ガキに 「人権」 を話すな!




 2000年4月24日国立市立第二小学校の5、6年生児童生徒約30人が 「基本的人権や憲法に反する」 「多数決で決めるのが民主主義」 等と言い、校長に土下座を迫り、屋上の国旗を降ろさせる騒ぎが起きた。

 当然、小学生の子供達が自主的にそんなことをした訳がなく、その影で 日教組の教員達と左翼保護者が煽動をしていた 事実は間違いないだろう。
 何故に、どうして彼等日教組と、そう言う馬鹿な教員を支持する保護者達が今の日本の子供達をダメにしている事に気づかないのだろうか?
 生徒会が卒業・入学式をボイコットし、保護者があろう事かそれを支持した、埼玉県立所沢高校等も良い例である。
 過去に所沢高校には人権生徒手帳なる物が存在していた。
 内容には 「 オートバイを自由に乗る権利 」 「 喫煙をする権利 」 「 服装を自由に決める権利 」 「 異性交遊を自由に行う権利 」 そして、 「 先生の職員会議を監視し、嫌なことが決まれば、それを否決する権利 」 だ。

 所沢高校のPTA会長は、 「 入学式などについては、生徒の自主性を尊重すべきだ 」 等と言っているが、生徒に自由に卒業式をやる権利などあるわけないだろ!
 ふざけるな!
 子供のうちからイデオロギーを教えてどうする!
 小学校に革命闘争を持ち込んでどうするんだ!
 人権の意味も理解できないガキに 「 人権、人権 」 等話すな。
 ガキはガキなのだ。
 だから大人達がみずからお手本となるよう誇りを持って人生を生き抜き、それを見せ、時にはきつく叱らなければいけないのだ。

 国立第二小学校と言い、所沢高校と言い、開いた口が塞がらない。
 是非、教員や保護者連中に答えて貰いたい。
  「 校長と言う学校で一番偉い人を多くの人の前で吊し上げる 」 、そんな教育が許されるのか?
  「 学校が決めた卒業式、入学式に反対し、生徒独自の歓迎会をやる 」 、それは子供達に取って本当に良いことなのか?
 小学生が大人達の煽動により、校長に土下座を強要させ、校長は 「 つらい思いをさせて悪かった 」 とみんなに謝った。 じゃあ、聞くが、子供達は、次の日からどうやってその教育者を尊敬したらいいのだ?
 大人を、先生を馬鹿にするのを平気に思う、それはイコールそれを毅然と諭さない、良識の無い、それを止めない、そんな親達にも結局は向けられることになるのではないのか?
 そんな事を煽動し、見て見ぬ振りをする親や先生を子供達が信頼し尊敬できると、本気で思っているのだろうか?
 何故、そういう輩は 「 自分達が子供達を駄目にしてる 」 と気づかないのか。
  「 すぐキレて、ナイフで武装し、人を平気で刺す 」 、それこそ 「 命の重さ、尊さを知らない 」 、 「 親との信頼関係の無い 」 、 「 お年寄りを大事にしない 」 、 「 目上の人を敬えない 」 、 「 敬語の使い方も知らない 」 、それでいて 「 仲間や友達もすぐ裏切る 」 、 「 同級生から5000万円も恐喝 」 、 「 幸せに暮らす家庭の奥さんを殺し赤ん坊を叩きつけて殺す 」 、 「 リンチで殺してコンクリート詰めにして死体を遺棄する 」 、大人も恐怖するような凶悪犯罪を平気でやる近頃の子供達。
 そんな子供達が何故生まれるのか、真剣に考えて貰いたい


 国立第二小学校の児童が校長を吊し上げる場面で、 「 戦争で多くの人が死んでいる、国旗国歌法は、一部の人が勝手に決めたもの 」 等と言ったらしい。
 確かに戦争で多くの人が死に、戦争は悲惨な物であり、戦争はやってはいけないものだ。
 そして平和はとても、とても大事なものだが、子供達に本当に 「 反戦 」 それだけを教えておけば、それで良いのだろうか?
 先生や親を尊敬できず、近所のおばさんやおじさんの言うことを聞かない子供達が、本当の意味での 「 ヒューマニズム 」 を解るのだろうか?
  「 あの赤い日の丸には色々な歴史がある、多くの人の犠牲もある、不幸な歴史もある、祖先の勇気もある、だからこそ、これからの日の丸の意味を良くするか、悪くするかは君たちにかかっている 」 と子供達に教えるべきではないのか?
 子供は親や先生を見て育つのだ、けして人権主義や平和主義が健全な子供を育てるのではない。
 権利と自由を主張するには義務と責任を果たさなければならない。
 平和を護るためには代償と尊い犠牲を払わなければならない。
 誰だって自由が良いのだ。 権利も多い方が良い。 いつまでも平和であって欲しい。
 そんなことは人間ならみんなが思ってることだ。

 自国の国旗や国歌も尊重できず、 「反戦」 「平和」 「人権」 をお経のように唱え、自虐思想を教える、そんな大人を見て健全で真に平和を愛する子供達が育つわけなど断じてないと言い切れる。

国立第二小学校事件

狂気!教師が小学生を煽動、校長に土下座迫る!

ー 事件の経緯 ー
 2000年3月24日、東京都国立第二小学校の屋上に戦後初めて、日の丸が掲げられた。
 国立市には、市立小学校が8と市立中学校が3あるが、戦後二小を含め、他の全ての学校で卒業式と入学式における国旗掲揚と国歌斉唱が適正に行われていなかった。
 しかし2000年、国立第二小学校の沢幡校長は文部省の学習指導要領に従い、国旗掲揚と国歌斉唱を取り入れた卒業式を行おうと、昨年12月から8回の職員会議を開き、教職員への理解を求めたが、議論は平行線をたどった。
 その為、校長は式場内での国旗掲揚と国歌斉唱を止め、屋上へのみの国旗掲揚で、教職員との和解をはかったが、話し合いは卒業式前日まで続けられた。
 式前日には9時間にも及ぶ職員会議を開いたが、双方合意できず、校長はやむなく、式当日に屋上へ国旗を掲揚した。
 式が終了し、卒業生を見送った後、5,6年生の児童30人と10数人の教職員、保護者が校長に詰めより、国旗を降ろさせ、土下座を迫った。
 詰め寄った時、児童等は前日行われた職員会議の内容を克明に知っていた。
 教職員が児童に内容を漏らし、煽動したのである


子どもの人権について

  いわゆる“人権派”と称する人たちは子どもの人権を大切にする。 子どもといえども大人と同じような人権がある。 大人社会から彼らの自由を守らねばならない。 たとえば中学生に丸刈りを強制してはならない。 丸刈りは少年が自由な髪型にする自由を侵害する。 したがって中学生に丸刈りを校則で強制することは人権侵害にあたる、などである。

  つまり子どもといえども人権があるから大人と同じような権利を認めさせるべきだ、という考えである。 そこには子どもは子ども扱いせず、一人前の人格として扱え、という前提がある。

  こうした人権派の人たちはしかし、少年犯罪に対してはなぜか甘い。 本来人権派が言うように子どもの人権というものを尊重するのであれば、義務も尊重されねばならない。 つまり子どもの権利を守るというのであれば大人が負っている義務もまた子どもにも同様に負わせる必要がある。

  ところが人権派の人たちはこれには消極的である。 曰く、 「 子どもはまだ発展途上の人間である。彼らが犯罪を犯したのは彼らがまだ発展途上で未熟であるがゆえである。 したがって、彼らを大人と同じ考えで処罰するのは正しくない。 処罰よりは矯正を考えねばならない。 」

  あれ? これってなんかヘンだよね。 権利のことに関しては子どもは大人と同じく一人前の人格があるとしながら、義務のことになると子どもは半人前だから大人のような処罰はするな、という。

  そもそも権利と義務とは裏腹の関係にある。 人間は国民としての権利があるのと同様に、果たすべき義務があるのは当たり前だ。 たとえば日本人ならば日本国家からその命と財産を守ってもらえる権利があるが、そのためには大人はしかるべき税金を納める義務がある。

  子どもだからといって権利ばかり強調されて義務がないがしろにされてもよい、ということではない。 もし 「 子どもはまだまだ社会的に未熟な存在だから犯罪を犯しても処罰よりは矯正が優先されるべきだ 」 というのであれば、子どもの権利としての人権もまた教育上必要ならば制限されて当然である。 大人と同じような人権は子どもにはないのだ。

  前述の例でいえば、中学生に丸刈りを校則で強制することは、彼らがまだまだ発展途上の未熟な人間である、ということであれば人権侵害とはならない。 教育の一環として未熟な少年を鍛えるためには中学生らしい丸刈りがよい、と学校が判断すれば、そこの生徒は丸刈りにならなければいけないのだ。( 但し、たとえば天然茶髪の女の子を無理に黒髪に染めさせるのは人権侵害である。 それは不自然を強制させるから。 中学生の丸坊主は決して不自然な姿ではない。 野球部は高校生だって丸刈りではないか )

  逆に人権派の言うように子どもといえども一人前の人格がある、というのならば、少年犯罪にも大人と同じ刑罰が適用されてしかるべきである。 少年法などというまどろっこしい法律などは廃止して、とにかく人を殺したり、強姦、強盗などといったひどい刑法犯罪を犯したのであれば年齢に関係なく法廷に引き出して大人と同じように裁けばよい。 顔や名前だって堂々と公表すればよい。

  小中学生程度までの少年・少女というものはやはりまだまだ人格的には未熟だと思う。 だからやはり少年法( 本当は少年・少女法とした方がよい )のような法律は必要だと思うし、殺人、強姦を除けば矯正主義で対処すべきだと思う。( 殺人や強姦をした人間はすでに人の道を完全にはずれているから矯正の余地はないと思う )

  その代わり人権派の言うような子どもの人権なるものは認めない。 子どもは親や教師と対等な存在ではないのだ。 親や教師にタメ口を叩くような子どもはひっぱたいてもかまわないのである。 その代わり親や教師には子どもをきちんとまっとうな人間に育てていくだけの力量が求められる。 時々ヘンな思想を子どもに吹き込む偏向教師がいるが、そうしたことは許されない。

   「子どもの権利条約」 なるものがあり、人権派の人たちが金科玉条のように崇めまつっているが、これは基本的には日本でいうような人権ではなくて、子どもがとにかくまっとうに生きていけることを保証したものだ。 だからこれはむしろ 「子どもの生存権条約」 と解釈した方がよいのである。( 但しこの条約の12〜16条はいわゆる子どもの”主体的権利”を謳っているといわれている。 しかしこの部分は明らかにいきすぎであると私は思う。 たとえば第14条では子どもの信条・宗教の自由を謳っているが、はたして子ども自身でこうしたことを主体的に考えられるだろうか。 かえって日教組などの洗脳に利用されないだろうか )

  世界には内戦などにより、あたら国富が浪費されている国がいくつもある。 こういった国では子どもは貴重な戦力だから、ろくな教育も受けられず、労働や戦闘に従事させられている。 こうした貧しい国の子どもならばそりゃあ、その人権も保護せざるを得ないであろう。

  日本は違う。 日本の子どもは少なくとも親がよほど個人的におかしくない限りは普通に食っていけるし、教育も受けられる。 つまり日本では子どもの人権問題は国家的問題なのではなくて、ごく一部のおかしい親の問題なのである。

  ごく一部のおかしい親が引き起こす問題を針小棒大にして、あたかも日本全体の問題のように子どもの人権、人権、と叫んでいるのが人権派である。

  古今東西、今の日本の子どもほど恵まれた環境に育っている人間はいないだろう。 今の日本の子どもに必要なのはその人権擁護ではなく、勝手なことをさせず、まっとうな人間に育つようにその人権を制限することなのである。