくという。
 これらは民主党の支持母体、日教組・自治労の“強い願望”なのだろう。 「教育の政治的中立はありえない」 と言い放つ “教祖”輿石車参議院幹事長も、出番を待っている。
 「『 日の丸』 ・ 『君が代』 反対」 や 「道徳教育反対」 に燃え、 「自虐史観歴史教育」 推進派の日教組が元凶であることは言わずもがな。
 「戦後レジームからの脱却」 を目指す安倍内閣のときに提唱した、 「国を愛する心」 や 「日本の伝統尊重」 を盛り込んだ教育基本法改正案にも猛反対し、署名運動に燃え、生徒をほったらかしてまでデモを展開している。
 8月8日、鹿児島県内で聞かれた民主党集会の、日の丸の旗を切り刻んで上下につなぎ合わせた“党旗ギザギザ事件”。 民主党の集会に国旗掲揚がないとは聞いていたが、国旗( 国家 )よりも党旗が大切とは。 民主党の本性を見た思いがする。
 世界は継続的な発展や繁栄を目指し 「教育力こそが国家力」 を基礎に、大国も小国も、資本主義国も( 旧 )社会主義国も、歴史の長い国も新興国も、教育を通じて 「愛国心を胸に、国益を第一にグローバルに活躍できるエリート」 の輩出に力を注いでいる。 そのため多くの国々には、子どもたちが朝礼など日々の学校生活、ナショナルデー、大統領選挙といった国家的行事、街の銅像などから、国家意識を培う環境が自然にある。




 「I pledge allegiance to the Flag of the United States of America ……」
( 我は誓う。 アメリカ合衆国の旗に忠誠を尽くすことを…… )
 アメリカの小中学生の朝は、星条旗に向かってのこの宣誓( pledge )と国歌斉唱から始まる。 教室はもちろん、校舎そして校内の至るところで国旗が目に飛び込んでくる。 一般的に、国旗と州旗の上げ下げは生徒の役割だ。 宣誓は起立した姿勢で、 右手を左胸に当てて行う。 帽子を被っている生徒もこの瞬間は脱ぐ。 この時間に学校を訪問していた保護者ら大人も、同様に宣誓をする。
 一例で、カリフォルニア州法の教育規約には 「全ての公立小学校で、授業が始まる前に愛国教育を実施する」 と記され、愛国プログラム( Patriotic Program )と呼ばれている。 教育は州ごと、地域ごと、そして“学校分権”も進んだアメリカだが、国旗と国歌はどの学校で学ぼうと、子どもたちの中心にある。
 7月4日の独立記念日も、国家と国旗を意識する大切な一日だ。 国や州、地域、学校といった様々な単位でパレードや花火大会などが催され、星条旗で埋め尽くされる。 間近になると、ビニール製の国旗が配られる地域もある。 さらに4年に1度 のアメリカの大統領選。 子どもたちに選挙権はなくとも、大人たちや街の熱気、メディアで国家を意識し、学校ではアメリカ史や歴代大統領の有名な台詞を学び、政策論争を戦わせる機会にもなっている。
 「Do you like Egypt?」 ( エジプトを好きですか? )
 エジプトの首都カイロの比較的新しい住宅街にある公立学校でのこと。 4年生の教室で、次々と子どもたちから質問攻めに遭った。
 「Yes, of course!」 ( もちろん! )
 一人ひとりに気持ちを込めた返事をすると、満足げにニコリと笑って次の質問に入る。 英会話がそこそこ上手な子どもたちにとって、初対面の外国人との挨拶代わりに交わされるのが、どうやら 「エジプトを好きですか?」 のようだ。 英語教育に重点を置く同校の朝礼は、英語とアラビア語で行われていたが、それは毎朝、国家と国教( イスラム教 )を意識する儀式でもあった。
 「自分の位置に並びなさい!」
 7時40分頃、朝礼を指揮する先生の大声が、校庭でワイワイ遊んでいる生徒たちの耳に響く。 子どもたちは足早に各クラスの定位置に並ぶ。
 「ハンズフロント!」 ( 手を前に! )
先生がこう叫ぶと、全校生徒たちは 「エジプト!」 と叫び、 「前へならえ」 をする。 先生がまた叫ぶ。
 「ハンズアップ!」 「エジプト!」
 「ハンズフロント!」 「エジプト!」
 こういった号令を7,8回繰り返し、手を上げ下げしながら整列していく。 同校の生徒の一日は、 「エジプト!」 と何度も大声で連呼することから始まる。 その後は、担当の生徒数名がコーランの一部を朗読したり、 「アッラーは一つ、他に神はなし」 といったアラビア語の歌を歌う。
 そして国旗掲揚。 男子生徒の一人が、掲揚塔のポールに緊張した面持ちで手をかざし、大声で 「アッラー・ホアクバル」 ( アッラーは偉大なり )と唱え、国歌斉唱となる。 子どもたちの表情はすがすがしい。
 カイロにある別の一校の朝礼も基本的には同じだった。 生徒はアラビア語でアッラーを称え、最後は英語で何度も大声でこう叫んでいた。
 「ロング・リーヴ・エジプト!」 ( エジプトよ、永遠に! )




 インドでも学校集会で、国家斉唱や国旗掲揚を行っていた。 首都デリーにあり、1年生から12年生までのアッパーミドルクラスの子女が通う名門私立学校。 帰国子女も多く、ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒など、さまざまな宗教を信 じる生徒が学んでいる。 先生の一人が語る。
 「重要なのは、インド国民としての意識付けなのです」
 生徒はまずお祈りをして、その後、片手を挙げて宣誓をする。
 「インドは私の国、すべてのインド人は私の兄弟、姉妹。 私はこの国を愛し、この国の持つ、豊かなそして様々な遺産を誇りに思います。 この国にふさわしい国民になるよう、私はいつも努力をします。
 両親や先生、年上の人すべてを尊敬し、礼儀正しくします。 国とすべての人々に、いつも良い行いをすることを誓います。 この国の人々の幸福と繁栄が私の幸せです」
 IT業界を核に、世界に存在感を示し経済成長目覚しいインドだが、それは長年にわたり推進してきた国家戦略“頭脳立国”を抜きには語れない。 国家、学校教育( 算数・数学と英語教育の重視 )、保護者 ― この三位一体がブレることなく、そしてバラマキではない集中資本投下が功を奏している。
 さらに、世界で大成功を収めたトップーリーダーやカリスマ、ビリオネアなど憧れの大先輩たちが、インド・エリート予備軍たちの学習意欲と夢につながっている。 そして素直にこう口にする。
 「国のため、社会のため、恵まれない人のために役立つ人間になりたい!」 と。




 日本で国旗国歌法が施行された直後の 『諸君!』 ( 1999年10月号 )の 『「歌唱」 を忘れた 「君が代」 論争』 ( 内 藤孝敏著 )に、諸外国には次の三つの意味を持つ国歌が多いと紹介されていた。
「自国への愛を歌う国歌」
 自国の美しさを称え、母なる大地を称え、その永続性を祈る。
( アフガニスタン、イスラエル、インドネシアなど49ヵ国 )
「自国の存続を神に祈願し、自国の国王を賛美する国歌」
 自国や国王の永遠であることの祝福や保護や救いを、神や主や造物主に祈り、願う。
( インド、オマーン、パキスタンなど27ヵ国 )
「国民の勇気を鼓舞する国歌」
 革命や闘争の末に独立や自由を勝ち取った国家では、今でも戦いの記憶を強く残したまま、 「撃て、進め、殺せ」 という戦闘的歌詞を残している。
( 中国、フランス、アメリカ、キューバなど23ヵ国 )。
 キューバの子どもたちの朝は、まさに3番目の 「国民の勇気を鼓舞する」 朝礼だった。
 首都ハバナ市の閑静な住宅街にある公立小学校。 毎朝7時50分のベルの合図で、全校生徒は中庭にぎゅうぎゅう詰めに並ぶ。 並び終わると校長先生が 「ブエノスディアス」 ( おはようございます )。 生徒も元気に挨拶する。
 そして上級生の生徒会役員数名が国旗を掲揚。 その問、直立不動で厳粛な雰囲気が漂っている。
 「国旗は私たちの国のシンボルです。 毎日の国旗掲揚では、身が引き締まります」
 生徒会役員がこう力強く語ると、全校生徒で敬礼をして国歌斉唱。 その後、当番になっている数名が全校生徒の前に出て、キューバの国歌や国旗、紋章、国鳥、国花の意味について発表したり、ホセーマルテイの愛国詩を朗読したりする。




 「キューバの国旗が、どのような経緯で今のように決まったのかを発表します。 キューバは長い間、スペインとアメリカの植民地として苦しみました。 独立を勝ち取るため戦っている間に、独立の精神が形になったのが今の国旗です。 だから国旗は私たちキューバ人のシンボルなのです。 死んでも旗を守るぞ!」
 生徒たちも同じように叫ぶ。
 「死んでも旗を守るぞ!」
 これが、ある日の朝礼の様子だ。
 子どもたちの肌の色や目鼻立ちは様々、複雑な歴史の中で先住民、黒人、アジア人、白人の混血が進んできたキューバの歴史がうかがえる。
 夕方4時、国旗を降ろす儀式も日課になっている。 7時間目の授業中だが、ジリジリとベルが鳴ると生徒はみなさっと立ち上がる。 廊下や階段を歩いていた生徒も立ち止まり、国旗が完全に降りて次のベルが鳴るまでは直立不動となる。
 子どもたちは、小学1年生より革命の歴史を学び始める。 小学4年生は、 『私たちの世界』 という科目でチェ・ゲバラはじめ革命家の偉業を学び、小学5年生以降は 『公民』 となり学習を続ける。 その他、革命博物館やホセ・マルテイ記念博物館、街中に立つ記念像などを見学する屋外活動も盛んだ。
 校長先生がこう語っていた。
 「時間を守る子、思いやりがある子、そして愛国心を持って国を誇りに大切にする子どもに育ってほしい」
 そんなキューバは今や 「世界で最も人種差別の少ない国」 と言われている。 日教組に汚染されている学校は 「いじめが多い」 「学級崩壊が目立つ」 「校長先生が自殺」 などと聞く。 キューバの先生たちの爪の垢でも煎じて飲むべきだ。




 べトナム・ホーチミン市の公立小学校でも、毎週月曜日、授業前に校庭で国旗掲揚式が行われていた。 これを指揮するのは、共産党の少年パイオニア団( 少年先鋒団 )の生徒たちだ。 少年パイオニア団への入団は、愛国心の強いベトナムの子どもたちにとっての憧れでもある。
 少年パイオニア団は、 「社会貢献」 「他の生徒の模範になること」 を常に心がけ、郊外キャンプで団結を深めたり、街中でごみ拾いをしたり、ベトナム戦争時に息子が戦死した叙勲婦人の家を訪ねる活動にも参加する。
 こういった活動を支える、国民の求心力となっているのが、ベトナム革命の指導者でベトナム民主共和国の初代大統領となったホー・チ・ミン氏だ。 子どもたちは、 「ホーおじさん」 と呼んで心から敬愛している。
 小学校の各教室の黒板の上にはホー・チ・ミン初代大統領の肖像画が飾られ、ホー・チ・ミン語録( 1条愛国心を持ち、人を愛する 2条よく学習し、よく働く 3条絆を強く、法を守る 4条衛生を保つ 5条謙遜、誠実、勇気 )をみな熟知している。
 社会科見学でも、戦争を記録した写真や武器などが展示された戦争博物館、革命博物館、戦争犯罪展示館、ホーおじさん記念館などを訪ねる。 先生の一人がこう説明をする。
 「悲惨な現代史を知ることで、祖父母や両親らが経験してきた戦争がもう二度と起こらないようにと、平和な世の中を願う精神を培い、同時に愛国心を養っていくのです」
 そして、1923年10月に共和制を宣言したトルコ共和国にとっての。 ホーおじさん々はアタテュルク。 学校はもちろん、公共施設の至るところで目に飛び込んでくるのが。 建国の父”アタテュルクの銅像、そして肖像画だ。 アタテュルクとはトルコ語で、 「父なるトルコ人」 を意味する尊称でムスタフア・ケマル初代大統領のことだ。
 イスタンブールで評判の、初等教育学校の校長先生が語る。
 「8年間の初等教育の柱は、トルコ語( 国語 )と社会です。 子どもたちは、オスマン帝国時代からトルコ共和国の独立、そしてその後の歩みをじっくりと学んでいきます」
 7年生までの社会科は 『共和国の歴史』 と呼ばれており、8年生は 『共和国の歴史とアタテュルク』 となり、初代大統領アタテユルクの考えや偉業を学ぶ 『アタテユルキズム』 という教科書も配られる。




 このアタテュルクの存在こそが揺れ動くトルコの求心力であり、民族的にも混血が進むトルコ人を一つにまとめ上げる基盤として、国民に敬愛される唯一無二の存在となっている。 今でも、アタテュルクが亡くなった日時( 1938年11月10日午前9時5分 )と同時刻に空砲が鳴り響き、トルコ中の人々が一分間の黙祷を捧げる。
 独立戦争が始まった5月19日は、 「青少年とスポーツの日およびアタテュルク記念日」 で祝日となるが、毎年この時期、学校をはじめ各地でスポーツを含む様々な祭典が開催される。
 前述の初等教育学校では当日、鼓笛隊チームが太鼓やラッパを鳴らし、朝一番に学校の周辺を練り歩いていた。 そして校長先生ら数人の先生が、生徒や保護者の前でアタテュルクの像に献花をして、みなで黙祷、その後、国歌を斉唱。
 そして選ばれた生徒が共和国成立までの歴史、近代化、西欧化の改革でトルコを蘇らせたアタテュルクの数々の偉業や名言、 「トルコの将来を、若者に委ねよう!」 などを披露。 独立戦争の激しさを芝居仕立てで抑揚をつけて語る上級生の熱い語り口には、とりわけ下級生が拍手喝采だった。
 このように、トルコの愛国教育=アタテュルク崇拝ともいえる。 だが、偏狭な価値観で相反・対立する存在を徹底的に排撃する姿勢とは異なる。 国民は排他的でないどころか“東西文明の懸け橋”という歴史的・地理的条件から 「英語など3ヵ国語を操れることが国民の義務」 と叫ばれる中で、 「もう一つの言葉を学ぶことは、もう一つの人格を手に入れること」 という前向きで柔軟な思考を持っている。
 欧州の学校において朝礼は一般的ではないが、ナショナルデー前後に国について考え、国史と戦争を再認識し、平和を祈願する。 独立記念日や建国記念日、憲法記念日がその日にあたるが、スウェーデンのように 「国旗の日」 と呼んでいる国もある。
 5月17日は、ノルウェーのナショナルデー( 独立記念日 )だ。 この日、どの町、どの村でも盛大なパレードが催される。 首都オスロの王宮へと続くメイン通りは、国旗そして民族衣装の人々や楽隊で埋め尽くされ、王宮のテラスから手を振るロイヤルファミリーの姿もうかがえる。




 オスロ郊外の閑静な住宅街にある公立小学校の、ナショナルデーを翌日に控えた4年生の国語の授業はこんな感じだった。
 「第二次世界大戦中、ノルウェーはドイツに占領されました。 占領とはどういう意味ですか?」
 先生が生徒に問いかける。
 「ドイツ人がノルウェーのことをドイツのように扱うこと、すなわちノルウェーをドイツにしてしまうことです。 では、国旗はどう扱うべきですか?」
 「丁寧に扱うこと」 「地面につけないこと」 「国旗掲揚は原則として日の出から日の入りまで」 「決められたときのみ使用する」 など、先生と生徒とで確認をしていく。 だから国旗を切り刻む感性など、育まれることはない。 その他、ナショナルデーの意味や国歌のメロデイ、歌詞を作った人物についても学んでいた。
 ナショナルデーの当日、校長先生をはじめ先生たちは、刺繍で華やかな出身地ごとの民族衣装を身にまとっている。 詩の朗読、国旗掲揚と国歌斉唱、そして生徒会長のスピーチと続く。
 「ノルウェーは恵まれていますが、世界にはそうでない国もたくさんあります。 戦争をしている国もあります。 ただ、ノルウェーがいつも平和だったわけではありません。 この平和がずっと続きますように!」
 ノーベル平和賞の授賞式が行われる 「平和と自然を愛する国家」 の子どもらしいスピーチだ。
 世界の多くの子どもたちは、このように日頃から国旗国歌に触れ、近現代史を学び、 「被害者意識一辺倒でも、自虐的でもない」 戦争の歴史を知り、先人を称えながら成長している。 それがアイデンティティ確保、国を愛する心、他者を尊重する感覚、平和な世の中を祈願する精神につながると教育現場で考えられているからだ。
 補足すると、中国や北朝鮮のように軍事力を誇示する威圧的なパレードが世界のナショナルデーのスタンダードではない。 歴史を歪曲し握造してまで反日教育( =愛国教育 )に取り組む国も、他には知らない。
 台湾は李登輝元総統時代の90年代半ばから 「台湾の台湾化( 本土化 )教育」 が本格化し、それまでの 「中国4千年」 の空虚な歴史教育が 「台湾4百年」 と等身大になり、近現代史に力を注いだことで“台湾アイデンティティ”確保へとつながった。
 中学生向けの副教材 『認識台湾』 には、《 日本植民統治時代の政治と経済 》《 日本植民統治時代の教育、学術、社会 》の二章にわたり戦前の50年間が詳細に解説されている。 が、それによって 「反日」 の若者が増えたという話は聞いたこともない。
 また、第二次世界大戦後、アメリカの施政下にあったパラオは、1994年10月、パラオ共和国として独立した。 国旗は 「日の丸を意識した」 とされる海を表す青地に黄色の満月で、平和と静寂、豊かさを表現している。
 1914年の第一次大戦以降、第二次大戦まで旧日本軍の重要な軍事基地だったパラオには一時期、原住民よりも多い日本人( 2万~4万人 )が暮らしていた。 もし、パラオの住民が戦前を忌み嫌い 「日本」 を抹消したければ、日の丸を彷彿させる国旗にはならなかったはずだ。
 
恐ろしい話だ。