『おくれ』 を生きる、自閉症




 われわれは多かれ少なかれ 『おくれ』 の中で生きている。
 その中でどうにか 『おくれ』 まいと、もがいている。
 それはすべての人に共通することであって、その中でとくに 『おくれ』 に対応することが苦手な人が、 『自閉症』 と言われる人たちである。

 村瀬学氏の 『自閉症』 ( ちくま新書 )にはそのようなことが書かれている。以下引用する。

 『私のこの論考では、 「知的世界」 からの 「おくれ」 は 「ちえおくれ( 知的障害 )とされ、 「社会機構」 からの 「おくれ」 は 「自閉症」 と 「診断」 されるところを見てきたのである。
 問題は、そうした 「おくれ」 が存在するところにはない。見てきたように、 「おくれ」 というのは、つねに文明や文化を創ってきたものの側の尺度によって 「問題」 視される現象としてあったからである。文明は、想像以上のスピードで 「すすむ」 世界を生み出してきた。実は、個人という存在は、そういう不気味にすすむ巨大な文明のシステムからは、つねに 「おくれる存在」 として生きてきたことを私はここで指摘しておきたいのである。』
 ( 『自閉症』  村瀬学 ちくま新書 P224 )

 子供たちの世界は今やこの 『おくれ』 にどう対処するかに必死である。
 ファミコンゲームが子供に悪影響をおよぼすことは、今や常識となっている。にもかかわらず、なぜ親は子供にファミコンゲームを買い与えるのか。
 親たちは口をそろえてこう言う。
 『ファミコンの1つも持っていないと、逆に仲間に入れてもらえない』

 つまりこれも 『おくれ封じ』 なのである。
 ファミコンの1つもできなければ、 『とろくて』 『のろまで』 『天然ボケ』 なのである。
 そして 『ノリが悪くて』 、 『おもしろくない』 やつなのである。

 そしてそれを今の子供たちは容赦なく、 『突っ込む』 のである。
 その結果、少しの 『ズレ』 がレッテルを貼られて、途方もなく増幅され、 『おくれ』 た子供たちの 『はずし』 が行われていく。

 今、小学校英語教育に対して、親の70%が 『賛成』 していると言われるのも、この心理と同じだと思われる。
 『ファミコン』 が 『英語』 に変わっただけで、本当はそこに教育的効果など期待していないのではなかろうか。
 自分が 『おくれ』 ていないという安心感を与えてくれるもの、我が子が 『おくれ』 ていないという安心感を与えてくれるもの、それが小学校での英語教育である。

 ファミコンブームに乗り遅れないように、英語ブームにも乗り遅れないようにしなければならない。
 そのように新たに 『おくれ』 の対象となるものが一つ追加され、その 『おくれ』 対策のための出費が必要になる。
 『英語も少しはできないと、逆に仲間に入れてもらえない』

 しかしそれがもたらす効果は、 『ファミコン』 と同じようなものである。
 しかも、おもてむきは教育的効果があるような誤解があるからよけいに厄介である。

 今子供たちは刺激の中で生きている。
 新しいものが次々と入り込み、それが良かろうと悪かろうと、そのジャンルの中で優越的な位置を占めることが、子供社会での安定したステータスを占める手段になっている。

 『ナンバーワンよりオンリーワン』 などというキャッチコピーのような教育的スローガンも、それに輪をかける要素の1つになっている。

 教育改革と称して、ありとあらゆる刺激が教育の現場に持ち込まれ、 『教育の基本とは何なのか』 ということさえもが、今では分からなくなっている。

 総合学習の一環としての体験学習もそれに一役も二役も買っている。
 小学校英語教育の病根の深さは、それが英語教育から出てきたものではなく、一見関係のないように見える活動重視の 『総合学習』 から出てきたものであり、そのことは今もカリキュラム上は 『総合学習』 の中に位置づけられていることを見てもわかる。

 英語とは、多くの日本人が今までかなり努力してもしゃべれないものである。それは今までの指導方法が悪いのだとする意見があるが、文法から入るという語学の指導法は、英語教育ばかりではなく、他の外国語教育にも共通するものである。

 日本人が英語をしゃべれないのはそれまでの指導方法が悪かったのではなく、言語としての日本語と英語がその構造が全く違っているからである。日本人が英語をしゃべるということは、ドイツ人が英語をしゃべることとはわけが違うのである。

 そんな天と地との違いがあるものを、小学生に学ばせていったいどうするんだ、大量の 『おくれ』 を生むだけではないのか。

 刺激ばかり増えて、 『おくれ』 を生きる子供たちへの配慮が見られない。
 今おこなわれている発達障害児への特別支援教育はいわば一種の対処療法であり、その一方では逆に 『おくれ』 を大量に生み出すような教育が推進されている。

 今の子供たちは 『おくれ』 た子供を見つけるとすぐに 『はずす』 のである。
 今の子供たちの世界は、 『いじめ』 の温床と化している。
 それは、どこか一部にいじめの温床があるといった程度のものではなく、どうかすると自分が 『おくれ』 てしまい、そうなるといつ自分が 『いじめ』 の対象になるか分からない、そういう危機感の中で子供たちが日常を過ごしているからである。

 自分が 『とろい』 と言われる前に、 『とろい』 子供を見つけて、その 『とろさ』 を際立たせ、自分が 『天然ボケ』 と言われる前に、そういう子供を見つけて、 『天然ボケ』 を際立たせる。
 そうしているうちは、自分が優位に立てるのである。
 そういう形でしか自分のもつ 『おくれ』 への不安を解消できなくなっている。

 自閉症は確かに昔からあったのだろうが、平成になったころから急速に増加し始めた。
 それは政府が急速に教育改革を押しすすめた時期と重なっている。

 生徒の 『自己決定』 や 『個性』 を謳い、 『ゆとり』 を推進することで生徒間の学力格差をつくる。
 授業時数は少なくなり、教科書を薄くする。
 にもかかわらず、体験学習として 『総合学習』 が新設され、ほとんど遊びの時間と変わらないような時間が正課になる。
 それがまた、保護者の学力不安を煽る。
 そこに中高一貫校を設けることで、実質的に小学校卒業段階での生徒の選別をおこなう。

 このような教育改革が進むと同時に、
 『きれる』 『むかつく』
 『学級崩壊』 『学校崩壊』
 『いじめ』 『ひきこもり』
 『保健室登校』 『不登校』
 『発達障害』 『自閉症』
 などなど、ありとあらゆる教育問題が逆に増加してきた。

 『だから教育改革が必要なのだ』
 文科省はそういって論理を逆転させる。

 そうではないのであって、教育改革が進めばすすむほど、この国の教育はますます機能不全を起こしているというのが実態なのである。
 教育改革によって、現場の状況が良くなったことは一つもないのが実態である。
 もともと教育改革自体が、 『悪魔のルール』 に乗っ取られているのである。

 学校教育が機能不全を起こせば、 『教師は何をしてるんだ』 と世間の風当たりが強くなるのは世の習いである。
 そういう世論を受けて、 『教員改革』 の論調が幅をきかせるのも、世の習いとして、仕方がないといえば仕方がないかもしれない。
 『教員免許更新制』 は実現しそうな勢いである。
 文科省は色々言っているが、この目的は詰まるところ 『現場の教師たちの異論』 を排除することにある。逆に言えば、それほど今の教育改革の流れに首をかしげている教師たちは多いのである。
 『こんなことでうまく行くはずがない』 、そういう自己の良心と照らし合わせてのジレンマを抱えながら、 『業務命令だから仕方がない』 、そういう思いで仕事をしている教師たちがいかに多いかを示している。

 断っておくが、これはやる気のなさとは違う。
 教育が直接に生徒に対して責任を負ってなされるものだとすれば、教師は今までの経験から、この指導がうまく行くかいかないか、自分のノウハウをもっている。
 もちろん100%うまく行くとは限らないが、これは大相撲の取組といっしょで、8勝7敗なら勝ち越しでどうにかうまく行った方で、7勝8敗なら負け越しで次の場所にがんばらなければならない。
 教育活動とはそういったものだ。

 そこにどこかの大親方が出てきて、 『こうすれば必ず10勝5敗になれるから、絶対にこういう相撲を取れ』 などといっても、そぐにそれを信じる教師はおめでたい人で、教師にもプロの目はあるのだから、その大親方の相撲をまずは吟味するところから始める。

 『これでは10勝5敗どころか、5勝10敗の大負けだな』
 そう判断している教師がたくさんいるのである。

 負け相撲と分かっているのに相撲を取らされるのは苦痛以外の何物でもない。
 ましてそのしわ寄せが生徒にじかに及ぶとなれば、良心の呵責が当然発生する。
 実際、そうやって教師たちはどんどん精神を病んでいる。

 その苦しみから逃れるためにあえてみずからサラリーマン化する教師もいる。
 そしていかに自分が上司からの命令に忠実に業務をおこなったか、記録を残していく。
 そのことによってのみ教師が免責される道が残されているからである。

 しかし教育の現場では説明できないことがヤマほどある。
 ということは、説明できないことには手を出さない教師が増えていくということである。

 こういう状況の中で、今度は 『小学校からの英語』 である。

 教師が追いつめられている以上、現場からは表だって反対意見は出て来ない。
 今教育現場は意見など言える雰囲気ではない。

 しかし、子供たちの世界が今どうなっているのか、
     もうちょっと、現実を見た方がよい。