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 衣食が足りないとは意外に思われるかもしれない。 ブランド品から激安衣料まであふれんばかりの服があり、1日3食だけでなくスナック菓子やペットポトル飲料など、いつでもどこでも食べ放題、飲み放題の時代だ。
 住のほうもつけ加えれば、その環境は快適になる一方だ。 エアコンや床暖房、温水便座式トイレに火を使わないIHクッキングヒーター。 エアコンは自動温度調節だし、便座のフタや水はセンサー式で反応する。 IHクッキングヒーターでタイマーセットしておくと、たとえばお湯の沸騰を感知して 「お知らせ」 してくれ、同時にヒーターも止まる。 子どもの生活からは不便や不自由が消え、衣食住、すべて満ち足りた状況と言っても過言ではない。
 ところが、その実態を丹念に見ていくと、本来の 「育ち」 を与えられないまま、むしろ奪われていく現実が浮き彫りになる。
 まずは、衣である。 大量の服や靴を持ち、アイドル並みに着飾る子どもも珍しくないが、実は肝心のことが足りない。 服を脱ぐ、着る、畳むといった行為ができず、要するに服はあっても、それをどう身につければいいのか知らないのだ。
 たとえば、小学生になってもボタンがはめられない。 トレーナーやTシャツなど、伸縮性素材の服ばかり着ているせいもあるが、そもそも親が 「ボタンのはめ方」 を教えないのだ。
 ボタンをはめるには、指先の微妙な使い方を覚える必要がある。 それには、何度も繰り返し教え、ほめたり叱ったりしながら時間をかけなければならない。 だが、こうした家庭教育は、今の親にとって 「面倒でストレスがたまる」 ことだ。 根気よく、少しずつ、 「子どもがひとりでできるようになるのを待つ」 くらいなら、ボタンのついていない服を着せたほうが簡単か、さもなくば親のほうでサッサとボタンをはめたほうが早い。
 同じことは、ヒモの結び方、ファスナーのかみ合わせ、服の前後ろや裏表の見分け方、靴の左右の違い、などにも言える。 ヒモの結び方を知らない子どもは、いつまでたってもヒモ靴が履けないが、心配無用(?)、今はマジックテープ式の子ども靴が主流である。
 服の前後ろや裏表を教えられていないから、 「後ろ前」 や 「裏返し」 という言葉を知らない。 子どもに、 「靴下が裏返しになってるよ」 と注意してもキョトンとする。 幼児ならともかく、小学生になっても着替えは親任せの子どもさえいる。 脱いだ服は畳めず、グチャグチャの放り投げ状態だが、親は口先で叱りはしても、その畳み方、整理整頓の大切さを教えない。 そもそも今、家庭内から 「畳む」 という習慣が減っている。
 子育て中の若い家庭ではほとんどがベッドを使っているため、まずは布団を畳まない。 乾燥機能付きの洗濯機が普及し、乾いた衣服を取り出してそのまま着ることにも抵抗がない。 ダンスや押し入れへの収納より、クローゼットやハンガー式のパイプラックが人気で、畳むより 「吊るす」 ほうが主流になっている。
 ファッションセンスにこだわる母親たちは、Tシャツ1枚が1万円もするようなブランド子ども服を着せたり、 「モテ服コーデ」 といって、周囲にモテる、人気を集めるようなコーディネートに腐心する。 だが、その内実はお寒い限り。 できないことを 「教えよう」 とするのではなく、できないなら 「しなくても済む方法」 を与えていく。 これが、衣に対する親の考え方なのだ。

蛇口がひねれない

 だが、親の庇護のもとを離れ、幼稚園や学校などの集団生活に入れば、子どもは 「できない自分」 に直面する。 問題は衣にとどまらず、特に最近の傾向として、手が使えない子どもが増えている。
 東京都の私立幼稚園では、夏休みを利用して水道設備の改修工事を行った。 旧式の蛇口からレバー式に替えたのは、ここ数年、入園する園児が蛇口をひねれなくなっていたからだ。 同園に勤務する女性教諭(33)は、困惑しながら言う。
  「蛇口をひねれないだけではありません。 お弁当にはお箸でなくフォーク持参の子がほとんどだし、折り紙や切り紙なども年々苦手になっています。 ボール遊びをさせると、投げるのはできても受け取れない。 腕と胸でガッチリ抱えるのよと教えても、指先だけでつかもうとして突き指することもあります。 中には、手をつかずに跳び箱を跳ぼうとする子、前転をしてもうまく手が出せず頭だけでまわろうとする子もいるくらいです」  リズム体操で手足の動きが合わせられなかったり、 「使えない」 とは少し違うが、子ども同士で手をつなぐのを嫌がるケースもあるという。
 それでも小学校に入れば、成長に応じてできることは増えるが、反面では手が使えない場面もまた増える。 ヒモが結べず、ヒモ靴が履けないと前述したが、たとえば運動会なら二人三脚で互いの足が縛れない。 競技にならないため、ヒモの代わりにマジックテープを使用する小学校もあるほどだ。 ゼッケンや順位リボンをとめる安全ピンが使えず、針を指に刺してしまう。 握力がないのか、それとも根性がないのか、綱引きの綱は 「手が痛い」 と言って強く握りたがらない。
 授業中にも、さまざまな異変が生じている。 高学年になってもコンパスが使えず円が描けなかったり、ノートの升目内に宇を書くだけで 「疲れる」 と訴える。 リコーダー( たて笛 )の演奏は穴を指でふさがなければできないが、なぜか指の動きが非常にぎこちない。 ピアニカは、 「重い」 と言って持ちたがらないため、専用の演奏台を使う学校もある。 家庭科の裁縫では、簡便な 「キット」 を使い、説明書どおりに作ればいいようになっているが、針に糸が通せない、布をまっすぐに切れないなど、授業時間内ではなかなか作業が進まない。 ワンプッシュ式のフタやプルトップの缶に慣れているせいか、工作のネジがまわせなかったり、缶切り、栓抜きなどはまったく使えない、というか知らない。
 千葉県の公立小学校で六年生を担任する男性教師(44)は、児童の宿泊研修先でこんな現場を目撃している。
  「入浴の時間、服を畳んでないのはもう仕方ないとして、ふと風呂場での様子を見たら前しか洗ってない子どもが何人もいる。 ちゃんと背中も洗えと言っても、背中に手をまわせないんです。 当然、体も拭けないまま上がってくるので、脱衣所は濡れ放題。 持ってるタオルで床を拭かせようにも、そのタオル自体、まったく絞れてなくて水が滴り落ちてるんですから……」
 人類は手を使うことで進化したというのに、これでは退化ではないか。 もっとも、テレビゲームのコントローラーやパソコンのキーボード、携帯電話のポタンは目にもとまらぬ速さで操作できるわけだから、単純に 「退化」 とも言い切れないのか。
 男性教師は、 「思うに、子どもたちは働く手が育っていないんですよ」 と言う。 勉強ができたり、機械類の操作はじょうずでも、暮らしに必要な手の使い方がわからない。 手作業、手作り、といった生活上の手が育たないだけでなく、 「手を合わせる」 とか、 「手加減する」 などという精神面、心の成長のほうが、むしろ退化と呼べるのかもしれない。

ヒジキ、切干ダイコンは 「虫だ!」

 食もまた悲惨な状況である。 飽食の時代、どこの家庭も食べることそのものには困らない。 だが、子どもたちは食べ物や飲み物の、本来の姿を知らずに育っている。
 たとえば、お茶。 今はたいていペツトボトルでポンと出される。 聞けば、急須も湯呑みもお茶葉もない。 そうした家庭で育つ子どもは、 「お茶とは葉に湯を注いでできる飲み物」 だと知らないし、湯呑みという 「食器」 を使うことさえ覚えない。 お茶は冷やして飲むのがふつう、と勘違いしていることもある。
 野菜は、 「洗うのが面倒」 「無駄が出る」 「価格が安定していない」 などの理由で冷凍食品や缶詰が人気だ。 ほうれん草、ゴボウ、ニンジン、カボチャ、サトイモ、ピーマン、シイタケ、刻みネギに至るまで、冷凍食品を利用する母親も珍しくない。 少人数家庭では、サラダパックやカットフルーツ、各種鍋セットなどを利用することも多い。 あらかじめ洗浄され、きれいにカットされ、封さえ切ればすぐに使える野菜や果物しか食べたことがない子どもたちは、土や樹、畑を連想し、季節感を知るどころか、その原形さえわからない。
 東京都の公立小学校で四年生を担任する女性教師(39)から 「給食のデザートで干しイモが出たとき、クラス全員が食べ物だと信じなかった」 という話を聞いたが、家庭の現状を考えれば少しも不思議なことではなく、むしろ納得してしまう。 ヒジキや切干ダイコンなどの乾物類を見て 「虫だ」 とパニックになる子どももいたというが、おそらく生まれてこの方はじめて目にした食材なのだろう。
 肉や魚を調理できない母親も増える一方だ。 肉を切るのが怖い、肉をこねると手がべ夕べ夕するからイヤ、などと話す母親たちが、一方では 「ウチの子はお肉が大好物」 と言う。 よくよく聞いてみると、 「焼肉、ハンバーガー、フライドチキン」 で、なるほど調理いらずである。
 魚は刺身と切り身と干物だけ、そんな家庭が多いが、中には 「とにかく魚が嫌いで売り場の前を通ることもダメ」 という母親がいる。 じゃあ子どもには魚を食べさせないの? と尋ねると、いいえ、食べさせてます、そう胸を張り、 「ツナ缶」 と答えるのだ。
 最近では、ご飯を炊かない家庭まである。 理由は 「節約」 で、ご飯を炊くより、100円ショップでホットケーキ粉やパスタを買ったほうが安いから、というのだ。 ご飯にはおかずが必要だが、ホットケーキならシロップをかける程度で 「十分イケる」 と、その食生活がいかにも自慢話のように語られる。
 幼稚園に通う子どもの母親(28)に、 「ご飯を炊かないで、幼稚園のお弁当はどうしてるの?」 と尋ねると、 「ああ、お弁当にはコーンフレークを持たせてます」 、そう平然と言うではないか。 「幼稚園ではお弁当の時間に牛乳が出るんですね。 それをコーンフレークにかけて食べれば、栄養バッチリ。 子どもはママゴトみたいな感覚で喜んでるし、我ながらいい考えだなぁと思うんです」
 要するに彼女は、 「コーンフレーク弁当」 が恥ずかしいどころか、自慢なのである。 無駄が出ず、作る時間も手間もいらず、それでいて栄養的には優れているわけだから、こうした食事を子どもに与えることに 「積極的」 なのだ。
 当初は、さすがにレアケースだろうと思っていた。 だが、1日に約150組の母子が訪れる都内の育児支援施設を訪れると、同施設の所長(45)はこう嘆息した。
  「ウチの施設ではお弁当持参で遊びに来る母子が多いのですが、最近はゼリータイプやビスケットタイプの栄養補助食品の人が増えましたね。 給湯室に粉ミルク用のお湯を用意してありますが、それを使ってカップラーメンを食べる人もいる。 ご飯とレトルト食品を持ってきて、職員に『電子レンジで温めてください』 と頼む人までいます」
 また、この施設では母親たちの間でしばしば 「キワモノ系食事」 が話題になる。 ご飯の上に駄菓子のソースカツや酢イカをのせ、マヨネーズをかけて食べる 「駄菓子丼」 。 ウナギや焼肉、照り焼き風味などの 「タレだけ」 をご飯にかけて食べる 「タレ丼」 。 遊び心でやっている部分もあるだろうが、それにしてもご飯とタレだけという献立が、果たして食事と言えるものなのか。
 実際に 「タレ丼」 を食べている母親に話を聞くと、 「下手に具をのせても子どもが嫌がるし、タレだけでも十分おいしい」 と言う。 なんでも 「感覚的にはつゆだく(牛丼店で出されるタレがたっぷりかかった牛丼)に近い」 そうだ。 「でも、ご飯とタレだけじゃ、栄養が心配でしょ?」 と尋ねると、 「だって、サプリメント使ってるから」 と余裕で笑う。
 子どもたちは、確かに食べてはいる。 お腹が満ちる、栄養が足りる、という意味では、十分すぎるほどかもしれない。 だが、心が満ちるという点においては、あきらかに足りていない。 食に対する基本的な知識、食を通じて得られるさまざまな体験は急速に失われ、食べ物を味わうというより、ただ詰め込んでいるような気がしてならない。
 もうひとつ、食に関して着目するのは、 「食べる形」 である。 このところ、朝食を食べない家庭が話題になっているが、少なくともなんらかの物を食べてはいる。 問題は、食べ方、食べる場所で、たとえば 「朝食は布団の上」 という家庭がある。
  「いくら子どもを起こしてもグズグズしているから、パンとコーヒー牛乳をベッドまで運んでます」 と話したのは、小学二年生の男児を持つ母親(35)だ。 子どもは布団の上で着替えをしながら、同時に朝食を済ますという。 「ベッドや布団が食べこぼしで汚れる」 ことには 「困っちゃう」 と顔をしかめる母親だが、食卓につくという基本的なしつけができないことへの反省は見られない。
 三歳女児の母親(34)は、 「朝は私が起きたくないので、前夜から枕元に子ども用のおにぎりを用意しておく」 と言う。 彼女もまた、 「いろんなところがべタベダになってイヤだ」 としながら、 「でも、私自身が布団に入ったまま食べるのが好きなんですよね。 独身のころからのクセもあって……」 と屈託がない。
 病気でもないのに、寝る場所と食べる場所を一緒にして平気な母親たちは、 「立ち食い」 や 「歩き食べ」 にも躊躇を見せない。 キッチンカウンターで立ったまま朝食を済ますことや、登校中に歩きながら菓子類を食べさせることを 「楽ワザ」 だと話す。 「手抜き、楽チン家事の裏ワザ」 、略して楽ワザだ。
 楽ならなんでもアリ、という考え方は朝食に限ったことではない。 「床食い」 、 「ソファーめし」 といった奇妙な言葉が出現している。 「床食い」 と言っても、むろん床を食べるのではなく、床に直接食事を並べて食べることを意味している。 要するに、食事のときテーブルを使わないのだ。
  「床食い」 の母親たちに理由を尋ねると、ほとんどが 「あったかいから」 と答える。 床暖房が普及したため、床にお尻や足をペタンとつけて座りながら食べたほうが快適、だからといって座卓を使うことは 「ダサイ」 というのだ。 一方、 「ソファーめし」 のほうはソファーに座ったまま食事することを言うが、やはりテーブルを置くのは敬遠されている。 代わりに鎮座するのは、大画面テレビ。 迫力ある画面を見ながら食事をしたいが、 「インテリアの調和を考えるとテーブルは使いたくない」 のだという。
 かつて、 「食卓が消えた」 と言えば、家族で食卓を囲む一家団欒の光景がなくなった、という解釈がされただろう。 だが今の家庭では、食卓そのものがないか、あっても使わないという、文字通り食卓が消えつつある。 それは単に形が消えたというだけにとどまらず、食に対する 「礼節」 の消滅と言えるだろう。
 こうした現状を挙げると、決まって 「だから最近の親はダメなんだ」 とか、 「親をどうにかしろ」 といった意見が噴出する。 むろん、親のあり方を検証し、その資質を高めていくことは最重要課題と言っていい。 だが一方で、現実の家庭の問題は、 「親をどうにかすればいい」 程度で解決する域をとうに超えている。
 最初に、子どもの生活からは不便、不自由が消えている、と書いた。 たとえば最新式のトイレなら、ドアを開けるだけで点灯、換気扇が作動し、便座のフタが上がる。 便座はいつも温かく、用を足したら、温水のシャワーや温風がお尻をきれいにしてくれる。 消臭や脱臭、殺菌などの清潔機能も備わる。 終わって立ち上がれば勝手に水が流れ、便座のフタが下りる。
 仮に、これだけの設備がある家庭なら、自分でやることはパンツの上げ下げくらいのものだろう。 場合によってはそれさえ、召使いよろしく駆けつけて手を貸す母親がいる。
 自分の力を使わなくても何の不自由もない生活の中で、子どもに 「教える」 、 「できるようにさせる」 ことはそう簡単ではない。 洋式トイレしか知らない子どもに、和式トイレでの排泄方法を教えるには、スーパーや公共施設などで和式トイレを探すことからはじめなくてはならないのだ。 和式での排泄を 「練習」 させようにも、芳香剤やキャラクター柄のトイレマットがないトイレを、 「くさい」 「こわい」 と拒絶することは少なくない。 なだめすかしてなんとか排泄方法を教えたとしても、家庭のトイレが快適である以上、子どもはかえって外のトイレの不快さを感じるだけかもしれない。

お尻が拭けない?

 実際に、学校生活の場では排泄をめぐるトラブルが多発している。 たとえば幼稚園のトイレは、事故防止のためドアが通常の半分ほどの大きさで、上下から内部がのぞける構造になっている。 最近の園児はこうした構造を、 「誰かに見られそうで恥ずかしい」 と訴える。 トイレの前に下着を脱ぐ、終わったらはくことを自分でせずに、誰かがやってくれるものと思ってボーッと立っていたり、ウンチをしたあとで 「拭いて」 とお尻を突き出すこともある。 「潔癖症」 とも言えるほど神経質な子どもも増えており、少しでもにおいのするトイレには入れない、大量のトイレットペーパーを使って繰り返しお尻を拭かないと気が済まない、などのケースもある。
 また、小学校で目立つようになったのは、低学年男児の 「お尻丸出しオシッコスタイル」 だ。 ズボンの前チャックだけを開けて用を足す方法を取らずに、ズボンとパンツをヒザまで下げてしまう。 男子用の小用便器ではなく、個室トイレしか使えない児童も増えてきた。
 女子のほうは洋式便座に直接お尻をつけて座れない。 「冷たくてイヤ」 という理由もあるが、それ以上に、知らない子どもと共用することへの抵抗感が強いという。 だからといって、和式ではうまく便座をまたげず、下着を汚してしまうこともある。
  「マイペース」 で排泄に時間をかけるため、休み時間内にトイレから戻らなかったり、授業中にもかかわらず無言でトイレに行く児童もいる。 きちんと水を流さず、手のあいた教師がトイレをまわり 「後始末」 するケースも少なくない。
 手が使えないことや、食を知らないこと、そしてトイレトラブルに至るまで、さまざまな要因が複雑に絡み合い問題化している。 一度便利に、快適になったものを後戻りさせるわけにはいかないし、親のしつけや家庭教育に期待するのも無理がある。 幼稚園や小学校での指導にも限界があり、 「誰が悪い、何がいけない」 と犯人探しをするだけでは何も解決しないだろう。 「食育」 、 「体験学習」 、 「生きる力」 などと掲げられるスローガンは、どれほどの現実性があるものなのか。 現状を踏まえての可能性を探らなければ、所詮、絵に描いた餅のようなものだ。
 ところで、体験学習と言えば、最近こんな話を聞いて苦笑した。 埼玉県の公立小学校に六年生の男児を通わせる母親(39)が、 「子どもの林間学校がヘンなことになっちやって……」 と言う。
  「林間学校では、飯ごう炊さんの体験学習をするんですね。 薪で火をおこし、飯ごうでご飯を炊き、カレーを作るというのが毎年恒例でしたけど、今年からご飯だけを炊くことになったんです」
 火をおこすどころか、マッチさえ見たことがない子どもたちである。 米の研ぎ方を知らず、包丁の使い方もわからず、右往左往するばかり。 限られた時間内での調理はもう無理、と判断した学校は、今年から飯ごうでご飯を炊く、だけの体験学習に切り替えた。 カレーのほうは、なんとレトルトが使われたというのだ。
 学校側にしてみれば苦肉の策かもしれないが、 「それにしてもねぇ……」 と困惑して数日後、東京都の母親(42)にこの話をした。 てっきり驚かれるかと恩ったら、彼女は笑いながらこう話す。
  「この前、六年生の娘の林間学校があったけど、ウチの学校は埼玉のケースとは反対ね。 つまり、カレーのほうを作って、ご飯は家から炊いたものを持参するの。 ご飯を炊かないで、飯ごう炊さんと言えるのかなぁと思ったけど、まぁどこでも似たような状況になってるのねぇ」
 二人の母親の話から考えれば、体験学習は有名無実と言っていい。 だが、別の言い方をすれば、学校にせよ、家庭にせよ、子どもに真の体験を与えることのむずかしさを見せつけられる。 エアコンやIHクッキングヒーターが備えられ、家庭内では 「火」 を見ない子どもに、火をおこせと教えたところで、 「未知との遭遇」 である。 おそらく数年後には、調理本にある 「強火」 や 「とろ火」 を見たことがない子どもが現れるだろう。

壮絶な 「お受験」 用しつけ

 もはや子育ての現場は総崩れ状態と悲観しないでもないが、実はこうした現状と対極をいくケースがある。 有名小学校受験を目指し、子どものしつけと教育に執心する 「お受験」 家庭だ。
「お受験」 と聞くと、どうしても猛勉強というイメージを持たれるだろう。 むろん、猛勉強はする。 幼児教室と呼ばれる受験専門塾へ通い、家庭教師をつけ、1日の休みもなく勉強する子どもがほとんどだ。 だが、それは漢字を覚える、数式を解くという類のものではない。 そもそも小学校入学前の子どもは、あくまでも字が書けないことが 「前提」 である。
 各小学校で若干の違いはあるが、小学校受験には、 「ペーパー」 と呼ばれる紙に解答を書き込むテストのほかに、行動観察(着替えなど生活面でのしつけを見る)、実技(運動や手先の器用さを見る)、面接などの科目がある。 前述したように、字が書けないことが前提になっているから、 「ペーパー」 のテストは、 「○をつけなさい」 とか、 「-でむすびなさい」 などと出題される。 一見、簡単なテストのように思えるが、実際にはひじょうにむずかしい。
 ごく 「初歩的」 な例を挙げれば、 「クレヨンを使って、信号機の色を塗る」 問題。 赤、青、黄色は誰でもわかるだろうが、その配列が正しく答えられるだろうか。 繰り返すが、これはごく初歩的な問題であり、解答を求められるのは小学校入学前の幼児である。
 五年前に長女の、そして二年前に次女の小学校受験を体験した東京都の母親(40)は、 「ズバリ、お受験とは子どもの『育ち』 を判定するもの。 そのためには親のしつけができているか、そして子どもに濃い生活体験をさせているかに尽きる」 と話す。
 まずは、しつけである。 挨拶の仕方、言葉の使い方、歩き方に座り方、などの 「礼節」 は序の口で、たとえば 「おやつテスト」 なるものがある。 子どもにおやつの食べ方を繰り返し練習させるのだ。
  「たかがおやつとバカにしたら大間違いです。 おせんべいに牛乳というおやつだったら、まずおせんべいを袋に入った状態で一口サイズに割る。 こうすればカスが飛び散らず、上品に食べられますからね。 同じように牛乳も、紙パックから適量をコップに注いで静かに飲む。 最後に空き袋とコップを片付け、台布巾でテーブルを拭いて終わりです」
 この一連の動作を、4~5歳の子どもに教え、 「完璧」 に身につけさせる。 表面上、上品におやつが食べられればいいという話ではなく、なぜ上品に食べることが大切なのか、そこまで子どもに理解させなくてはならない。 そのため、昔話や童話、偉人の伝記、場合によっては 「母親自作の紙芝居」 などを通じて根気よくしつけるのだという。
「お受験」 態勢のときの彼女は、毎朝子どもを起こすと同時に、ストップウオッチを手にしていた。 トイレ、洗面、着替え、食事、すべてに制限時間を決めて、時間内での行動を厳守させるためだ。 洗面中でも、着替え中でも、彼女は子どもに 「今日は何の日で、どんな行事がある」 などとひっきりなしに話しかけていたが、これらはすべて 「濃い生活体験」 を意識してのものだった。
  「食卓にキュウリを使った料理を出したとしたら、キュウリはいつの季節の野菜で、どんなふうに花が咲き、どう実るのかを教える。 言葉だけでは体験にならないから、八百屋さんの様子を見たり、郊外の畑まで連れていきます。 それも家の車で行くのではなく、わざわざバスや電車を使うんです。 バスなら停留所の様子、乗降の仕方、タイヤの本数や窓の位置などを勉強できるし、電車ならキップの買い方、改札やプラットホーム、吊り革に車内広告と、たくさんのことが『実体験』 として覚えられます」
 同じように、動物だったら図鑑だけで教えるのではなく動物園へ連れていく。 花ならプランターに種をまき、水をやって、その生長を毎日観察、絵日記にする。 火や煙なら七輪を購入して炭火をおこし、炎の様子や煙のたなびく具合を見せながら、熱さを実感させる。 生活体験の中身はなるほど濃い、そして相当すさまじい。  もっとも彼女に言わせると、 「私なんかまだ甘かった」 。 より熱心な家庭では、たとえば 「お正月」 を体験させるため、驚くほどの努力を惜しまないという。
  「おせち料理やお屠蘇、門松やお飾りを用意するくらいならふつうのお受験家庭でもできますが、すごい人になると、わざわざ杵と臼を購入して、家で餅つきをするんです。 そこまでしないと、子どもにはお餅という食べ物、お正月という行事が本当に理解できないからと。 お受験に無関係な人が聞けば仰天話かもしれませんが、なんとか子どもを合格させたい、有名小学校にふさわしい子に育てたいと願う親にとっては、うらやましい話。 ウチもそこまでやらなくては、と一層気合が入るんですよ」
 つまり努力とは、経済力や体力、精神力など、親の総合力のことである。 特に経済力は 「お受験」 の必須条件で、その対策総費用は1人の子どもにつき300万円とも500万円とも言われる。 正確な金額が示せないのは、先に挙げたように各家庭によって 「どこまでやるか」 が違うからだ。 ちなみに彼女の場合は、長女に総額約350万円、次女のときには多少要領がよくなって約250万円をかけた。 これは、あくまでも 「お受験」 の費用であり、無事に合格してからの教育費は一切含まれていない。

家畜やペットにも劣る

 多額の費用と、壮絶とも言える努力をつづければ、確かにしつけの行き届いた子どもは育つ。 幅広い知識や体験を持ち、衣服の正しい畳み方、品のいいおやつの食べ方、美しいお辞儀の角度まで身につけることができる。
 だが、こうした形でのしつけは、やはり 「特例」 と言わざるを得ない。 文部科学省の学校基本調査(平成18年度速報)によると、今年の小学校入学者数は全国で約120万人。 このうち私立小学校へ入学した児童は1万3千人ほどで、全体のわずか1パーセントでしかない。 ただし、東京都に限ると約5パーセントに達している。 有名私立小学校が集中する区内では20パーセントを越える場合もあるというから、一極集中型の、特別な家庭での話になるだろう。
 いったい、子どもの 「育ち」 とは何なのか、そう考えざるを得ない。 一方では、基本的な生活習慣さえままならず、冷凍食品やインスタント食品をただお腹に詰め込んでいるような子どもがいる。 また一方には、完璧なまでにしつけられ、多くを与えられる子どもがいる。
 一見、 「経済格差」 の見本のようだが、果たしてそうだろうか。
 ボタンをはめられない子どもは、ボタンのついていないブランド服を持っている。 床食いやソファーめしをする家庭には、床暖房の設備や大画面テレビがあり、決して貧しくはない。 食事マナーに無頓着な母親のほとんどはそれなりの学歴を持ち、父親はごくふつうのサラリーマン。 言うなれば、中流の家庭で、 「礼節を知らず、自立できない」 子どもたちが育っている。
 他方、お受験家庭には、一部 「良家」 、 「老舗組」 などと呼ばれる上流家庭はあるが、もっとも熱を入れて取り組むのは中流家庭というのが常識だ。 むろん、中流と言っても経済的な余裕がある中の上クラスだが、中流だからこそ 「意識だけは上流」 を目指すのだと言われる。
 つまり、中流の中で分断が起きている、と感じられる。 同じような価格のソファーを購入できる経済力の家庭が、ソファーめし派とソファー上品使用派とに分かれ、結果的に子どもの 「育ち」 が大きく違ってくるのはなぜだろう。
 あえて言えば、親の意識の差が考えられる。 自分が楽をしたい、自分の都合を優先させたいという親は、子どもの育ちについ無意識のまま、 「楽ならなんでもアリ」 といった姿勢で日々を過ごす。 実際に、いくら手抜きをしても十分暮らしていける便利なものがあふれていて、親は自分の無意識、無頓着に気づかない。
 だが、自分の子どもを 「できる子」 「優秀な子」 にしたいと熱望する親は、意識的に子どもをしつけ、その育ちを徹底して管理、干渉する。
 いわば、放任主義対監督主義といったところだが、どちらにしても子どもたちは、本来の 「子どもらしさ」 を奪われてはいないか。 畑に実る野菜を想像さえできない子どもは確かに食に恵まれていないが、だからといってその産地や葉の様子まで勉強しなくてはならない子どもは、心から食を楽しみ、味わえるものだろうか。
 言うまでもなく子育てとは、人間の基礎を育む場、かけがえのない時間である。 モノを与えるだけ、ワザを仕込むだけで育てた気になっているなら、それは家畜やペットにも劣ることだろう。
  「誰でもできて当たり前」 と考えられていた子育ては、混迷の中にある。 その背景は複雑、原因は多岐にわたるものであろうとも、結果を負わされるのはただひとつ、子どもたちにほかならない。