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現代大学教育論

~ある大学教員の活動報告~




私語の問題

◆私語問題[ その1 ]

 私は、今日日本の大学教育において重大な支障要因となっている、授業での 「私語」 のない講義をめざしております。 大学の教室内において、私語が盛んになされているというような現象自体きわめて異常な事態であると、深刻にうけとめなければならないにもかかわらず、現在の大学においては、この 「私語」 現象はごくごく通常の光景:出来事になっているようです。 この現象には各教員がそうとう苦労させられ、たいへんな苦痛を感じているはずである。

 とくに、大学における私語の問題を研究し、これを本にまとめ刊行している社会学の教員もいるくらいです。 私は、私語のない授業の進行を実際に実施しております。 あたりまえのことがあたりまえになされる、まともな大学を創りたいものである。

 私の所属している大学内で発行されているミニコミ紙は、その 「私語」 の源であり、さらにこの 「私語」 を再生産する原動力となっている、それはそれはにぎやかな教室の様子を、つぎのように描いている。

 「大教室での講義の多くのばあい、とくに後部座席では、漫画・雑誌読み、携帯電話、私語、徘徊、着帽、およそ講義には似つかわしくない光景がみられる。 これでは、本当の意味で教育にはならない。 これを放置することは、学生の自主性の名によって、教員みずからの怠慢を隠蔽すること以外のなにものでもなかろう。 この問題について教員集団が真剣にとりくめば、必ず解決の糸口をみつけることが可能だ。 すでにいくつかの実践例も存在する」
( 大阪産業大学、岩本 勲 編集責任 『言いたい放題』 第14号、1999年11月29日より )。

 小林ただし 『日本人を叱る』 ( 勉誠出版、平成14年 )も前段とまったく同じに、大学の惨状を指摘している。 本書のくわしい紹介はできないが、いくつか短い文章で引用する。

 第2次大戦後の日本は、…… さまざまなきしみ、ほころびがみえてきた。 その最大のものは、人間精神のほころびである。

 人間の精神は退歩の一途をたどりつつある。 いったい教育というのをやる効果があるのかどうか疑問に思えてくる。 要するに、学生に勉学に対する意欲というものが急速に落ちてしまったのである。 その理由はさまざまだが、根本は善悪の基準がなくなり、それを、家庭も学校も、社会も教えない。 なにをやってもいい、けっして叱られない、叱る者がいない、歯止めがない。 実はこの歯止めがないというのが重要である。

 罪となにかかも、実は彼らにはまったくわかっていない。 社会にルールがない、土俵がない。

 大学は私語の嵐である。 この私語たるや、授業を完全にマヒさせる力をもっている。 いま、小学校の教室は崩壊している。 恐ろしいのは、これが中学、高校、そして大学へ拡大してきたとき、大学はどんな姿になるのであろうか。

 日本国という巨大な涅槃像ねはんぞうは、頭のこめかみのあたりから溶けはじめた。

◆私語問題[ その2 ]

 最近公刊されたある経営学の入門書は、文系学部授業における私語の問題をめぐって、こう述べています。 「授業中の騒然たる私語、一夜づけの勉強で書き上げた、かろうじて単位を与えられるかどうかという出来の悪い答案の山、反比例して活発なスポーツや音楽どのサークル活動 ……」。 その 「理由はいろいろあります。 ひとつは制度が悪いのです。 大教室に学生を集め、教師が一方的にノートの文章をマイクでがなり立てる授業が面白いわけがない」。

教師も悪い ‥‥‥多くの教師が教育には10%以下のエネルギーしか消費していないのはないか。
会社も悪い ‥‥‥教育は会社がやる。 大学で変な思想や知識を身につけた学生は、あとで始末しにくい。
学生も悪い ‥‥‥出席をとらないと宣告しているのだから、つまらなかったら来なくていいはずの授業に出席して私語する学生たち。 いくらどなってもキョトンとしている。 探りをいれてみると、彼らにとって教室は学生ホールなのである。

◆私語問題への対応

 そこで、あたりまえのことをあたりまえに実行すると、いまの学生気質にはきわめて評判を悪くするようですが、なによりも学生の教育を第1に配慮し、また学生の人格を尊重しようとするのであれば、冒頭に断わった方針を実施することは、しごく当然のことがらだと思っ ております。

◆学生の本業を忘れた学生

 最近の学生は、バイトやサークル活動の経験を 「重視して」 と訴えているが、企業がわの関心はきわめて低い。 企業が求める専門性や語学力、パソコン経験などの実務能力については学生は自信がない。 かつての人生経験重視路線は不況風に吹き飛ばされ、就職難も深刻化している。
 バイトに熱心なあまり、肝心の学業をおろそかにし、授業は出ない・ゼミに遅刻するなど日常茶飯事である。 「学生の本分」 などどこかにすっ飛んでいってしまった 学生が大勢いる。 これでは就職もままならないはずである。 いまこそ学生としての本当の実力を付けるほかない時節になっているようだ。

◆騒然・狂乱の空間となった教室

「幼稚な高校4年生? 迷惑行為なぜ悪い」

 静まりかえった大教室に女子学生の話し声が響く。 周囲の迷惑顔もどこ吹く風。 教壇からとがめると一瞬やめるものの、しばらくするとまた話し始める……。 講義中の私語自体は昔からあった光景だ。 しかし、注意しても 『なぜ悪いの』 とぽかんとしている学生が少なくない。 非常なまでに自己中心的になっている。

 必修授業で数百人の授業はまるで 「蜂の巣をつついた」 ような陽気な、乱痴気騒ぎである 。

 毎年、私は、このウルサイ騒音を発生する集団に静かにしてもらい( 正確には 「静かにさせて」 )、授業を運営している。 そのくせ、ゼミナールでなにか発言してもらう段になると、こんどは通夜の静けさ! 

法政大学・慶応義塾大学に勤め、地方の私大でも講義の経験をもつ森川英正氏は、それまで体験した大学教室内の惨状を、こう描写している。
( 宇田川勝・橘川武郎・新宅純二郎編 『日本の企業間競争』 有斐閣、2000年10月、第11章 森川英正 「大学」 、257頁 )。

 「騒然たる私語の大教室授業と同じようにシラケタ沈黙に終始する学部演習・大学院の小教室授業。 大教室では私語だけではあき足らず、歌まで唄う学生さえいるのだ。 韓国その他アジアの留学生たちが、授業後に質問にやってきた。 私が大声で学生をどなりつづけるをみて興味を覚えたのであろう」。
 「どうして日本の大学生はこんなに勉強しないのですか?」
 「日本の国はどうなるのですか?」

1997年度まで名古屋大学経済学部教員だった飯田経夫先生は、その後中部大学経営情報学部の教授になったが、こちらの大学における講義体験をつぎのように記述していた。

 「日本の頽廃的な状況をどうあらためていくかとなると、私はかなり悲観的である。 というのも、私はいまの大学生をみていて、そう感じるからである。 現在の大学の状況は、それはひどくなっていて、第1に授業がなりたたない。 私語が多く、いくら叱っても静かにならないばかりか、講義中にも学生が出たり入ったりする。 そればかりか、自動販売機で買ってきたコーラやハンバーガーを飲み食いしながら、授業中に平気で携帯電話をする」
( 飯田経夫 『人間にとって経済とは何か』 PHP研究所、2002年、28-29頁 )。

 飯田経夫先生は、 「10年前の大学には、こんなことはなかった。 たまたま、かのバブルとほぼ時を同じくして、日本の教育現場に決定的な変化が起こったとかいいようがない。 おらくそれは、未来の日本の死命を制するにちがいない」 ( 同書、80頁 )とも記述している。

 だが、この記述のうち前半の認識: 「10年前の大学には……」 という部分は、10年遅れものである。 ただし、後半の 「日本の死命」 というくだりは、全面的に賛同できる。 いま( 2002年 )から10年前の飯田先生は、定年を迎える年齢の名大教授であった。

 指摘されているごとき日本社会=日本の大学における問題は、10年前というよりはもっと早く20年ほど前から徐々に、2・3流私立大学から1流国立大学に浸透してきていたものである。 その時間上において生じた落差〔私立大学→国立大学〕を逆にたどるかのように職場を移動した飯田先生は、日本の大学における授業実態の把握・認識において、若干の期間( 10年間くらい )をスキップしており、その間に関してはギャップ:空白を抱えこんでいるかのように観察する。

 2002年7月24日に掲載された新聞コラム 「ニッポンの学力 ④ 転機の教育」 は、こう説明している。 「講義のわからぬ大学生」 「頭脳劣化の日本人」。 各地の大学で、数学力の低下がささかれるようになったのは20年もまえだ。 こうした実態は大学外ではほとんどかえりみられなかった。
( 『朝日新聞』 2002年7月24日朝刊 )

 数学力の低下と大学授業の現場における惨状とのあいだには、高度に有意な相関関係をみてとるべきである。
 2002年2月、アメリカの大学生活を体験した〈 田端有味:会社員34歳 〉は、こういう主張を新聞に投書した。
 ( 『朝日新聞』 2002年1月14日朝刊 「声」 欄 )
( 1 )授業時に眠りたい学生は即刻退出する。 → これはアメリカの大学ではマナー
( 2 )たとえ、教授が少々むずかしい講義をしても、眠らずしっかりノートをとり、わからなかったら、質問する
( 3 )大学がわも、託児所まがいのような雰囲気をつくらない体制をととのえなければならない。 先生は、講義の場が睡眠の場所にならないように、やる気のない学生はどんどん追い出すという気持で授業をすべきである
 残念ながら 「日本の大学」 における現状では、上記のように授業の運営をおこなおうとしても、まったく不可能である。 各項目に簡単な評言をくわえておく。
( 1 )授業時に 「私語」 されるよりは 「おネンネ」 されたほうが、まだまし。 日本の大学にマナーと称せるような授業に関する礼儀作法は皆無
( 2 )ノートをとり質問をする能力がない。 そもそも授業なんか聞いていない。 私語する、ケータイする、寝てる、内職している、結局、上の空。 なんたって、集中力などなし
( 3 )いまの大学は託児所である。 「やる気のある」 学生は、ごくごく少数。 やる気のない 「学生」 を全員追い出したら、教室内は閑散となる。 だが、数人はやる気のあるまじめな学生がいるから、この人たちが授業の相手
 現在の日本における大学の教育実態=〈 惨状 〉は、森川英正先生の説明するごとく、教員が 「大声で学生をどなりつづける」 現象に鮮明である。

 先日、韓国の大学に出張してきたある同僚の先生は、隣国大学生のまじめさに感嘆していたようである。 しかし、日本以外の諸国における大学生は皆、真剣になって授業や演習にとりくんでいる。 こんなに《 フザケタ実情にある 》のは、実は日本だけ なのである。

 もっとも、アメリカのカレッジにおける学生の生態もそうとう悪い。 → ピーター・サックス著 『恐るべきお子さま大学生たち 崩壊するアメリカの大学』 ( 草思社、2000年 )は、その惨状を教員がわから描いている。
学生の 「図々しい態度」 「無関心」 「あからさまな退屈の態度」 「途中入退室、居眠り、当たりまえの私語、課題拒否」 「悪い成績の責任を教師に押しつける」 などを指摘している。

 以上は、日本の大学にいる教員としてすでに十二分に味わっていることなので、とくべつ驚くほどの内容ではない。

 若者の未来は、その国の未来である。
 21世紀における日本の未来は、若者たちの双肩にかかっている。
 曰く、 「勉強がおもしろくない」 って?
 それじゃ 「勉強がおもしろくない」 ッつゥことがわかるほど、勉強したことがあるの? 

 これは素朴な疑問である。

◆大学生は小学生か

朝日新聞社が発行する雑誌 『AERA』 は、 「大学生は小学生か」 という記事を巻頭に掲載していた。 その骨子を紹介する。
駒澤大学 … 近隣住宅街に迷惑なため、通学路を指定、その強制的誘導の措置
東洋大学 … 交通法規を守る指導。 「歩道を歩いて」 「信号を守って」
亜細亜大学 … 交通信号機のルールを説明。 「赤は危険・青は安全でない」
上智・成蹊・専修・早稲田大学 … 授業中の私語、メール私語
日本女子大学 … 授業中に携帯電話で花札に興じる
明治・東京経済大学 … 授業参観日の設定
京都大学 … 家庭訪問を実施
神戸女学院大学 … 授業を聞くという態度を教える
( AERA 2002年12月23日号より )

 まったく馬鹿らしく、アホらしくて、コメントする気にもなれないが、以上の諸現象は、現状における日本の大学生の生態を正直に現わすものである。 本当のところは 「小学生」 以下とみなすべき実態 なのである

◆大学はリシャッフル〔出直すことが〕できるか

 名古屋市立大学経済学部の西田耕三先生は、学生にアンケート調査をし、学生は今、何を考えているかを調べた。 とくに大学における授業に対して、学生がどう感じているかを聞いた。
( 西田耕三 『大学をリシャフルする-活性化への組織・行動改革-』 近未来社、 2000年参照 )
学生が先生にどんな講義をしてほしいか( その1 )
---> 「わかりやすい講義をする努力をみせてほしい」
---> 「淡々と講義をするのではなく、先生方のやる気をみせてほしい」
---> 「よい講義ができるように精一杯がんばってほしい」
---> 「実際の生活にかかわるような身近な事例などをあげて説明してほしい」
---> 「理論がどう活用されるのか、理論と現実の差がどうなのか、実例を挙げて説明してほしい」
学生が先生にどんな講義をしてほしいか( その2 )
---> 「講義中の私語や、携帯の着信音をやめさせてほしい」
---> 「講義のじゃまになる学生はそとに出してほしい」
 以上、名古屋市立大学経済学部で経営学を学ぶ学生の授業に対する要望を聞いて、 不思議に思った点がある。 学生の態度が問題である。 上記の要望に特徴的なことはすべて、 「××してほしい」 というものである。 それでは、学生側でどうするかという態度がみられない。 どういうことかというと、学生側で上記のような問題に対して、自分たちで解決をするための積極的な姿勢が、少しもみられない ことである。

 「講義のじゃまになる学生は外に出してほしい」 というが、そういう学生を自分たちで排除できないのである。 「××してもらう」 という姿勢ばかり目立ち、自分たちも授業に参加する者として、それをどう盛りあげるかという問題意識がゼロである。 学の授業が劇場だとすれば、学生もその演技者である。 学生は単なる観客ではない。 この事実に学生たちが気づいていない。 これがいちばんの問題である。

 教員側の教授法も問題であるが、 学生の学ぶ姿勢、ともに大学を構成しているメンバーだという意識が希薄なのである。 教員のおこなう授業・演習は、学生側の対応・努力しだいによって、いくらでも変わりうることを、もっとまともに認識してほしいのである。

◆最近の新聞記事に興味ある指摘が出ていたので、4件を紹介しよう。

( 1 ) 「言語能力」 というもの
 人間のもっとも重要な能力がこの言語能力である。 私たちは言語によって思考し、意思の伝達をする。 言語で論理を組み立て、文章を書く。 その言語は〈私たち〉にとっては日本語である。 だから日本語の能力がしっかりしていないと、私たちは日本〔に住む〕人としての確固たる自己確認( アイデンティティー )をもつことはできない。

( 『朝日新聞』 1999年6月10日 「論壇」 より )
1995年度から本学で働いているが、ゼミの学生諸  氏からまともにアイサツをうけたことがない。 だから私は冗談でこういっている。 「犬やや猫でも知りあい」 で 「顔見知り」 ならば、 「ニャンとか」 、 「one!とか」 一言応えてくれるよ、と。 こんな初歩的の人間関係さえ成立しないのだから、考えようによってはこりゃ、末恐ろしい現象かもしれない。

 最近( 2000年3月下旬 )に読んだ本から、つぎの箇所を引用しておく。 この内容は、現今の日本における教育問題そのものである、と読み替えてもいいものである。
 ここの教育は、その本質において犬や猫を仕込むのと何ら変わりないものであったと、極言することが出来ましょう。 いくら教育しても、自ら物を考え、自ら判断し、自ら実践にうつる力が養われていない。 そういう生活の規準が全然彼らには与えられていない。 彼らの風のまにまに動く思想的浮き草といったすがたのものだったのです。 一切の精神教育と歴史教育とを奪いとったオランダの教育政策は、我々は実に大きな消極的教訓を与えている。

 さればといって、インドネシア人をつまらぬ奴らと判断してしまうのは早計なんです。オランダの文盲政策、愚民政策になって、いやしくも政治に関連するような能力面は徹底的に抑圧され、根こそぎ打ちのめされてしまっているのですが、従って気概、気骨、勇気、開拓、創造工夫といった能力はほとんど見るべきものがないといった状態ですが、そういう方面に関係のない能力は、ゆたかな個性をもって、脈々とその伝統を維持しながら、彼ら独自の領域を展開していることを我々は見逃してはなりません。

( 鈴木政平 『日本占領下バリ島からの報告-東南アジアでの教育政策-』 草思社、66-67頁、71頁 )
 この引用中、インドネシア人とはいうまでもなく日本人と読み替えられ、また 「オランダ」 が日本の〈なに〉に相当するかは自明のことなので、ここではあえていわないことにする。 後段の文章は、現在日本の若者像を示唆しているようにも読める。

( 2 ) 「大学と人間性」 問題
 大学で人格的な向上を期待することは無理である。 大学教官が人格的に優れているわけではないからである。 この点については大学よりも家族の役割が重要である。 仮りに間借りの下宿に入れば、毎朝下宿のおばさんにアイサツをしなければならない。 銭湯にいけば、様々な世界の人たちといっしょになる。 そんな環境にいるだけでも、若者は人間関係について大いに学べるはずである。

( 『日本経済新聞』 1995年6月20日朝刊、 「教育」 欄 「学力低下…大学生の“質”どう高める」 より )
 国語力の差は、ごく幼い時期からはじまっていて、それが他の教科・生きかた・考えかたにも、おおきな影響をおよぼしている。 家庭内で会話が豊かならば自然に身につくはずの言葉を知らない子が多いのである。 これでは他人の話が理解できなくなる。

( 『朝日新聞』 1999年6月23日 「声」 欄より )
 この指摘は図星であろう。 昨今の大学生は、日本に暮らす人間として最低限必要と思われる言語能力を、20年近くも過ごしてきた人生のなかで十分に習得してきたとはいえないのである。 日本語の 「読み・書き・話し・聞く」 という能力すべてが、恐ろしいほど貧困・低調なのである。 したがって本ゼミにおける勉強・学習も、その言語能力の基礎水準をすこしでも引き上げようとする地点から、開始することになるわけである。

( 3 )最近における小・中学校の教育現場では 「学級崩壊」 が話題である

 その原因のもっとも重要なのが 「家庭におけるしつけ」 である。 なにが不足か。 答えは 「ガマンさせていない」 、 「手伝いをさせていない」 、 「ケンカのしかたを教えていない」 、 「親自身に善悪の基準がない」 。 だから教員の権威は消えており、 「静かにに話を聞け」 「順番に整列しなさい」 といった指導は、空まわりするばかりである。 いま、教育現場で教員たちがいちばん切実に望んでいるのは 「先生のいうことをちゃんと聞きなさい」 という《 しつけ 》だという。

 これが大学の実態ではないか、と思うのは私だけではあるまい。 おおかたの大学教員が実際に接している大学生の姿でもあるから ……。 大学生ももとは中学生・小学生であった。 すでに問題は持ち上がって大学にまで到達している。 まともに 「静かに話を聞けない」 などという現象は、大学でもありふれた、ごく普通のことである。 ミステリアス (!?) でもなんでもない。

 最近、立命館大学出身で東京都立高校を勤めている先生が、 「高校崩壊」 に関する現場からの実態報告をしている。 したがって、( 3 )でふれた現象はすでに、小・中・高、そして大学校に共通するものとなっている。

( 4 ) 「日本の若者未来に無関心-日米韓の中高生比較-」
 「嫌なことでも我慢して頑張るという規範は動揺し、弛緩し、崩壊してしまったのだ。 現状満足は、未来に希望を抱かないで、未来に無関心にもなる。 向上心もなくなってしまう。 無気力・無関心・無責任の三無主義におちいる。 彼らにとって〈いま〉こそが大切であって、21世紀は関心の外にある。 だから、21世紀は〈希望〉があると思う者は少数派である。 〈平和〉〈豊かさ〉〈信頼〉〈科学〉についても期待をしめしていない」

 「日本の若者は、米国・中国・韓国とくらべて、いかにも若さがない。 チャレンジ精神がとても低いのである。 日本の現状は必ずしも満足すべきものではない。 そういう社会に日本の若者は異議を申し出ない。 ただ、規制のないバブルのなかを漂っているだけにみえる。 これは異常な事態だと認識すべきだろう」

( 『日本経済新聞』 1999年7月11日朝刊、 「教育」 欄より )
 この記事に引用者は全面的に賛同せざるをえない。 そのとおりである。 ここには現代日本の若者の姿が、まちがいなく描かれている。 引用者の印象では、10年くらいまえより、こうした若者像をはっきり感じとってきている。 それもだんだんひどくなっている。

 筑波大学教授進藤榮一教授は、日本の未来をこう嘆じている。
 戦後日本の衰退、私はこのあいだも韓国にいってまいりましたけれども、韓国の若者たちの熱気と市民の活力とに圧倒されました。 私は大学で教えておりますけれども、いまの日本の若者たちはひ弱になっている。 ほとんどの大学に共通している。 教室崩壊は、今日、中学校から小学校にまでおよんでいる。
 21世紀の明るい日本の未来はなかなかみえてこない。 いや学力の低下は、学生ばかりでなく、先生についてすら問題になっている。 そのため21世紀日本の未来に、暗い見とり図しか描きにくい。 いったいどうしたらいいのか。

( 進藤榮一 『分割された領土-もうひとつの戦後史-』 岩波書店、2002年、209-1210頁 )

《 蛇 足 》

単位取得 「不可」 に対する学生などの反応、その数例を紹介する。

( 1 )親が怒鳴りこんでくる
---> 学生本人の授業態度が非常に悪いことに親は無知。
( 2 )先生に脅迫状を送りつけてくる
---> 事実無根をネタに下手な、誤字・脱字、ワープロ変換ミスがいっぱいの、文章を作成してくる。
( 3 )教員にストーカー行為で暴圧的にアクセスし、いやがらせをする( 本人にはその加害の意識がない )
---> こういう学生にかぎって、かぎりなく0点に近い答案しか書けていない。
( 4 )アルバイトのやりすぎでゼミ授業のときとっても眠たい
---> 事情を聞いたら、夜:午後10時から朝:午前7時までの勤務だという。 教員の目に映る彼の姿は、ほとんど寝ているようにみえる授業態度であった。 もちろんというか欠席・遅刻も多かった。 これでは単位のほうは当然パーフェクトにアウト!