いじめ問題を考える




 現実的に今の日本の学校内を考えると、いじめや校内暴力は徐々に過激さを増し、悲惨な状況にあるのは間違いない。
 いじめ方も次第に、より陰湿になり、悪知恵を働かせ、大人顔負けの凶暴な事件も多発している。
 大人達は 「勇気を出していじめっ子と戦わなきゃ駄目だ」 とか 「精神的に弱いからいじめられるのだ」 とか勝手なことを言うが、今起きている子供のいじめはそんな軽いレベルでは無い のだ。

 大人の会社社会にさえ、リストラや肩たたき、陰湿ないじめがあるではないか。
 総会屋や暴力団に脅され、仕返しが怖くて手が切れない企業が山ほどあるではないか。
 子供達にとっては、いじめ続けられるより、自殺と言う道を選んで楽に成った方が数倍良いのだ。
 誰にも相談できず、誰も助けてくれない中で、いつ殺されるか知れない恐怖に怯え、まだ若い命を自らの手で絶つ、悲惨な現実である。
 そんないじめは、どこの学校にも大なり小なり必ず存在する。

 それでは何故、その様ないじめや校内暴力がおきるのであろうか?
 子供は時にして、大人が想像付かない様な、残虐的で暴力的な素顔を見せる。
 私達が子供の時もそうだったように、昆虫の羽根を平気でむしり、火を付けて殺したり、動物に石を投げて遊んだりする。
 子供はその無邪気さゆえに、知識や経験の無さゆえに平気でそう言うことが出きるのであり、それは極普通の子供であれば当たり前の事ではないだろうか?
 小学生のうちから 「 命の尊厳 」 を大事に考え、釈迦の教えを知っている子供が居たら、逆に恐ろしいと思う。

 いじめる子の側にとって、同級生をいじめることは、 「楽しいこと」 であり、平均的集団の中で、一人飛び出た目立つ存在を群集心理で攻撃することは、自分の存在感を逆にそこに求め、ストレスの発散にしているからだ。
 又、自分がいじめる側に加わらなければ、 「いつか、自分にいじめの矛先が向くかもしれない」 と言う考え方が防衛心理として働いているのではないか。
 「集団に加わり、目立つ存在に成りたくない」 と言う考え方や 「いじめる側に加わっていれば、取りあえず自分は安心だ」 と言う考え方は明らかに存在するのである。

 いじめる側といじめられる側は、表裏一体で有る事を忘れてはいけない。
 現在はいじめる側に居る子供達も、過去には一度くらい、いじめられた経験を持っていたりするのである。

 先生方には教室内のいじめの現場を発見できない事実がある。
 よく先生方が 「私の学校にはいじめが無いと断言できます」 等と言っているが、今の子供達は、そんな簡単に先生方に見つかるヘマはしない
 こんなことは当たり前のことだが、先生方の目の前ではいじめは行われないのである。
 では、どのようにしていじめを見つけたらいいのか?と言う問題になる。
 もちろん子供達の態度や変化、教室内の空気、雰囲気に目を配らせておく必要がある。
 給食や昼休みを含めて、できるだけ生徒と共に時間を過ごしたり、匿名性を生かした投書箱を設置する。
 いじめの対象になりそうな生徒との緊密な交流、文通や放課後の世間話し等で心の悩みを聞いて上げたり、抜き打ちで家庭訪問を実施して普段の家庭状況を見る等も大事である。
 しかし、はっきり言って 「いじめられた被害児童が相談してくるのを待つ」 事に多くを頼らなければならないは現実だ。
 それには先生方に 「勇気を出して相談すれば、必ず解決に導いてくれる」 と言う、そんな信頼感がなければ、被害児童は先生に事実をうち明けない。
 その事件に対して、先生方の対処が不充分であったり、そのいじめを根絶できなければ、被害者児童に対してのいじめは一層エスカレートしていき、火に油を注ぐ形になるからである。
 いわゆる 「お礼参り」 である。
 いじめる側の生徒は、より知能犯に成り、いじめ方も、より陰湿になっていくのである。
 又 「こいつは又、先生にチクるかもしれない」 と言う恐怖心が、いじめ相手に対しての監視体制を一層強化させるのである。
 そのような事が起きれば、その後、被害児童は先生方を信用しなくなり、2度と真実をうち明けたりはしないだろう。

 SOSを一度発信した生徒は、責任を持って保護し、原因を徹底的に究明し、加害者になった生徒に毅然とした態度で望み、ペナルティーを課さなくてならない。
 しかし、ここには大きな問題点が有る、被害児童の言うことを一方的に鵜呑みには出来ないと言う事と、事実調査が困難と言う点だ。
 又いじめる側の生徒の主犯格は大抵の場合、クラスの全権を掌握しており、他の生徒に口裏を合わせさせたりは簡単にする。
 そしてその子が、親の前で日頃から良い子を見せていたりすると、保護者が 「うちの子は成績が良く、優しい子で、いじめなんて出きるはずがない」 なんて言われ、先生が逆に 「人権攻撃」 を受けたりする。
 教師は一丸となって、学校と親との間に緊密な信頼関係を作り、PTAの過保護者の攻撃に負けない様な体質を作るべきである。
 そして事件が起きる前に積極的に生徒に干渉し、いじめを抑止する事は何よりも大事な事だ。


先生の威厳がいじめを抑止する

 いじめの抑止に付いて考えると、 「 相手の気持ちを思いやれる優しい子 」 を育てる事はもちろんだが、社会に自分達を本気で怒ってくれる人が居ない事や怖い存在が無いと言う事は大きな問題である。
 威厳のある怖い存在の必要性も大事ではないだろうか?
 先生の威厳、親の威厳が失墜してしまった、今、どうやって威厳を取り戻すのか?
 子供達に尊敬される教師にはどうやったら成れるのか?
  「 良いことは良い、悪いことは悪い 」 とはっきり明言し、子供を叱る場合も、その時によって叱り方が変わるようなダブルスタンダードは絶対使ってはいけない。
 教師自らが率先して自分達の国に誇りを持つ。
 これは非常に重要なことであり、子供達はそれを空気で感じるのである。
 周りの教師がヒステリックに反対しようと、国歌・国旗を尊重する事は、初めこそ子供達から奇異の目で見られるだろうが、ナショナリズムとアイデンティティーの貫徹は、必ずや子供達に受け入れら、充分尊敬に値すると信じる。
 逆に言えば、国に雇われてる先生が国家を否定したりすれば、それは 「 大いなる矛盾 」 なのだから。
 教員としての時間は、出きる限り子供達に裂く、くだらない組合の行事に参加する等の時間は無いのである。
 大体、組合行事に参加して何かメリットでもあるのかと問いたい。
 時間通りに退社して、賃上げストのために授業を投げ出し、政治的活動に身を投じる、そんな先生が、子供達から尊敬されるわけが無かろう。


体罰に関して

 又、ここで体罰に関しても言及したい。
 体罰は信用される教師に於いて限度を超えぬ範囲で、必要ではないか?と私は考える。
 しかし多くの場合は、言っても聞かない子供にビンタをしたが、逆に子供は開き直り 「 人権 」 を振りかざし親に話す、親は学校に押し掛け、教師は 「 暴力教師 」 の烙印を押されて、謝罪する。
 子供達の間で、その先生は良い笑い物になってしまう。
 そして一層、子供達は先生や大人をなめてかかる。
 人間として未成熟な子供に 「人権」 を乱用させた結果である。
 又、たかがビンタ一発程度に興奮して学校に押し掛ける様な親が、子供を駄目にしているのだが、それに一向に気づかない。
 馬鹿な親の典型である。
 子供達もよく解っていて、そんな馬鹿な親を尊敬はしない。

 自分の親でも、ただの利用できる都合の良い道具なのだ。
 又そういった先生方の体罰により、子供を死傷させたりの事件が起きているのも事実である。
 それらの多くは、 「 殴り方を知らない、限度が解らない 」 そんな教師に体罰をさせるのが問題ではないか?
 あくまでも 「 叱る 」 のであって、冷静さを失ってはいけない。
 げんこつやビンタ、けつバット等、そんな物でも充分効き目はある。
 最近 「 子供を叱ってはいけない、情操教育に悪い 」 等と教育評論家が馬鹿みたいな事を言っているが、子供には 「悪いことをしたら、叱られる」 と、それを自覚させなければならない。
 愛のムチと言うやつである。
 子供の目線に合わせ、適度な体罰を 「 この子に良くなって欲しい 」 と心から念じ、愛情を持って叱る。
 そして、どうしていけない事なのかを把握させる。
 その後、間をおいて必ず叱った子をフォローする。

 感情にまかせた体罰は、暴力的で致命傷、後遺症を負わせる様な結果になってしまう。
 そこで私は思うのだが、教育者としての適正や威厳や体罰も含めて、そんなことを大学の教育課程と少ない教育実習を経て、すぐの若い教師に望めるのだろうか?
 子供が子供を教育できるのだろうか?
 私の子が生徒なら、そんな若造に体罰を許すのは、少し怖い気もするのが現実である。
 社会で揉まれた経験が無く、世帯も持たず、自分に子供も居ない、そんな若造が教育者として、果たして冷静に実践できるのであろうか?
 机上の理論で人格者を育てることはできないのである。


子供の育ち方

 『子どもは親の言葉に従うのではない。 親の 「気配」 を手本に育っていく のだ』

 自分の子どもや生徒のことを 「 あれほど言って聞かせているのに、態度が良くない 」 と嘆く親や先生がいる。 注意してもその場の返事だけはいいとか、言葉だけで態度で示さないとも聞く。

 あなたの子どもの頃を思い出してほしい。 子どもは大人のように本音と建前を使い分けたりはしない。 大人の言うことには十分に敬意を払っている。

 だが、実際には言葉よりも 「 気配 」 を読むのだ。 大人が言葉でどれほど説いても、それを言う人の日頃の 「 態度 」 が 「 言葉 」 を裏切っていたら、子どもはどちらを信じていいのかわからなくなる。

 子どもに不信を持つ親が増えているという。 だが、最初に不信感を持ったのは子どもの方である。 子どもには、大人の苦労はわからないからと思うかもしれない。

 子どもの頃に両親がいつもケンカをしていた記憶のある子どもは、心の中にトラウマ( 精神的な傷 )を持つ。 子どもの前だけで立派に見せても、子どもは親の気配にさまざまなものを見ている。 事情はわからなくても、親が何かで苦しんでいることは感じているのだ。

 今、子どもの自殺やいじめが増えている中で、子どもと本音で付き合うことの大切さが問われている。 本音で付き合うとは 「 言葉 」 で話し合うことではない。

 大人が、できるかぎり自分の言葉と行動を一致させて、子供に自分の心を向けることである。 世代が全然違うのだから、自分の価値観で理解しようとすることに無理があるのだ。 何でもわかろうとするのは大人の悪い癖である。

 あなたにも子どもの頃があった。 子どももいつかは大人になる。 共通するのは互いに人であること。 人と人が真に分かり合おうとするとき 「 心の態度 」 でしか近づけない。


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子供の手を離さなければ過保護になり、
     眼を離せば放任になる。
眼を離されて手を離されずに育った子供は
     親に対して不信感をいだくであろう。

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幼いときのしつけこそ

 ある新聞の人生相談で、18歳になる娘の行状をせつせつと訴えるものがあった。
  「 うちの娘は高校をやめてしまい、無断外泊はする、親に悪態はつく、でどうしようもない、なんとかならないか 」
   …というものだった。 回答者はあたりさわりのない回答をしていたが、私はこれを見て、はっきりいってこれは手遅れだ、と思った。 大変容赦ない書き方であるが、これは子どもが幼い頃のしつけの失敗だ、と思った。
 18歳の“子ども”にもはやしつけは不可能してはいけないこと、言ってはいけないことを理解させるには、幼児期から小学生の間までのきびしいしつけしかない
 最近では体罰などが子どもへの“暴力行為”としてよく非難されるが、子どもに対してやってはいけないことを理解させるには、やはり時には体罰も必要である。 ひっぱたく、外へ追い出す、といった実力行使は決して悪いことではなく、ここぞという機会に用いれば大変効果的しつけ法である。 子どもは口で叱っただけでは、決して理解しないから。
 そうした“実力行使”は子どもが小さい時しか効果はない。 親に悪態をついたならば、他人への迷惑行為をしたならば、うぬを言わさず即ひっぱたく。 幼いときに受けたその痛みが、あとになって効いてくる。 大きくなってからひっぱたかれては、親に対する反発が残るだけだ。
 むろん、しつけのやりすぎはいけない。 本当に最低限の、絶対にやってはいけないこと、言ってはならないことに限って、きびしく接するべきだろう
 小学生まではきびしく、やさしく、中学生からはやさしく、きびしく、接するべきだろう。 そうすれば、高校生になる頃にはきちんと善悪の判断ができる人間になると信ずる。 いずれにせよ、18歳からのしつけは遅すぎる。
 もっとももう少し年齢がいって世間が広くなれば、自己学習して、親の立場なども理解し、悪態をつくようなこともなくなる、という可能性がなきにしもあらずだが。


体罰はやってはいけないのか

学校教育法第11条  校長、教員は教育上、必要があると認めるときは監督庁の定めるところにより、学生・生徒および児童に懲戒を加えることができるただし、体罰を加えることはできない

 先日、新聞の投書欄にある中学校の校長先生が女生徒の顔にいビンタを喰らわせて減給処分となった、という記事が乗っていた。 こうしたいわゆる体罰は教育の一環としてはやってはいけない、ということらしい。 ( 上記の如く、学校教育法第11条にそういう規定がある )やってはいけないことをやったということでこの校長先生は処分を受けた。 しかし 校長先生ともあろう人がこんな法律を知らないはずはない何かやむにやまれぬ事情があったのではないか

体罰とは何だ?

 世間一般では 「 体罰 」 という言葉にはよい印象をもっていない。 なんとなく先生が怒りにまかせて生徒を叩く、というイメージがある。 しかし 「 体罰 」 という言葉には昔からこうした悪いイメージがあったのだろうか。 この言葉を字義通り解釈すれば 「 口で注意しても分からない子には直接身体に何らかの痛みを与えることにより、自らの行為の反社会性を理解させる 」 ということだろう。 そこに悪意はない。 なぜ 「 体罰 」 という言葉に何となく悪いイメージがつきまとうようになってしまったのだろう。 そもそもこうした体罰というのが社会問題化したのはいつ頃のことからなのだろうか。 少なくとも私の子ども時代( 昭和40年代 )にはそうした問題はなかったと思うが‥‥。

私の子ども時代

 少なくとも 私の子どもの頃は先生にビンタを喰らうのは日常茶飯事だった 何度喰らったかわからない。 友達もよくビンタを喰らっていた。 女の先生にもビンタされた。 担任となった先生で生徒にピンタをしたことがなかった先生はいなかったと記憶している。 ビンタを喰らったときにはやはりそれなりに悪いことはしていたから、自分なりに納得していた別にビンタを喰らったからといってその先生を恨んだりした覚えはないし、また学校で問題になったこともなかったはずである先生というのは生徒が悪いことをすればビンタをするのは当然だと思っていた しかし、この学校教育法によると、私の習った先生はみんな法律違反をしていたことになる。

言葉の暴力ならいいのか

 ビンタよりいやだったのが言葉による暴力であった 私は自分が中3だった時のある出来事を今でも忘れない。 美術の時間、例によって人よりトロい私は、細かいことは忘れてしまったが、何かを先生に渡しに行くのが遅れた。 そのとき、美術の先生から 「 バカ、お前なんでこんな時間に持ってくるんだ、バカ 」 とみんなの前で馬鹿にされた。 このときの屈辱は28年たった今でも忘れない。 今でもその時の美術の教師のことは恨んでいる。 私には少なくともビンタされたことよりもこうした言葉の暴力の方が深く傷ついた。

体罰はなぜいけないのだろうか。

 体罰が法律で禁止されている理由は何なのだろうか。
 一つは暴力絶対悪論であろう。 要するに理由は一切問わず、人をたたいてはいけない、というものである。 この論理でいくと、自分の子どもが悪さをしても子どもを叩いてはいけない、ということになる。 ( 本当にそう思っている親もいるらしい ) 自分の子どもだから別に法律に触れることはないにせよ、とにかくしつけの一環としても体罰はしてはいけない、ということになる。 何やら戦争絶対悪論と似ている。
 戦争絶対悪論者は 「 家に強盗が入ってきたら強盗と話し合いをする 」 のである。 話し合いがつかなければ強盗さんに好きなだけカネを持っていかれるのも黙って甘受する。 カネだけでなく、妻や子どもの身体や命が持っていかれようとも絶対に相手に手をだしてはいけない。 それで妻や子どもが犯されても殺されてもそれは甘受する。 もし日本が外国に攻められたら当然無条件降伏するのである。 その後どんな目にあってもやむをえない。 敵国の兵隊に妻や子を殺されても何もしてはいけない。 とにかく相手に暴力をふるってはいけない。 大事なのは命より日本国憲法。 こういう戦後左翼の考えとこの体罰絶対悪論は似ている。

 二つ目には教育的目的としての体罰と恣意的体罰の区別がつけれらない、ということであろう。 これは確かにそうだと思う。 しかしながら少なくとも私の経験からは先生から恣意的な体罰を受けた、という覚えはない。 要は体罰する先生と生徒との信頼関係なのだ。 先生に対する信頼が生徒側にあれば、ビンタされても別に生徒は先生を恨まない。 逆に信頼関係がなければ、恣意的体罰を避けたとしても代わりとして受ける恣意的言葉の暴力に生徒が深く傷つくのは私が身をもって経験している。 そんなら体罰を禁止したところで意味ないではないか。

 三つ目にはやはりケガがこわい、ということだろう。 子どもにケガをさせてはいけない。 学校の管理責任が問われる。 大事なのは子どもの教育より学校の管理。 もし先生が生徒にケガをさせた、となるとマスコミに何やらかんやら言われるかもしれない。

 四つ目は先生から暴力を受けた、という子どもの心理状態への問題。 しかしこれも前述の如く、生徒は肉体的痛さに心が傷つくのではない。 肉体的には痛くても痛くなくても生徒の心には関係ないのだ。 言葉による暴力などは別に痛くもかゆくもないが、心は深く傷つく。 また同じ体罰でもビンタならば何となく先生の真摯な姿勢が伝わってくるが、デコピンだと何となくバカにされたような感じで先生の真摯な態度が伝わってこない。 デコピンよりビンタの方が痛いだろう。 だから肉体的な痛さと子どもの心の傷には相関関係はないのだ。

 五つ目には他と関係するかもしれないが、生徒の人権侵害、ということ。 要するに殴る、ということは生徒の人権の侵害にあたる、という訳だ。 これもまた進歩的知識人のような人権屋さんが言いそうなことだ。
 たしかに生徒に人権はあるだろう。 しかし、殴ること=人権侵害と単純にいえようか。 人権侵害とは対等な人間関係同士でなされる概念だからである。 学校というところは先生と生徒は対等ではない。 先生は教え、生徒は教わる側なのだ。 無論、昔のように三歩下がって師の影をふまず、とまでは言わないが、先生は生徒を教育する権利と義務があり、生徒は教育を受ける義務と権利がある。 そのために生徒には先生の言うことを聞く義務があるのだ。 ( 無論、その先生の言うことが社会常識に照らして妥当であるというのが前提である )先生は生徒がその義務を果さないから何らかの処罰をするのだ。 その一貫として体罰もある。 もし、これを人権侵害というのであれば、先生が生徒に何らかの処罰をすればすべてそれは人権侵害となってしまう。 これでは教育というものは成り立たないだろう。

体罰の前提となる先生と生徒の人間関係

 生徒というのは敏感である。 先生に怒られる時は先生が本当に自分達のために怒ってくれているのか、単にうさばらしで怒っているのかは被害者である、生徒自身が一番わかるのである。 そして何度も書いたように、前者ならば決して生徒の心が傷ついたりはしないし、むしろ 「 先生、殴ってくれてありがとよ 」 といった気持ちにもなるだろう。

 親にひっぱたかれたことのない生徒はいないだろう。 普通の親ならば自分の子どもを何度もひっぱたいているはずだ。 ほとんどの場合、それは子を思う親のいわゆる 「 愛のムチ 」 だ。 ( しかし最近は幼児虐待症候群なるものが増えてるからなあ、一概にこうも断定できないのかもしれないけど ) 信頼する先生からピンタを受ければ生徒は 「 ああ、この先生、オヤジと同じだ、やっぱオレ悪いことしたからなあ、先生はオヤジのようにオレのことを考えてくれてるんだ 」 と思うのだ。 前述の如く、先生に対する信頼がなければ体罰を避けたとしても結局は言葉の暴力を受ける。 したがって大事なのはやはり先生と生徒の信頼関係である。 体罰の一律禁止は先生と生徒との信頼関係の構築、という教育で一番大事なことを無視している。

禁止すればかえって悪質な体罰が増える

 その昔、古き良き時代のアメリカで禁酒法という法律が施行されていたことがあった。 酒は身体によくないし、他人に害を及ぼすからやめてしまえ、と法で一律に禁止してしまったのである。 結果はどうなったか。 かえってひどいアル中( アルコール依存症 )が多くなった。 社会は混乱を極め、すぐにこの悪法は廃止となった。 なぜこんなことになったのか。

 世の中、一見良さそうにみえて実はそれを行ってみるととんでもないことになる、ということがよくある。 禁酒法の時代、アルコールの製造、流通を禁止したために、酒をどうしても飲みたい人は不法手段で手に入れるようになった。 いくら法でとりしまってもアングラの世界はなくならない。 そしてひどいのになると、自動車の不凍液として使われたメチルアルコールまで飲み始めたのである。 これでは病人続出だ。 結局禁酒法によってかえってひどい酒飲みばかりが増え、この悪法はあえな廃止されたのである。

 学校教育法第11条も何やらこの禁酒法と似ているような気がする。 体罰を一律に禁止したところで生徒というものはやっぱり悪いことをする。 それに対する処罰が必要だ。 しかし体罰は禁止されている。 となるとアングラでやるっきゃない。 結局体育館の片隅とか、放課後とか、人目につかないようなところで体罰がより陰湿に行われることになる。 不法だから隠れてやるしかないのだ。 こっそりとやるから誰もみていないし、どうせ法律違反なんだ、ついでにこいつら生徒で日頃の鬱憤晴らしもしちゃえ、なんてことになるのである。 このように体罰を禁止すれば、禁酒法と同様にかえってより悪質なものが増えるのである。 こうした矛盾は世の中には、共産主義思想、売春防止法、老人の医療費無料制度、などいっぱいある。

やはり体罰は必要だ

 体罰禁止というのは結局は 「 くさいものにはフタをしてしまえ 」 という発想である。 学校で先生たちが生徒からどう感じ取られているか、信頼を受けているか、そういったことはめんどうだから考えない。 とにかく体罰はダメ、やったら減給、ということにする。 そうすれば体罰をする先生はいなくなる。 体罰がなくなれば学校には問題が起きにくかろう、学校管理もやりやすくなる、という誠に安易な発想である。

 この条文、学校教育法第11条からは先生と生徒とのふれあいがまったく感じとれない。 またこの条文には国家の、先生に対する信頼感も感じられない。 だいたいの先生はみんな生徒と信頼関係を築こう、と努力していると思う。 しかしこの条文は 「 先生性悪説 」 を前提としているのである。 どんなヘンな先生がいても学校秩序を維持していくことができるように、という目的のために存在しているとしか思えない。

 もっと先生達を信頼できないのだろうか。 先生もまたこんな条文でしばられていては、真摯に子どもと向き合って教育しようと意欲がうすれるだろう。 生徒を思えばこそ、いくら口で言っても聞かない子には身をもって教育する必要も出てくるはずだ。 生徒との信頼関係があれば体罰をしても生徒は理解してくれるにちがいない、と思えなければ何のために教師をやってるんだ。 そしてかえって殴られてこそ教師を尊敬し、信頼するようになることもあるのだ。 むろん、生徒への暴力行為と取れるようなことはいけないが( 殴る、蹴る、道具を使う、など ) 必要最小限の体罰はやはり必要である、と思う。 ( 手段としてはビンタが一番よい。 ピンタは昔の青春ドラマにも良く出てくるように教育的効果は一番ある )




服装の乱れ

 私が教員になったころ、勤務先の中学校の男子はすべて詰襟の学生服でかつ丸坊主でした。 私服を捨て、断髪をして中学校に入るというのはなかなか気合の入るもので、小学生が中学生に生まれ変わる重要な契機となるものと当時は思っていました。

 しかしほどなく、丸坊主は軍国主義を彷彿とさせるとか、髪型は個性だ( なんという薄っぺらな )とかいった話が持ち上がり、最後は人権問題として中学校から坊主姿は消えてしまいました。 しかし、何かもったいないことをしたな、と今でも思っています。

 さて、なぜ日本の中学校には制服があるのか。 髪を染めたりピアスをしたりすることは禁止されるのか、かつて丸坊主を強制したのはなぜか、そうしたことにきちんと答えていくのはなかなか容易ではありません。 私たちは校則のひとつひとつを、いちいち吟味してから守らせようとしているわけではないからです。

 制服やアクセサリーについては、
1.そもそもそうした華美は勉強の妨げになる、とか、
2.服装を野放しにすると学校の平等原則が妨げられる(金のある子たちはどんどん華美になっていくから)、とか、
3.そもそも学校にそんないい格好をしてくる理由があるのか、とか、
 さまざまな言い方ができますが、どれも子どもを納得させるに十分ではありません。

 それはそうです。 学校に制服やアクセサリー規程が残っているのは、子どものためではないからです。 それが始まったころは子どもや家庭のためだったのかもしれませんが、社会が豊かになった現在ではそうでもありません。

 私は本気で思っているのですが、教師が服装や装飾品の制限を手放さないひとつの理由は、 華美な服装やアクセサリーが私たちをイライラさせるから です。 私たちが真剣に何かを伝えようとしているのに、子どもたちが 「 そんなことには興味はない。 俺たちに関心があるのはファッションだぜ 」 と全身で訴えるからです。

 さらにもっと大きな理由があります。 それは 外見に制限をかけておくと便利だから です。 何が便利かというと、心に揺れを生じた子は外見に何かの細工を始めるからです。 私たちも私たちの先輩たちもずっとそれを感じていました。

 もしある日、突然髪を染めたりピアスの穴を開けてくる子がいたら、取りあえず話を聞いてみなければなりません。 その子の内面で何かが起きているからです。 それもかなり大きな変化が起きています。 これは理屈ではなく経験知です。 外見をいじる子は絶対何かをもっています。

  「 服装の乱れは心の乱れ 」 という言葉は 「 服装が乱れると心が乱れる 」 意味だと誤解され( たしかに誤解とは言い切れない面もあるのですが )世間からはバカにされますが、この言葉、実は 「 『 服装の乱れは心の乱れ 』 のサインだ( だからしっかりと見、話を聞いてあげないさい ) 」 という意味なのです。 「 心のサインを見落とすな 」 と同じです。

 心なんて目に見えません。 それを可視化するためのサイン発生装置、それが制服や装飾品規程なのです。

 装置は取りあえず目盛りをゼロにしておかないと指針の振幅が見えません。 全員に同じ格好をさせるのは、つまり目盛りをリセットする行為といえます。

 そういうと必ず出てくるのは 「 でも欧米の学校には制服なんてないしアクセサリーだって自由じゃない 」 という話です。 それに対する答えも簡単です。 欧米の学校は “心の教育” なんていう面倒なことは、していない のです。