/

「奉仕」 義務化は是か非か




 「教育改革国民会議」 の答申の中に 「奉仕の義務化」 という提案があり、議論を呼んでいる。 結論を言えば、そんな観念論で教育の改革はできないということである。

 反対者の意見としては、 「奉仕とは元来自発的なもののはずなのに、義務化するとは矛盾だ」 とか 「自主性を重んずべきだ」 とか 「強制は軍国主義に通ずる」 というものである。

 軍国主義に通ずるというのは、いつもの左翼の馬鹿馬鹿しい決まり文句であるが、しかし確かに 「奉仕」 を 「強制」 するというのは矛盾であることは間違いない。 それは 「本来自発的にすべきことを強制によって教える」 ことだからである。

 まあ、言葉の揚げ足取りはやめておこう。 「奉仕」 の精神を子どもたちになんとか分からせたいという提案者の気持ちは分からないでもない。 提案者の曾野綾子氏は産経新聞の 「正論」 欄で 「教育は強制から始まる」 のだと、開き直っている ( 平成12年10月29日 ) 。 なるほど子どもたちを学校に集めて教育するのも、家でしつけをするのも強制であるから、強制一般が悪いという議論は成り立たない。 理論的に言えば、強制によって奉仕の精神を身に付けさせることは可能である。 問題は奉仕の精神が本当に強制によって身に付くかである。

 私は身に付かないと思う。 身に付くと思うのは、今どきの学校の、すなわち子どもたちの現状を知らない者の観念論である。

 たとえば、このごろの学校では、生徒たちに掃除をさせるのに、ひどく手を焼いている。 子どもたちが掃除をしないのである。 今の子どもは手を汚すことをひどく嫌う。 家で掃除をしたことがないし、とくに拭き掃除のときに汚い水の中に手を入れて雑巾をしぼることをいやがる。

 誰も掃除をしないし、殴って強制することもできないので、先生が自分で手本を示せばやるようになるかと思ってやってみせると、 「先生がやってくれるからいいや」 と子どもたちはますますやらないという、笑い話のような話も聞く。

 こういう子どもたちに対して 「奉仕」 を義務化して、何か勤労奉仕をさせるとする。 奉仕の現場に引率して連れていくことはできるだろうが、実際に仕事を強制することはできないのである。 やりたくない生徒は見ているだけ、それを強制してやらせるには、殴ってでもさせる以外に手はないのである。 もちろん今どきは、何かを殴ってやらせることは許されない。 たとえ殴ることが許されても、それで奉仕の精神を教えられると思うのは、よほどおめでたい人だけだろう。 生徒の心には反発と恨みの心しか残らないだろう。

 こういう訳で、奉仕を強制によって教えることができるという考えは観念論なのである。

 今の教育に必要なことは、 「人に尽くす」 ということを教える前に、 「自分のことは自分でできる」 ことを教えることである。 たとえば、家の家事を手伝う、家の掃除をする、こういう日常の簡単なことをやらせることから始めなくてはならない。 学校でも同様に、自分たちが毎日生活する場所をきれいにするという基本をきちんとやらせることが肝要である。 そういう日常の 「義務」 のできない子どもたちを、外に連れ出して 「奉仕」 とやらをやらせてみたところで、なにかよい精神が身に付くはずがないのである。

 奉仕であろうが、勉強であろうが、生活実践であろうが、何かを教えるためには、それなりの人格が出来上がっているという前提が絶対に必要である。 今の子どもたちは、その絶対の前提である人格的な基礎ができていないのである。 つまり嫌なことでも必要なことは我慢してやる、やっていけないことは我慢してやらない、という基本ができていない。 たった1時間座って授業を受けるということさえできない子どもたちが急増しているのである。 そういう人格的な基礎をどうやったら作りあげることができるかを考えるのが、教育改革の課題でなければならない。

 その一番困難なことから逃れるかのように、 「奉仕」 などというきれい事を言い出しても、なんの解決策にもならないであろう。 「掃除」 をさぼる子どもはやはり 「奉仕」 をもさぼるのである。 勉強の嫌いな子どもは、勉強よりはよいと歓迎するだろうが、それによって日本国民の学力の低下はいっそう進んでしまうだろう。

 日本はこれまで教育立国と言えるほどに、国民の学力の高さを基礎に発展してきたと言える。 また世界で有数のモラルの高さと治安のよさを誇ってきた。 しかし今のままでいくと、10年か20年ののちには、国民の道徳心も学力も三流国か四流国になってしまうだろう。 よく知られているように、今の子どもたちの規範意識は音を立てて崩れているのである。

 こういう現状に対するどの程度の認識を 「教育改革国民会議」 の委員たちが持っているのか、はなはだ心許ない。

 他人に奉仕する前に、まず自分のことに責任を持ち、自分の面倒を見られる人間を育てる対策を考えていただきたい。 そうしないと、奉仕はできるフリーターばかりが増えることになってしまうだろう。

 曾野氏は 「ポックリ・シューズを履いて、ケイタイを掛けながら町にたむろしているヤマンバ族」 は 「心根は優しい」 ので、奉仕をさせれば 「3人に2人は」 「人生に自信をつける」 と主張している。 これも現実認識が決定的に間違っていると思う。 彼女らに欠けているのは 「優しさ」 ではない。 秩序感覚や現実感覚である。 それをどうつけるかが問題なのである。

 たとえば、彼女らを育てた父親は、たいてい本当に 「優しい」 のである。 この種の父親が、私にこう言ったことがある。 「先生は犬を散歩させるときに、犬の行きたい方についていってはいけないとおっしゃるが、犬にだって、したいことをする権利がある」 と。 しかし犬の行きたい方についていくと、犬は自分が主人だと思ってしまい、見事に 「わがまま犬」 ができあがるのである。

 「優しさ」 を頼りに教育を考えると、かくのごとく道を誤るのである。 彼らの子育てのどこが間違っていたかは明瞭であるが、それをどう是正するかを提言するのが、 「教育改革」 を考える委員会の任務であろう。 「奉仕」 に逃げるのでは、問題をそらせただけである。

 人格の基礎も作れない、学力の低下も防げない。 そうなってしまった教育を救う代案として 「奉仕」 を持ち出すという観念論的発想では、今の日本の教育の危機は救えないであろう。

 現在の日本の教育の危機を救うためには、私がかねてより指摘しているように、 「教育を受けられるような人格的な基礎を作る」 ことが急務である。 つまり 「教育のきく人間」 を作ることが肝要である。 そのためには、三つの感覚、すなわち 「秩序感覚」 「現実感覚」 「美的感覚」 を幼児のころから身につけさせることである。

 この基本を忘れたところに日本の教育の危機の根源がある。