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教育現場からの報告




 鵜川 昇著 『崩れはじめた日本の教育を考える-桐蔭学園の実践から-』 ( 深夜叢書社、1999年 )は、つぎのように論じている。

 日本では、家庭も社会も学校も教育する機能をうしなっている。 学校をスリムにせよ、しつけは家庭などというのは、実状を無視した妄言である。 日本は宗教のささえが道徳の根幹にない。 集団のしつけは学校ですべきである。 こうした現状のもとで日本の学校は、幼稚園から大学まで荒廃の極にある。 豊かな社会・家庭が幼少青年を 「馬鹿殿様」 にしさっている のである。

 これ放置すれば、21世紀にはいり、年がすすむにつれて日本が世界のなかで活力をうしなうのは目にみえている。 教育というのは、できない者に力をつけること であり、いやなことでもやらなくてはいけないこと や、社会人となるというのは集団のなかで生きることであるから、勝手な、自分本位のことをしてはいけない し、さらに 世のため、人のためにすること がなければ生きる価値がないということを教えることなのだ。

 こうした重大な懸念・現実的な困難を克服するには、どのような理念・対策・態度・努力が必要だろうか。 桐蔭学園理事長・学長・校長である鵜川さんは 「〈 大学生 〉集団のしつけも学校でおこなえ」 といっているが、この意見にはただちに疑問が湧いてくる。
その提唱は、
( 1 )全寮制で学生を収容してこそやれる可能性があることではないか。
( 2 ) 「馬鹿殿様」 〔 中国風にいえば 「小皇帝」 様 〕の教育は、家庭における教育・しつけ欠如の結果であるのに、大学・学校でそのツケまわしの面倒をすべてみるという関係は、いささかならず喜劇的かつ悲劇的な様相ではないか。
 以上の2点がとても気になるのである。 ともかく、大学・学校でなんとかしなければという発想・気持はよく理解できるし、共感もする。 実は私も、大学という教育現場で鵜川さんのいう点を真正面よりうけとめ実際にやっている、といっていいからである。 日本の教育関係者が直面しているこの深刻な問題は、日本社会全体に浸潤している問題症候群を一学校法人や個々の教員次元における教育的努力で、はたしてどのくらい対処できるのかという根本的疑念にある。

 岐阜県の朝日大学は、全学部の学生に1年生の前期に履修を義務づけている 「社会と生活基礎」 という科目がある。 この科目は大学で 「マナー」 を教える。 おじぎや敬語のつかいかたから箸の作法まで、手取り足取り教えている。 「そこまで面倒をみるのか」 という声もあったが、不況で企業が即戦力を求めていることもあって採りいれたという。
  「大学が講義でマナーまで教えるのは初めて」 と驚いたのは、文部省だという。
( 『朝日新聞』 2000年2月21日朝刊 )

 あれあれ、当の文部省が大学の教育現場におけるそんな対応に驚いているんですか、と皮肉のひとつもいいたくなるが、まあそれで大学教育になるなら、やらないよりはやったほうが得策である。 いまどきの大学生の 「口下手」 「不作法」 「欠礼度」 の程度といったら、それはもう惨憺たる状況なのだから …… 。

 女性論で有名な学者上野千鶴子東大教授は、 「大学改革が高校以下の教育改革に連動し、さらに家庭教育をもかえていくためには、なによりも企業人事政策がかわらなければならない」 と主張しているが( 『日本経済新聞』 1995年1月6日 「新生日本 『個』 からの出発- 『日本型家族』 崩壊を越えて」 )、後述するようにその動向はすでに激流となっている事実をしらずに、そのように主張するのは遅きに失したものである。

 また上野さんは、大学の現状に関して 「大衆化しレジャーセンター化した大学、学力低で学級崩壊が起きかねない授業の現実、学生の自発性をのばすどころが受動性と同調性高めるだけのマスプロ教育など、日本の教育もまた費用対効果がすこぶる悪いのだ」 と析している( 同上 )。 しかしながら、この理解もいささかならず〈 時代遅れ 〉である。 事態はもはや、そんな悠長な時点にはないことを、よくしっての発言とは思えない。

 2001年2月初旬に日本経済新聞が実施した教育問題に関する調査の結果によると、 「若者のしつけを懸念する」 回答者が6割以上に達したということである( 『日本経済新聞』 2001年2月7日 )。 問題の根っこがどこにあるのか考えねばならないだろう。

 現在における日本の教育制度は 「偏差値」 偏重あるいは至上主義の体制である。 「偏差値は人格の評価とイコール」 なのである。 クラスメートも、無意識に偏差値の高い人には憧れ、低い人は見下す。 これでは、本当の友達などできるはずがない。 「他人をみるのも偏差値ならば、勉強の目標も偏差値である」
( 『朝日新聞』 2000年1月15日朝刊、 「受験勝ち抜き消えぬ戸惑い」 )

 偏差値という抽象的な数値が、学生という人間の存在価値を人格全体まで一元的に意味づけ、決定しつくすのであるから、子供たちの精神が幅をうしない、ゆがめられることは必定である。 学校教育はいったいなにを目標に生徒・学生を指導するのか。 選抜のための方法=〈 偏差値 〉が目的そのものになった価値観を抱かされた人間を大量生産している。

 日本社会に活力をもたらし、あるいは産業経営に必要な人材供給をすべき学校〔 小学校から大学まで 〕が、家庭教育にまで撥ね返って、悪影響を与えている偏差値志向の教育環境を転換するための手がかりすらみうしなっている。

 問題の焦点はむしろ、一国の教育政策にあり、文部省の姿勢いかんにあるのではないか。 あるいはこの国の体制問題の全体的な根幹にまでさかのぼって考えてみる余地もある。 日の丸・君が代の法制化問題など吹っ飛ばしてしまうような、きわめて深甚なる21世紀的な課題、いいかえれば日本の将来を決定的に左右するそれが控えている。

 日の丸をともかく掲げさせこれに敬意をもたせ、君が代を式典で歌わせるように強制する法律を公布・施行することで、教室内における教育的( ? )な秩序が保てるならば、こんなたやすいことはない。 そんなことよりも、われわれの目に映りにくい重大な現象が実際に生起しているのである。

 30年近く、アメリカの大学で教鞭をとってきた永谷敬三は、こういっている。

「最近の日本の若者たちは …… 恐怖心がないからではなくて、過保護社会で育ったために、生存本能が欠落している」

 20世紀における環境汚染の急激な進行・影響もあってか、日本の青年男子の精子製造力・保有率が、以前にくらべて8割くらいの水準に落ちている。 とすると、精神のみならず肉体〔 基本的な生命力維持 〕の面においても、日本という国の風土背景にはなにか危険な兆候( シンドローム )が現われているのかもしれない。

 このごろの若者の食生活はそうとうおかしい。 専門家に指摘されるまでもないけれども、コンビニでの買い食いの風景にわかるように、過食のわりには蛋白質・脂肪分・炭水化物のバランスが悪いだけでなく、ミネラルやビタミンの絶対的な不足も要注意だということである。

 怒りっぽい、イライラする、精神的な集中力がないなどの症状は、そうした食生活習慣に原因している。 とくに、遺伝子劣化や〔 前述のような 〕生殖能力の低下をもたらしているというのだから、 「食」 のありかたは若者の生活全般のなかで枢要な位置づけをもっている重要な要素であろう。

 林 道義( 東京女子大学教授、心理学専攻 )は、最近母性・父性やフェミニズムの問題に積極的な発言をしているが、最近作のなかでとくに学生の姿を、こう描いている。

 30年あまり大学の教師をやってきて、このごろとくに強く感じるのは、学生のなかに冷たい無表情な顔、とげとげした怒ったような顔、反抗的で不機嫌な顔、淋しい顔が増えてきたということである。 とくに気味が悪いのは、ロウ人形のような無表情な顔が多くなっていること である。 かわって、明るい顔、穏やか満ち足りた顔、人なつっこい顔、温かい顔がすくなくなっている。

 表情というものは、長い人生の間に、その人が体験してきた感情生活の現われである。 感情生活が豊かで、しかもいつも洗練されたよい感情を抱いている人は、顔の表情が豊かで穏やかで、笑顔が基本になった表情になる。 人間、20歳くらいまでで、この表情のパターンができあがってしまう。 家族や他人とのあいだに、幼児のうちからとげとげしい関係をもっていたり、いつも不満をもっていたり、腹立たしい感情をもっていたりすると、よい感性やよい情操は育っていかない。

 日本の教育が受験偏重、偏差値偏重になっていることは、昔から指摘され批判されていながら、それが正されるどころか、このごろでは知育偏重が早期教育の名のもとに幼児までに拡大されている。 幼稚園児や小学生の大半が塾や習いごとのために相当な時間をとられている。 当然、親や周囲の人たちとのあいだに、よい感情のやりとりをする時間もなく、したがって感性や情操が育つ暇もなくなる。
( 林 道義 『母性の復権』 中央公論新社、1999年 )

 まったく林先生のいうとおりであり、同業者の私も同じことを強く感じる。 一昔、いや二昔まえころから 「明るい顔、穏やか満ち足りた顔、人なつっこい顔、温かい顔」 がすくなくなっている。 そのかわりに、すでにふれてきたような無反応で不気味な感性の持ち主の学生が増加してきた。 これはまちがいなく〈 なにかの危険信号 〉である。 あらためて、日本社会における人間生活の存在様式を、そのありかたの根源にまで立ちいってみなおす時期にきているようだ。

 布川清司 『日本民衆倫理思想史研究』 ( 明石書店、2000年5月 )は、第3編 「現代・近未来民衆倫理思想史」 において、大学における私語の問題を、日本社会じたいの倫理問題と関連づけて議論する。 残念ながらここでは本書の詳細を紹介できないが、核心となる論点は、森嶋通夫が〔 大胆に 〕予測しているごとく、あと数十年くらいで日本はコケル、つまり、ダメになってしまうのではいかという懸念・恐怖である。

 日本の多くの若者たちの生態を 「親抱えのエゴイスト」 と名づけたある論者は、森嶋通夫のその見解を、つぎのように説明する。

 「親孝行」 ということばすら忘れ、日本や世界の政治情勢に関心をもつこともなく、受験時代は自分1人の偏差値の向上に精を出し、大学入学以降は遊びほうける学生たち。 事いろいろあろうが、振るまいをみるかぎり、彼らは純然たるエゴイストである。 しかし、いかにもひ弱そうな顔つきはさておき、彼らのエゴイスティックな 「勉学」 の費用、教育費を誰が出しているかといえば、たいていは親と相場が決まっている。 つまり学生の大半は 「親のすねかじり」 なのである。

 さらに最近では、就職後も 「すねかじり」 がつづく。 住居費も食費もいれず親の家に居座りつづけ、掃除も洗濯の親に任せたまま仕事と遊びに 「励む」。 こんな生態が 「新しいライフ・スタイル」 の名のもとにまかりとおっている。 これは、 「親抱えのエゴイズム」 、 「神への畏れなき個人主義」 と 「家族の畏れなき家族主義」 が 「衝突」 ならぬ 「融合」 してできあがった独特のエゴイズムにほかならない。
( 佐藤 光 『21世紀に保守的であるということ』 ミネルヴァ書房、2000年 )

 まあせいぜい、パラサイト〔 寄生生活 〕をやっていればよいのである。 どんな長生きな親であってもいつかは、この世とおさらばする。 のこされた子どもたちの不憫のこと。 森嶋通夫の指摘のとおり、そういう子どもたちが多数派の日本社会であるかぎり、この国はいつか必らず〈 コケル 〉、そう、ダメになってしまうにちがいない。

 ここに引用するのにさいして、すこし気がめいってくる内容の記事がある。

大東文化大学文学部教育学科のゼミ生たちが、 「子どもデータバンク」 なる本をまとめた。

( A )イライラ、むしゃくしゃが 「よくある」 「時々ある」 小学6年生 ---> 80%
( B )テレクラなどに電話した経験がある女子中学生 ---> 17%
( C )この50年で伸びた14歳男子の身長 ---> 9センチ
( D )アレルギーと診断されたことがある小中高校男子 ---> 45%
( E )家族全員で朝食を食べる小学生5・6年生 ---> 13%
( F )鉛筆を正しくもてる小学6年生 ---> 5%
( G )15歳以下の子と親で接触時間が30分以下 ---> 40%
( H )1か月に1冊も本を読まない高校生 ---> 80%
( I )塾にかよう小学6年生 ---> 53%
( J ) 「学校が楽しい」 ( 「すこし楽しい」 は除く )という中学2年生 ---> 15%

( 『朝日新聞』 2000年1月17日朝刊)

 「友だちと遊ぶのは楽しいけれど、一番ホットするのは寝るとき …… 東京の小学生へのアンケートで、いまどきのこどもの姿が浮き彫りになった」
( 『朝日新聞』 2001年5月5日朝刊 )

 最近の大学生を食事風景でながめると、 ちゃんと 「箸」 をもてている 者は、3人に1人いるかどうかである。
 その道の専門家は、つぎのような指摘をしている。 筆者の観察を裏づけている。

 服部栄養専門学校の服部幸應校長は、
  「日本人の40%が正しくハシをもてなくなってしまいました。 高校生だと10人のうち3人しか〈 合格点 〉をやれない。 そもそも学校給食で、担当の先生までハシをつかえない人がいます」
( 『サンデー毎日』 2001年1月7-14日新年合併号 )

「若者の食事をみればその国の未来がわかる」
( フランスのことわざ )

 AJINOMOTO 社のコマーシャルが以前、 「日本はお箸の国」 なんていっていたがとんでもないまやかしである。 とくに、お箸の国は日本だけではない。 東南アジアのほうまで広がっているから 「日本がお箸の国」 というのは誤導的であって、 「日本もお箸の国」 なんですというのが正確だと思うが、いかがであろうか。

以上のデータから 「日本社会の重大な病理」 を感じとれる、といってもよいのでは?

 『日本経済新聞』 2002年6月8日に 「今どきの子ども-下手な箸使い-器用な日本人が消える」 というコラムが出ていた。 紹介しよう。

 会席料理を避ける人が増えている。 若い女性がそうである。 なかでも見合いの席では極端に嫌われる。 彼女たちはグルメで舌は肥えている。 本当は会席料理を口にしたいのである。

 なのになぜ会席料理を避けるのであろうか。 どうもそれは箸をうまくつかえないからでである。 下手なもちかたをしたところを、大事な見合いの席でみられるのを嫌がる。

 日本箸のおかげで日本人の手先は器用になった。 それが、ひいては時計やカメラに代表される精密機械工業の発展につながる。 いまや、手先の器用な日本人は消えようとしている。

 これに追い打ちをかけているのが家庭でのしつけの低下である。 箸のもちかたのしつけは短時間ではできない。 ところが、親たちは粘り強いしつけをしていない。 というより避けている。 手先の器用さの衰退は避けられないのだろうか。 箸の効用をみなおしたい。

各企業の人材採用方針

 最近 「経済同友会」 が調査した、とくに新入社員の採用にあってもっとも重視されるのは、面接の結果であり、これに筆記試験や専門分野などを加味している、ということである。
( 『日本経済新聞』 1999年12月27日 )

 すなわち、出身校を採用基準とする企業はほとんどなく、一部の有名校を優先する“学歴信仰”は、採用面では完全にくずれていることがしめされた。 性別や年齢によって門戸を閉ざす企業も減っている、ということである。

 バブル経済破綻後の日本産業は非常な苦境におちいっているから、実力をともなわない有名大学の卒業生よりも、会社の即戦力となりうる学生を求めていることが、より明確となった。 どの大学に進学したという事実よりも、実際になにを学び、なにができる人材であるのか問われる時代がはじまっている。

 新入社員の基本給、全員が30万円という会社が出てきた。 退職金を設定しないで、毎月の給料にその分を組みこみ、事前に従業員に払うという会社もある。 超一流ブランドと目される大学卒の社員でも、役に立たない人間はやめざるをえない雰囲気があり、きびしい採算状況に追いこまれている経済環境のもと、会社の目的に明確に貢献できない者は即刻退場をせまられるほかない。

 もっともサラリーマン諸氏がわの姿勢にも、大分様がわりが生じている。 1970年代、会社の倫理的不正をかばい 「わが社の命は永遠です」 との遺言をのこして自殺した幹部社員は、企業内に浸透する価値観にかなった行為の発露をした。 けれども、1990年代吹きすささんだ容赦ないリストラ〔 首切り 〕の嵐は、 「会社はクソ食らえ」 と思いつつ静かにさっさと退社していく人も増やしている。

 戦後日本における企業発展にきわめておおきな寄与をしたものと評価されている、日本的経営の 『三種の神器』 は、文字どおり、拝むだけの 「神器」 になり下がったようすである。 大企業に典型的であり、本社員を中心に保証されていた日本的な労務慣行制度: 「終身雇用制・年功制賃金体系・企業内労働組合」 はもはや、崩壊せざるをえない時代状況を迎えたのである。

 日本の大学を中心とした高等教育は、年功序列制・終身雇用制という日本的制度のみに適合する人材であった。 年功とともに地位が向上し、肩書が重くなるにつれ、それなりの能力を発揮する、そういう人材であった。 このように育まれた人材は独創性に欠ける。 個人より組織優先の社会だからである。 ベンチャー企業としての成功者に、いわゆる有名大学出身者をみかけないのはなぜか。 ベンチャー全盛のアメリカとのおおきな差がここにある。

 大学生の知的レベルの低下が指摘されている。 極端にいえば、大学入試の翌日から日本人の知的進歩がとどまってしまうのである。 なにを学んだかではなく、どこの大学の卒業生かだけが問題にされる時代はもう終わったのである。 欧米の大学と比較して感じるのは、日本の大学の社会における影響力のちいささである。
( 『日本経済新聞』 2000年1月10日 「社説」 より )

 日本の理科教育はよく 「知識偏重で、平均的なレベルに合わせている」 といわれる。 たしかにそうした面はあり、これが科学技術をおもしろくないものにしている理由のひとつだろう。 理科や数学の能力は中学生では世界最高水準にあるのに、科学技術の知識や関心は大人になると先進国中最低というギャップは、案外こうしたことから生まれるのかもしれない。
( 『日本経済新聞』 2000年1月15日 「サイエンス・アイ」 欄 )

 最近おこなわれた国際教育度到達評価学会〔 前段と同資料と思われる 〕が、世界41か国の子どもにテストをした。 その結果、日本の中学生は○×式で上位3位にはいった。 しかし、自分の考えを書く問題では37位だったという、有名な話が伝えられている。 そのテストから15年経った2010年、彼ら中学生も30歳。 日本の社会の中堅層となっているころだろう。
( 室伏哲郎 『ニッポンの未来』 宝島社、2000年 )


「社員の能力低下が今後もつづくと、業務に支障が出る ……」。

 日本経済新聞社が2000年12月から2001年1月に実施した有力企業の 「社長( 頭取 )百人アンケート」 ( 回答者116人 )で、経営首脳の半数がそのような懸念を抱いていることがわかったそうである。

 「引きこもり」 症状の長男に苦労している岩槻市のある父親は、その原因をこう推測している。

 学校での人間関係がきっかけのようだが、いまだに原因は分からない。 不登校・学級閉鎖・荒れる成人式など、根っこはみんな同じじゃないか。 ひととちがうことが認められない社会、ひとが多様に生きる受け皿がない社会の 「ツケ」 が、子どもたちにいまどっと回ってきているんだと思う。

 みんな心のなかでは 「いまの世の中、なにかおかしい」 と思っている。 こんなときにこそ、目先の改革ではなく、新しい社会のありかたをしめすのが政治家の役目じゃないか。 横並び教育をすすめてきて、突然独創力のある人材が必要だなんで都合がよすぎる。

( 『朝日新聞』 2001年7月26日朝刊 )

 筆者はとくに、企業社会における経営政策いかんが問題だと考える。 従来型の日本式経営はもはや通用しなくなっている。 年功序列〔 賃銀 〕制・終身雇用制・企業別組合は日本経営の三種の神器だと称賛されてきたが、その効用はとっくに喪失し、昔の物語になりつつある。

 日本の教育機関における受験競争体制は、日本の企業社会におけるそうした従来型価値観を基本におき、大前提にしてきたものである。 したがっていまでは、学校教育の理念・方法が根幹より問われている。 企業がわの、学校教育に対する期待表明のありかたそのものにも、重大な問題がある。

 18歳人口は確実に減少している。 大学はすでに狭き門どころか、近いうちには、志願者のこない〈 大学の門 〉すら登場しそうな雲行きである。 またすでに、一流大学に入学‐卒業して一流企業に入社・職社できても、その会社に一生勤められる保障のない時代である。

 よい学校でよい教育をうけ、よい成績をえれば、その後のよい会社でよい生活=暮らしが保障されるか? 大学・大学院まで進学する意味を、まともに考えているか?

 若者よ! これからの時代、どのように生きていけばよいのか、自分というものを真剣に考えねばならない。 これは当然、受験競争の場に自身を投入するか否かもふくめて、の話である。

 孫 正義( ソフト・バンク創業者、在日韓国人2世、今日日本における情報通信産業の風雲児 )に学べというのであろうが、ベンチャー起業家育成はビジネスなどせまい範囲にかぎるのではなく、初等・中等教育段階でほどこす必要があり、そのためには子供の〈 自立心 〉を養成すべきだという意見が提起されている。 つまり自立を貫徹し、周囲から信頼される人物が起業家の大前提だとされ、その教育は人格形成という幅広い視点でみなおすべき時がきている、といわれている。

 そうだとすると、日本の教育体制・体系においては革命的な変質が要求されているというほかない。 なぜなら、日本の教育目標はいままでその逆を向いていたからである。

 宇沢弘文 『社会的共通資本』 ( 岩波書店、2000年11月 )は、 「日本の世紀末」 と題して、こう記述している。
 陰惨ないじめに象徴される、心身ともに荒れきった子どもたち、荒れはてた教室と多数の子どもたちの不登校、子どもたちを巻きこんだ陰惨な犯罪の頻発をはじめとして、日本の学校教育がいかに異常なものになっているか現わす事件が、毎日のようにテレビや新聞紙上に報道されている。

 しかし、これらの事件は病める日本の学校教育の表層的な病理学的症状をしめすものにすぎない。 日本の学校教育を、その深層に立ちいって眺めるとき、もっと深刻な様相を呈している。 いくつもの臓器に転移した末期ガンの患者に似たものがある。

 非人間的、非倫理的な受験地獄を生みだしてきた現行の大学入学試験制度の矛盾が、このようなかたちになって現われている。 その根元には、学校教育を、社会的共通資本として社会にとってもっとも大切なものと考えないで、市場的基準を無批判的に適用して競争原理を導入したり、あるいは、国旗・国歌を法制化し、教育勅語の精神を復活させ、官僚的基準にしたがって学校教育を管理しようとする一部の政治家たちの考えかたが、このよような悲惨な現状を生みだしたといっても過言ではない。

 日本の学校教育の現場の荒廃は結局、教育制度という私たちにとってもっとも大事な社会的共通資本を、官僚的に管理したり、あるいは反社会的な考えかたにもとづいて粗末にとりあつかってきた結果としておきてきたものである。


 作家の宗田理( 73歳 )は、 「つけは子どもに回る」 という投稿のなかで、こうとなえる。
豊かになった代償、かな。 むしろ、少子化のなかで子どもをどう育てていくかのほうが大事だ。

こどもの周りには大人ばかりがいて、子どもたち同士の世界がつくられなくなっている。 仲間とともに大冒険をする作品を書いても、昔とちがって 「おもしろいけど、自分たちができるとは思わない」 という、冷めた反応がかえってくるようになった。

リーダーシップをとる子がいない。 おたがいに深くつきあおうとしない。 子どもたちは 「友情」 や 「正義」 「思いやり」 といった原則が、大人たちのつくる世界では崩れてきていることをしっている。 だから、学校で 「正しくあれ」 と教えても、もう説得力がない。

だが、 「大人ができないから、子どもができないのは当然」 というのはちがうと思う。 未来は子どもたちのものだ。 つけは子どもたち自身に回ってくる。

「大人がそうであれ、自分たちが社会をかえていくんだ」 とい思うような子どもをどう育てていくか。 それこそいま、大人が考えなくてはならないことだ。
( 『朝日新聞』 2001年7月27日朝刊 )

 先進国中、日本の中高生はもっとも本を読まない。 読書離れである。 理科離れは科学技術立国を危うくし、ひいては経済を衰退させる。 読書離れは重大である。 それは、人々の情緒力低下を招く。 すなわち、数ある論理のなかからもっとも本質的なものを選びだしたり、価値判断をくわえたりする能力を衰退させる。 これは国民の方向感覚をうしなわせ、ひいては国家を滅ぼすことになるからである。
( 『朝日新聞』 2002年6月15日朝刊 「私の視 )