子供の 「やる気」 が出てこない




やる気は 「出る」 ものではなく 「出す」 ものである。
「やる気が出ないんですけどどうしたらいいですか」 とよく聞く生徒がいる。

「出す」 のは自分である。 自分で自分が分からないほどのことを、他人が分かるわけがないではないか。

自分のことを他人に聞くのは主体的ではない。 この事態を放ったらかしにしておいて、一方で生徒に主体的に生きようなどというのは教育の偽善である。

自分の不満を愚痴っているだけでやる気が出るのなら誰も苦労はしない。 それは 自分で苦しんで解決するしかない のである。

自分がやる気が出ないのを他人に聞いて一体何になるのか。 そこまで他人に甘えて良いはずがない。 そういうことを口にすること自体がおかしいのである。 口に出したとたんにより重傷になる場合もある。 本当は自分で分かっていて分からないフリをしている場合もある。 またそれにまともに受け答えて分からせようとするのは教師の思い上がりである。

人には自分でやるしかないことがある。 それを人に聞いて安心していては何も始まらない。

そのような聞き方は決して正常な態度ではない。 異常であることを自覚できるのならまだ良い。 本当にそうなら精神科に行けばよいからだ。 それだけの覚悟が必要なことなのだ。

異常さを異常さとして認識できることは正常への第一歩である。 そこには異常さを異常さとして認識する強さがある。 異常さから脱出しようとする意気込みがある。

異常であることを自覚できず、異常であることをあたかも正常であるかのように表現すること自体が、なにがしかの狂気を孕んでいるし、それを受け入れること自体の中に子供の成長を妨げるものがある。

にもかかわらず 「今の子は心が弱い、サポートしなければ」 などと叫んでいるから、おめでたいことである。 「子供に痛い思いをさせてはならない、子供にストレスをかけてはならない」 、そういう人は 「痛い思い」 も 「ストレス」 もかけずに子供の 「やる気」 だけが出てくるとでも思っているのだろうか

本当はそういう人は、子供への愛情がない自分の心の冷たさを、子供への同情で隠しているだけなのである。
ホンネは保身なのである。