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 昨今の教育現場での 「いじめ現象」 に接するたびに日本人の資質が変質しているという感が否めない。 そこには、おぞましい残虐性と卑劣さが窺えるからである。 もはや 「イジメ」 などという言葉では表せない。 これらは正に凶悪犯罪である。 許しがたい悪業と言わざるを得ない。

 そもそも日本人が近代において持続してきた精神性は 「武士道」 に起因する。 武士道には 「勇猛さ」 や 「潔さ」 に加え、実はその根底で最も重要な 「徳」 として唱えられているのは 「卑怯であってはならない」 ことと 「寛容である」 ことの二点に帰結する。


 イジメは最大の恥、日教組に蹂躙された 「武士道」 こそ教育には必要だ

 今の子どもたちは聴くこともないであろうが、我々の幼少期には 「昔噺むかしばなし」 というものがあった。 テレビもネットもない時代に、紙芝居や家族を通じてその物語りに触れた。 その物語りは 「勧善懲悪」 であり、その退治された悪人( 鬼 )も、改心し反省すれば味方( 子分 )にするという寛容さがあった。 『桃太郎』 がその代表作であるのだが、絵本の中の鬼は悪行を働くときは正に鬼の形相だが、懲らしめられた後の子分として追従するときの顔はやたら柔和で仏の顔の如く変身している絵を見て妙に納得して安堵したことを思い出す。

 こうした物語りに接するたびに子ども心に寛容( 許す )ということを身につけていくのだ。 敵対しているときは力の差でもって相手を懲らしめ( イジメ )るが、どこかの時点で許し、その後は味方として自分の懐に入れて面倒をみるという寛大さを学ぶのだ。

 西洋のチェスと違って日本の将棋は、敵の駒を奪ったらその後、自軍の戦力として生き返させるというルールがある。 これが日本の 「寛容の文化」 である。

 昔のガキ大将は、ケンカやイジメもしたが、負けて泣いている者や、謝っている者には、もうそれ以上は殴らないという暗黙のルールがあったように思う。 「武士道」 の寛容さは 「昔噺し」 を通して生きていたのである。

 幼少の頃、物理的に大人には敵わないと自覚する時期があった。 どうあがいても肉体的 「力」 関係において子どもは敵わない。 実は、このときが人格形成をする上で大人の責任としての最大の教育的チャンスである。

 大人と子供、男性と女性、教師と生徒など、この世に存在しながら、尚かつ必要にして十分条件を満たす事柄としての差異。 これを正しく自覚することが、世の中や社会のことを身をもって感知していくことなのである。

 この力関係を正しく理解できた子どもは、相手を死に追いやるほどのイジメはしない。 新潟の小学校で福島から避難して来た児童がイジメにあっていた。 周りの児童たちに 「弱者は守る」 という優しさが決定的に欠けている。 そして、驚くことに担任がその児童に 「菌」 をつけて呼んでいたという。

 俄かには信じがたい事象である。 これはもう、教師の資質の崩壊である。 長く教職にいた者として言わせてもらえば、この児童の転校時に、児童が置かれている状況を危機的と捉え、真剣な 「誠」 でもって級友に語り継げば放射能に関する偏見やイジメなど絶対に起きないと強く断言する。 学力一辺倒で世の中を生き、人間の機微や感性を忘却してしまった教師が大量にその採用試験を潜り抜けている。 事なかれ主義の教師がうごめいている。

 日本でもある時期、 「規制緩和」 が叫ばれた。 競争原理を活発化させるには必要な方策であったのかもしれない。 しかし、結果として 「緩和」 による事件、事故が後を絶たないという負の一面も表面化した。 ましてや教育界は、競争、強制をしないという価値観の現況において子どもたちは、叱られない、叩かれない、規則や規範もなく、義務や責任も持たさず、自由や個性や人権の美名のもとに 「わがまま」 がまかり通ってきた。

 戦後の日教組教育に蹂躝じゅうりんされた 「武士道的徳育」 は遥か彼方へと喪失してしまった。 「卑怯」 であることが最大の 「恥」 であった武士道はすたってしまった。 会津藩は「じゅうの掟」 でもって子どもたちを厳しく律してきた。

 その中に 「弱い者をいじめてはなりませぬ」 とある。 人としての道を 「掟」 として規正したのだ。

 「日本のこころ」 を忘れた教育が横行し、公( 利他 )に尽くすことの喜びも学ぶことなく、自分中心の価値観で生きる 「わがままな子」 に育てられる彼らこそ戦後教育の一番の犠牲者である。 すべては教育の歪みから正していかねばならないことを強く叫びたい。

    

 



( 2016.12.21 )

  



 運動が苦手で動きが鈍いため 「トロ( い )」、体が太っているので 「ブー」、田中くんは宰相にあやかり 「角栄」。 小学校のころ友達同士いろいろなあだ名で呼び合い、そこには親しみがあった。 だが、こちらは 「いじめ」 だ。 それも教師による。

 東京電力福島第1原発事故の影響で避難生活を余儀なくされている子供たちはいまなお数多くいる。 その中で新潟市に自主避難した男子児童が同級生から名前に 「菌」 を付けて呼ばれ、いじめを受けていた。 児童は担任教師に 「黴菌( ばいきん )扱いされている」 と打ち明けた。 ところがだ。 担任までこの児童だけ名前の後に 「キン」 を付けて呼んだという。 クラスみんなの前で。

 事実なら常識を疑う。 「黴菌を指す意図はなかった」 と担任は弁明したが、事前に児童から相談を受けていたことや横浜市の小学校でも同様のいじめが報告されたばかりだ。 「意図はない」 は言い訳にならず、教師によるいじめと言われても仕方あるまい。

 家族と離れ友達と別れ、慣れない地で寂しい思いをしながら生活している子供も少なくない。 教師という立場にありながら社会問題化するいじめへの認識が不足し、被災者への思いやりに欠ける発言はあまりに軽率で鈍感だ。 いじめられるつらさを共有できていないことを重く受け止めるべきである。 子供は残酷だ。 意味を理解せず、相手が傷つくことも気にせずに言葉を発してしまうことが多々ある。 未熟なのだ。 だから間違える。 それをしっかりと教え正しい方向へと導くのが教師や親の役目であることを忘れてはいけない。

 子供や保護者の意識の変化に伴い教育現場を取り巻く環境も大きく変わり、教師や学校の質がかつてないほど問われている。 現在少子化により公立小中学校の教職員数について議論が行われ、削減を求める財務省に対し、文部科学省は反論する。 だが数の議論よりも教員の 「質」 にこそ目を向けなければ学校への信頼感は高まらない。 福島から避難した子供たちに対するいじめが各地で相次いでいるが、元小学校教師の佐野祐介さん( 50 )は 「学校は集団一律教育のためクラスでは横並びの意識が強く目立つ子はいじめられることがある。 避難してきた子は周りから好奇の目にさらされるため、いじめの対象になりやすいのかもしれない」 と話す。

 横浜市の場合は同級生から原発事故の 「賠償金があるだろう」 などと言われ、ゲームセンターでの遊興費を払わされていた。 千代田区では 「避難者だとばらすよ」 とお菓子などをおごらされていた。 いずれもいじめられるのが嫌で大切なお金を払わさざるを得ない状況にまで追い込まれていたのだ。 学校だけでなくいじめる側の親にも責任があることは言うまでもない。
 行うべき躾や子育てなど家庭教育にも問題がある。 多額の賠償金がもらえる、放射線に汚染され感染するなど、原発被災者への偏見や中傷、放射線に対する誤解はいまだに存在する。 子供の世界ではなく社会全体の問題だ。 「家庭や周りの大人から聞いた話を子供は真に受けてしまうものだ」 と佐野さんは言う。 大人の無知や無理解、そして心の奥底に潜む差別意識がいじめの助長につながることを自覚すべきである。

 いじめを受けている子供の多くは今でも心と体に深い傷を負いながら戦っている。 教育の場とはいえ学校だけに任せるのではなく家庭でも社会でもしっかりとこの問題に向き合わなければ苦しんでいる子供を救えない。 それができるのは私たち大人しかいないのだから。





 「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからぼくはいきるときめた」
 昨年11月に公表された中学1年の男子生徒の手記に衝撃を受けた人は多いのではないだろうか。

 男子生徒は小学2年のとき、東京電力福島第1原発事故で福島県から自主避難した横浜市で転入後、名前に 「菌」 をつけて呼ばれるなどのいじめを受けた。 小5になってからは、加害児童から原発事故の賠償金を理由に、総額150万円も脅し取られたとされている。

 学校と市教育委員会はこのとき生徒側から相談を受けて事実を把握していたにもかかわらず、放置していたことが分かり、 「学校側が1年半以上もいじめを放置したのはひどい」 「男子生徒の手記を読んで悲しくなった」 などと市教委には抗議の電話も殺到した。

 横浜市で表面化し、全国的な反響を呼んだ 「原発避難いじめ」。 各地では子供たちだけでなく、教師によるいじめも発覚した。 昨年12月には新潟市に自主避難している小4の男子児童が担任教諭から 「菌」 を付けて呼ばれていたことが分かった。 他の児童からのいじめを相談した直後から呼ばれるようになった。 ショックを受けた児童は欠席が続いているという。 他にも、東京都千代田区や川崎市でも同級生に菓子代1万円分をおごったり、 「近づくな」 と言われて避けられたりする事案も発覚するなど、原発避難いじめの実態は次々と明らかになっている。

 転校生がいじめや仲間外れの対象になりやすいというのは、 今に始まったわけではない。 学校生活では昔からよくあった話である。 でもそんなとき、 普段から威張っているガキ大将のような存在が彼らにそっと手を差し伸べる。 そんな経験や体験談を耳にしたことぐらいは誰しもあるのではないだろうか。 今や 「ガキ大将」 という呼び名すら死語になりつつあるが、 実は再び社会問題化した教育現場のいじめを考える上で、 このガキ大将の存在が 「解決」 のヒントになるのではないか。