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はじめに

 大学を検証していくにあたって、大学の生い立ちについて少し触れておこう。 さかのぼれば大学が誕生したのは、明治維新後の新政府が文部省を明治四年に設置し、大学創設計画を立て、明治五年にわが国初めての近代学校制度を定めた 「学制」 を発布してからのことであった。 この学制の基で教育機関の整備、充実が図られはじめ、明治十年に東京大学が成立し、明治十九年に 「帝国大学令」 が制定されて、帝国大学が誕生した。 政府はこの帝国大学を国家のための学術および指導者養成の総合的な機関として位置付け、発展させてきた事は現在までの東京大学を見ても一目瞭然であろう。 だが、明治時代末には東京帝大を筆頭に京都帝大、東北帝大、九州帝大を加えての4つの大学と、大学と称する私立の専門学校、その他の官公私立の専門学校が存在したに過ぎなかった。 当時の日本は重工業が発達し、海外市場も拡大、政府も工業主義へと転換を図った時期であり、時代は日本資本主義の新たなる展開を担うための経営、技術、法、文化教育関係者の供給が広く求められ、高等教育の拡張と改革が急務となってきたのであった。 そうした中で私学側の官・私立大学間にある絵師度的差別の撤廃要求が高まり、大正七年、それらに応じる形で 「大学令」 が交付され、日本に法制上、正規の私立大学が生まれることとなった。 この大学令により慶応義塾、早稲田、明治、法政、中央、日本、國學院、同志社の8 大学を筆頭として、ここから私立大学は大学大衆化へと進んでいくこととなったのである。 そして現在に至るまで、大学は一般市民にとってとても身近な存在となり、日本の高等教育をささえてきた。 しかし、その大学が今までにないような危険な状態に陥っているとマスコミなどによく報じられるようになった。 時代が移り変わり行く中で、学歴社会、偏差値教育が懸念されるようになり、大学は今、その存在意義、新たな可能性を問われるようになったのだ。 自らが四年間通った大学、考えてみればよくわかっていない部分は多々ある。 そうした疑問からも、現在の大学を様々な視点から検証し、今後の大学の姿がどうあるべきなのかを探ってみたい。


第1 章 大学の現状


大学の現状

 では、その歴史ある大学の近年の動向を見てみよう。 過去20 数年間の大学入試を振り返ってみると、28 年前の1970 年度は、18 歳人口約195万人に対して、大学・短大志願者数は約68万人、入学者数は約46万人で、18歳人口に対する志願率は35%、進学率は24%だった。 その率は年々上昇を続け、97年度は志願率62%、進学率47%となっている。 同年齢の若者の半数近くが大学・短大に入学する時代になったのである。 大学、短大志願者がピークを迎えたのは1992年の入試であった。 現役92.1万人( 高卒の51% )と浪人29.4万人の計121.5万人が大学を目指した。 そのうちの79.6万人が入学し、入学率は64.5%であった。 1986年から92年までの7年間は、大学、とりわけ私立大学にとってはまさにバブル全盛期であった。 がしかし、それと同時に大学の将来が危ぶまれるようになったのもこの時期からであった。 なぜならこの92年の18歳人口205万人を最後に、後は減少の道を辿るのみであったからである。 大学審議会の試算によると、2009年度には入学者数と志望者数が同数になる 「大学全入時代」 を迎えるという。 18歳人口に対する志願率・進学率をみると、80年度はそれぞれ52.6%・37.4%、90年度は57.9%・36.3%、97年度62.3%・47.2%。 その差が不合格者の割合となり、志願者数に対する入学者数の割合( 入学率 )は、70年度68%、80年度71%、90年度63%、97年度76%。 さらに、大学審議会の試算によると、2009年度には志願率は58.8%となり、全員が入学できるので入学率はついに100%となる。 18歳人口200万人時代から、2009年には確実に 「120万人時代」 が訪れると言って良いだろう。 120万人時代では大学全入=定員10%割れと計算され、100万時代は定員20%割れが構造的に定着する時代であると予想される。 その間にも大学の倒産はもちろん継続的に起こり、そして大学逆指名時代に突入すると考えられる。 ところが、それでも旧帝大系の国立大学や一部の有名私立大学の入学者数は今までと変らずまったく落ち込むけはいがない。 時代は変われど高学歴志向はいつの時代にも定着する。 つまり、これは二極化の時代に突入したと言っても決して大げさではないのだ。 東大や京大などごく一握りの一流国立大や超有名私立大学は少数激戦で、受験競争の勝者が入学してくる。 こうした現象はすでに2001年度の入試にも表れている。 今年の入試では、私立大学への志願者が9年ぶりに前年比プラスへと転じた。 だが、ふえているのは偏差値がもっとも高いクラスから中程までだけであった。 この二極化がもたらすであろう最大の問題はその他大勢とされる私立大学が次々と倒産していく状況を生み出すことであろう。 上記でも述べたように大学全入時代はもう目の前にある。 だが、入学率100%などというのは現実的には有り得ない。 大学に入りやすくなった分、世間的に有名とされる大学へ進もうとする傾向はおさまらないだろう。 そうなると、世に言う人気のない大学・短大の定員割れが続出する。 いまでも短期大学は3割ほどの定員割れという報道もあり、今後大学にとって深刻な問題になることは間違いないだろう。


短期大学の終焉

 今、短大の募集を停止して、新しい大学や併設の大学の新設学部に改組・転換するケースが増えているのが現状である。 短大の校数は1996年の598校をピークに減少に転じ、2000年には572校に減っている。 今後、さらに減少していくことは間違いないと考えてよい。 では、短大とはそもそもどういった役割を持った教育機関であったのだろうか。 もともと短大の制度とは、戦後の学制改革で旧制専門学校から四年制に移行するに当たり、教学条件が未整備であったために、その調整を行うために設けられた暫定的な制度であったのだが、女子の高等教育が四年制になじまないことから、各地で教養と職業( 商業 )の女子高等教育機関として教養教育の女子短大と商業科の短大が設置されたという生い立ちなのである。 現代においてこんな男女差別がはっきりした教育機関が存在していること事態珍しいかもしれない。 このような理由で設置された教育機関が、現代に通用するかどうかは目に見えているのではないだろうか。 そしてさらに深刻なことは、上記に述べたことから生じるであろう、避けられぬ学生の学力低下の問題である。 二極化が進むなかで、人気のある大学に入学するためにはやはり、それなりに緩やかな競争は保たれていくだろう。 だが、 「200万人時代」 に比べれば学生集団の学力・素質はかなり低下すると見てもなんらおかしくはない。 だが、こうした現状を一番実感している受験生達の受験に対する姿勢も変わってきていることに注目しなければならない。 このような時代へ移行していく中で、現在極めて選抜的な大学以外は志願者が大学を選ぶ時代が来るだろう。 したがって今までの偏差値競争から抜け出し、大学の中身や特徴によって入学を希望する学生も増えているのだ。 こうした時代の変化に対応していけるかどうかという点でも、大学が生き残っていくための重要なポイントだろう。 また、学生集団の質の維持という点では、定員を思い切って現在の半分にするといったような大幅な定員削減も必要なことだろう。 とくに理系においては、学生の質の維持はとても重要な課題である。


第2章 私立大学


私立大学の現状

 日本の私立大学は近年まで、中でも首都圏、京阪神の有名私大の受験、マスコミの過大評価などにより急膨張してきた。 80 年代~90年初頭には、好景気と第二次ベビーブームとが重なり、大学の 「ダブルバブル」 と呼ばれるほどであった。 さらには文部省からだされた臨時定員である。 これはそもそも教室の数、収容力などの施設面での受け入れ態勢があるかどうかのみを割り振りの条件とし、教員数を増やす事などは条件外であった。 そのため定員増加に伴う新たな人件費支出は必要なかったことなどにより、臨定分の学費はすべて超過収入へと化けた。 そうしてこの十数年は多くの私大が潤う結果となり、私立大学金持ち時代が続いてきたのである。 そうしたぬるま湯状態から、後先考えず借金をしてまでの過剰な設備投資を行ったツケが今、降りかかってきている。 それは、倒産の危機を背負った大学を加速させ、五年後にはさらなる深刻化が進むと見られている。 そしてついには、上記でもさんざん述べたように受験者を全員入学させる 「全入」 が続々とあらわれるであろう。 また、それに拍車をかけるのが不況の影響であり、自宅から通える地方の国立大学や、実社会で役立つ技術を取得できる専門学校の人気がでてきたことも、私大の人気低下の要因であると考えられる。 駅弁大学と言う言葉が生まれてしまうほど、戦後、日本の私立大学は多くなりすぎた。 それには大学教員にもその一因があり、東京や京都の有名一流私大の誘いに乗って地方の国立大から上京した人は多い。 それは、助教授から教授クラスなら月給は10万以上上がり、マンモス私大なら本( テキスト用 )を出すのも容易になると計算されたからだという傾向もある。 日本のような私立の乱立さは世界でもまれであり、アメリカも私立大学が乱立しているが、そのアメリカでもイェ-ル大やハーバード大などの一部の超一流私大を除いては、州立大学が中核に坐っている。 イギリスやドイツも似たような環境である。
 今日、多くの私立大学の収入構成は、学費収入80%、私学助成金12%、受験料・手数料5%、資産運用益( 主に預貯金利子、国債利子 )2%、寄付その他収入1%と言ったところが平均である。 負債は土地、建物の取得にかかわる借入金で、昭和60年代以降の新設大学は負債ゼロと見るのが常識である。 私立大学を運営する学校法人会計には、やはり営利を目的とする企業の会計基準とは異なるいくつかの特徴がある。 そもそも利益を追求していないことから、企業の営業利益・純利益のような概念が明確に表れないところが根本的に異なる。 よって、年間収入とされる帰属収入から、人件費や管理経費、教育研究経費、借入金利息などの合計である消費支出を差し引いた金額が、経常利益に相当すると考えられる。 そして基本金制度というものがある。 これは第1 号( その年の固定資産取得に充てる )・第2 号( 将来の固定資産取得に充てる )・第3 号( 奨学、研究基金などに充てる )・第4 号( 学校法人の運転資金 )の四つから成るものだが、これは学校法人自身が計画などによって基本金組み入れをコントロールできるところに特徴がある。 学校法人の損益計算書に当たるとされる消費収支計算書には、消費収支差額が赤字か黒字であるかが記されているが、これは基本金組み入れを操作することによって赤字にも黒字にもできるというものである。 つまり、消費支出差額は単年度においてはあまり意味をもたないものとなるが、何年も消費収支差額の赤字が続くと、貸借対照表上の累積消費収支差額( 翌年度繰越消費支出超過額 )の赤字が拡大してしまうこととなる。 この赤字を多く抱えてしまうと、例えば第3 号基本金の拡充が滞りがちになるといったたぐいの影響がでてしまう。
このように大学の財務は一筋縄ではいかない部分が多々ある。 それに加え、これは国立にもいえることだが財務諸表が公開されていないことが一番の問題点である。 特に国公立に関しては巨額の税金を投じているのだから、公表する義務がある。


私大経営破綻のプロセス

学生数の減少や人件費の増大による収支悪化 → 預金など金融資産の枯渇 → 借金・負債の増大 → 資金操りの破綻 とういうシナリオが予想される。 私大の負債比率は問題ではなく、破綻銀行のような債務超過は私大ではまず考えられない。 それどころか、破綻処理をすれば莫大な剰余資産がでてくる。 私大の倒産は金融資産枯渇から始まるのだ。 企業になぞらえると、大学という名の教育企業は、たとえ無借金で広い敷地と建物を自己所有していても、巨額の金融資産を持っていなければ、粗利に相当する学生納付金の減少から倒産 → 廃校に追い込まれるという奇妙な存在なのである。 学生急増期に生まれた新設大学の弱点はここにある。 よって、大学存続のすべての鍵は言うまでもなく学生の確保にある。 しかし、18歳人口の減少によってさらに学生確保が困難になっていること、さらには不況下にあるため授業料値上げができない状況にあること、国や地方自治体の財政状況が悪いので補助金の増加に大きな期待はできないことなどを考えると、今後の大幅な収入増はどう考えても見込める状態ではない。 しかも支出の面では人件費の割合が高まり、財務構造の硬直化が進んでいるので大学の財務状況は今後ますます厳しさを増すことになるだろう。 学生の確保と同時に、教職員の削減、組織のスリム化などのリストラ策が進められるものと思われる。 もはや先生もリストラされる対象となるのである。 だが、それには個人的に賛成である。 大学大衆化による教授量産は、大学の世界に 「高齢者天国」 を生み出してしまったという意見もある。 東洋経済新報社の行った定年制の調査では、回答を寄せたのは現在の私立大学の半数近い246校であるが、そのうち65歳の教授定年制を設けているのが114校で、過半数が定年は65歳を超えているのである。 そして70歳定年は87校もある。 さらにこれに付け加えておきたい事実は、回答を拒否した大学には定年制を設けていない大学が少なくないということである。 こうした現状からも、甘えの経営をしている私立大学には改革が必要である。


我が明治大学

 ここで週刊東洋経済に掲載された、 「有力私大の2000年度決算と経営戦略」 から、客観的に見た明治大学の現状を探ってみたい。


決算概況

 経営指標を見ると、管理経費比率が低く、基本金組み入れ率が平均よりも高い。 貸借対照表では、借入金の圧縮が目立った。 長期・短期借入金は、99年度と比較して45億円削減できた。 主な原因は、西調布用地購入に伴う残金の精算が済んだため。 負債比率はまだ高い水準にある。


経営戦略

 98年度に駿河台地区に新教育棟・リバティータワーと、生田地区に生田第1校舎5号館を建設した。 2000年度に駿河台地区に新中央図書館( 座席数1240席 )と、生田地区には農学部生命科学科( 新設 )の教育・研究拠点となる生田第1校舎2号館の建設を行った。 また、外国人研究者用の生田ゲストハウスや、清里セミナーハウス、八幡山グランド隣接地に合宿所等の建設を進めてきた。


社会人教育

 御茶ノ水駅から徒歩5分という地の利を生かして、社会人の大学院受け入れを積極的に進めている。 2000年度からは、商学研究科で、一部科目を平日の夜間( 午後5時30分~8時30分 )にも開講する夜間・土曜開講制を開設した。 政治経済学研究科では、6時限・7時限( 午後5時30分~8時30分 )の時間帯を設置した。 経営学研究科では、博士後期課程への進学を目的としたリサーチコースと、社会人の再教育を目的としたマネジメントコースの2コース制を導入し、マネジメントコースでは授業時間を夜間と土曜日に配置した。 また、理工学研究科、農学研究科では社会人特別入試を実施している。 さらに、一般社会人を対象にして、99年度から公開講座・資格講座を中心としたリバティ・アカデミー講座を開設した。


中期計画

 2001年1月に創立120周年を迎えた。 2002年4月に政治経済学部に地域行政学科、文学部に心理社会学科、経営学部に会計学科・公共経営学科を開設する。 2004年4月には、新学部・情報コミュニケーション学部と、法科大学院をはじめとする新たな大学院を開設するべく準備が進められている。 これら教育・研究の充実に伴う施設・設備の一層の充実を図るため、駿河台地区に基本コンセプトを 「生涯教育センター」 として計画が進められていた 「駿河台B地区建物( 仮称 )」 の実施設計が決定した。 この新建物は既存の5・6・7・13号館を取り壊した跡地に建設され、2004年4月の新学部開設時に使用開始を予定している。


第3章 大学の裏事情


大学の中身( 生徒と教授 )

 今日の日本の学生は、高校時代や予備校時代の厳しい受験をかいくぐってきたにもかかわらず、大学に入学したとたんに一変してちっとも勉強せず、まるで大学に遊びに来ているかのような状況が現状であり、おそらくほとんどの学生がそれを否定できないであろう。 大学はいつからかレジャーランド化したとまで言われる始末である。 しかし、現実に通っている自分の大学をレジャーランドだなんて思っている学生は本当にいるのだろうか。 確かに個人差はあれ受験戦争に勝つために必死で勉強して、やっとの思いで入学した大学を、勉強する場所であるという現実を受け入れるのに時間がかかるのは仕方ないかもしれない。 だがそのままだらだらと四年間を過ごす大学生が存在すると考えるのも難しい。 ではここまで大学がこうしたイメージを植え付けられた原因は何なのであろうか。
 その原因に直結するかはわからないが、疑問を持たざるを得ないことの一つにやはり日本の大学によく言われる、入るは難し、出るは易しの制度である。 入学すればこっちのもので、あとは卒業まで安泰とまでいわれるこうした制度は今日欠かせない問題である。 げんに大学卒業者ならたいていの人はこの言葉に納得をするだろう。 大学卒業など極端な話をすれば勉強などしなくてもできると言っても過言ではない。 大学に通っている本人でさえそう思うのだからこれはかなりの問題だ。
 この問題の原因の一つとしては、大学の学生定員があげられる。 国公立大学では、学生定員数は教員数・予算配分の基礎となっている。 そしてこの背景には、文部省からお叱りを受けないために、定員通り学生を入学させ、四年後には同じ人数を卒業させなくてはならないという現状が存在する。 このため学生は、入学すれば卒業できるというシステムの中で安心して卒業まで過ごせばよいわけである。 それなら勉強するだけ無駄だ=大学はディズニーランド化した、となったことは皮肉にも日本の制度から生まれたいわば自然な流れなのだ。 だがこの見解は私立大学でも似通ったものがある。 私立大学にとって卒業出来なかった学生、つまり留年生の授業料は予算の修正過程で超過収入のように思われるが、実際には留年の受け入れを比較的安価で行ってきた昔、今から十年前まではそれほど負担ではなかったが、現在では留年学生の単位履修に関わる間接費用がかさみ、損益分岐点を割り込む不良資産として留年制度は残っておると思われ、留年学生からもかなりの授業料負担を求める結果を生んでいます。 私立大学も定員制度をとっている以上、現状の枠を維持するためには卒業させたいという考えは国立大学と同じのようだ。


知られざる教授の実態

 そのディズニーランド化された大学の制度が、今ではそれがもっぱら学生の質の低下に結びつけられる。 果たしてそうだろうか? 大学の大衆化がその原因ともいわれる。 しかし、こんな例がある。
 東大の新制発足時の定員に比べて、現在の東大定員は約2倍に増え、そのため3分の1の学生が講義についていけないほど学生の質が落ちたとある。 だが、18歳人口200万人時代、果たしてそうだろうか? 今は大学志願者だけでその当時に比べて10倍近い。 この中からトップ層が東大に進学するのだから、漠然とした話ではあるが学生の質は戦前に比べたとしても勝るとも劣らないはずだと考えても良いのではなかろうか。 この意見を一般的に言えば、大学の大衆化で学生の質が落ち、学問離れして勉強しなくなった。 というこのなのだろうか?これがおおかたの大学教員の言い分だろう。 しかし、その前に新制国立大学完成年度の1953年と比較して、四倍以上に膨れ上がった大学教員の質の低下が学生の質の低下よりも先に問題であるとも考えられるのではないだろうか。 現在の学生の間でもっぱら学問離れの原因とされる一つに大学の講義はつまらないという声があるが、それは何も今現在に始まった事ではないのだ。 戦後間もない頃の東大での講義について、 「新学期が始まった最初の授業には、さすがに大きな期待があった。 有名教授の教室には、大勢の学生がおしかけた。 だが、ひとわたり気になる教室をまわってみると、東大と言ってもこんな程度なのかとがっかりさせられるほどたいていの教室には活気がなく、教授たちは惰性で授業をし、学生は仕方なしに聞いているだけだった。」 と述べられている。 これでは現在の大学となんらたいして変りはない。 人気のある教授の講義には生徒が集まるなど、現在の大学をのぞいてもそれが当然なことは大学に通ったことのある人ならお解かりだろう。 学生の質が低下したとなげく先生はたくさんいるだろう。 だがよく考えて欲しい。 その学生の質を向上させるのが、学生に学問の楽しさを教えることが先生の役目であるという基本的なことを。 ではその大学からすれば雇用者となる大学教授についての実態を見てみたい。 上記でも少し触れた大学教員の高齢者天国のことももちろん踏まえておきたい事実である。 では、その他の面ではどうだろうか。 大学教員になる場合、特に定まった公の試験はなく、採用される教員の年齢も様々であることをどれだけの人が承知しているだろう。 大学の教員組織は、教授、助教授、講師、助手、という身分が存在している。 私学の場合において見てみると、学科の教員定員は国公立大学と比べて比較的緩やかとなっている。 そこで学科が新しい教員の必要性を学部の人事委員会に申し立て、人事委員会がこれを認め、候補者が選ばれ、それを教授会が審査し、採用が決定されれば後は理事会の了承、というシステムである。 教員の身分ごとの年齢目安としては、助手=27~32歳、講師=31~35歳、助教授=33~45歳、教授=45歳~、といった感じと見ていいだろう。 教員の補充は身分ごとに公募がなされる。 私学の場合、学校によっては教授、助教授の定員枠が確定的に決まっている場合もあるが、そうでない場合も多く、比較的柔軟的であると言える。 それに比べて国立大学の場合、教官定員枠が厳格に決まっており、助教授から教授に昇進するなどといったときには、基本的には教授の定年退官をじっと待っているか、あるいは他大学に転出して教授ポストが空くなどの条件がそろわなければ昇進できないこととなっている。 こうしたシステムをみても、大学の人事が決して実力・能力主義でないことはもちろん、年功序列が謳歌していることは火を見るより明らかである。 こうした現状を踏まえても、学生の質が落ちたことに大学の教員たちに原因がないと言い切れるのだろうか。 確かに大学は民間企業でもなければ営利団体でもない。 だがリストラもなければ、一旦昇進してしまえばグレードを下げられる心配もないというぬるま湯的な現実の状況が不勉強な大学教員の怠惰を助長しているといっても決しておかしくはない。 大学教員が大学の大衆化は、教員の質も落としている可能性があるということも是非承知しておきたい事実であろう。 ここであえて解決策を語らせてもらえば、やはり学生が講義、もしくは教員を採点していくことが何よりの改善策だと考える。 だが、現状は1991年に大学設置基準の改正による自己評価の導入というのがある。 これによると 「大学はその教育水準の向上を図り、当該大学における教育研究活動等の状況に着いて自ら点検及び評価を行う事に努めなければならない。 その点検及び評価を行うに当たっては適切な項目を設定すると共に、適切な体制を整えて行うものとする。」 とある。 この自己評価とは一体何なのだろう。 自らを評価してそれを今後の講義に生かしていくとでも言いたいのであろうか。 そうだとしたらはっきり言ってお笑いである。 上記で大学は民間企業ではないと触れたが、それでも現在のビジネスシーンにおいて消費者の動向をつかめなければ企業の存続はないというくらいのマーケティングブームの中で、こうした考えにはあきれ果ててしまう。
 学生が授業を評価するといったシステムは、すでにいくつかの大学では実際に行われている。 例を出せば、福岡大学は生徒からの授業評価の調査票と集計結果も公開されており、それについて福岡大学からの見解を見てみよう。
 「学生は授業評価アンケートに真面目に取り組み、真剣に回答していることが見受けられる。 また、結果を見て一部危惧されていた単位の取りやすい授業に肯定的評価をするといった考えはみられず、一生懸命わかりやすく授業をしようとする教師には積極的な評価を与えている事が伺える。 本授業評価アンケートを通じて、授業や学生への指導の改善点が明確になったといえよう。 このことにより、学生との真の交流が可能となるであろう。 今後とも、この授業評価アンケートを教師自身の授業改善のためのサービスとして位置付けていきたい。 このサービスを全教師が積極的に受けることを期待したい。」 とある。 これはとても素晴らしいことであると思うと同時に、福岡大学の学生がうらやましい。 こうした単純な事になぜ他の大学は気付かないのだろう。 いや、気付いているのだろうが、実施するのを拒む教員が数多いせいなのかもしれない。
 ここで私の体験を踏まえてこの問題を考えてみたい。 現に自分の通っている大学の講義において、個人的にとても楽しく勉強でき、毎週欠かさず出席している講義がある。 休講になると残念と感じるほどだ。 特に出席を取るわけでもなし、単位がとりやすい授業でもない。 悲しい話だが、大学に四年間通って出欠を取らない講義に毎回出席するという経験はあまりない。 その先生はやはり、学生に対してアンケートを取っている。 前後期一回ずつで、内容の方は 「授業はわかりづらくないか、学習スピードについていけているか、今後取り上げて欲しい題目は、今までの講義で何が一番興味深かったか」 などの項目が設けてあった。 そのおかげであるかどうかは分らないが、その講義はとても学生主体でわかり易い。 現にこうして毎週その講義に出席している自分がいること、それが一番の証明と言ってもいいだろう。
 こうしたことを実施している教授は日本の大学にどれくらいいるのだろう。 もっともっとこうした 「学生の授業評価」 を恐れず、当たり前であるかのように各大学に取り入れていって欲しい。 そして、この改善策について付け加えておきたい事は、 「自発的に」 ということが何より重要な部分であるということを忘れてはならない。 それでも否めない学生の学問離れ今まで教授の実態を見てきたが、もちろん学生側の現状にも問題はある。 学生の心理的状況から考えると、大学生とはそもそも自己に対して責任を持った行動を強いられる最初の場面であるように思える。 今まで周りに決められた時間割や勉強の仕方をしてきた学生達が、急に大学に入学した途端に自分の好きな勉強をすればよいと言われても、果たして何人の学生がそれを実行できるだろう。 そして言わずと知れた近年の学生による学力の低下や質の低下である。 分数ができない学生が十人のうち二人の割合でいるとまで言われている始末だ。 原因の一つとしては、やはり大学の大衆化があげられるであろう。 上記でも触れたように少子化は進んでも大学進学率は下がるけはいはない。 大卒などといった言葉は過去の遺物となっている。 最近の20年間、特に私立大学は偏差値競争に狂奔した時代であった。 80%以上を文系学生で閉める私立大学では、頭脳の柔軟性と論理的思考がもっとも要求される数学を受験科目から追放するという愚挙が一般化してしまった。 しかもそれをマスコミは 「入試の多様化」 「個性化」 とはやし立て、学生の学力崩壊を促した。 入試の多様化の裏に隠された私学の思惑が手にとるように想像できる。 欧米はもちろん、アジア諸国でも数学が文系入試から消えたのは日本の私大だけである。 入試の多様化は、偏差値教育から抜け出すきっかけとも言えるかもしれない。 また幅広い教育の機会を与えているのも事実であろう。 しかしそれが学生の質の低下をうながしていることもまた事実なのである。 現在、日本における入試の多様化を例にとってみてみよう。


AO方式

 アドミッションズ・オフィス入試の略。 合否判定を筆記による学力テストではなく人物本位とし、ボランティアや文化・スポーツなど学業以外の実績や人間性をも併せ考慮して選考する形式をとり、数回の面接を行うのが一般的である。 学校の推薦を必要としないところが従来の推薦入試と大きく異なる。 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで導入したのが先駆けとされている。 ただ、合格の基準が曖昧であり、公平さが保たれているのかがわかりづらいのが現状である。


一芸一能入試

 学力ではなく、その人が特別に持っている能力を評価する入試制度。 俳優や歌手としての実績やけん玉日本一などの合格例があり、最近では女優の広末涼子氏が早稲田大学へこの制度で入学したことが話題となった。


複線入試

 一回の受験で合格者を選抜するのではなく、日程や科目を変えて、複数の方法で選抜する方法。


ベスト2入試

 3教科以上受験させ、そのうちの2 教科で選考する方法。 2教科は大学が指定する場合と、受験生自身が指定する場合がある。 また、3教科受験して最高点の1科目で判定するベスト1入試もある。
 こうした入試システムの多様性は本来ならば評価されるべきであるのかもしれない。 だが問題なのは、こうしたシステムを大学側が学生集めのために行ってしまうことにあるようにおもう。 特にAO方式を採用する大学は増えている。 これは、AO方式は専願を原則していることから、志願者は志望順位の高い大学から先に訪問するといった傾向になるのは当然であるため、大学側の魂胆がどうしても垣間見れてしまうのは気のせいだろうか。 こうした寄せ集めてきな志向によって大学側自身が学力低下を促しているとも言えるだろう。 こうした学生達の大学での勉学を証明する単位制度にも問題があると考える。 大学審議会から言わせるとこの単位制度の徹底した実質化が必要不可欠だとうったえているが、その実態はどうなのだろう。 ディズニーランドと化した大学でも、いくら学問離れした学生達ばかりでも、単位制度をかいくぐっていかなければ卒業はできない。 そもそも単位って一体何であったのだろうと、四年間の大学生活を振り返っても疑問が沸いてくる。 思えば入学した時からこの疑問はあった。 そこで大学審議会答申から単位とは何かを考える。 「現在の我が国に大学制度は単位制度を基本としており、一単位は①教員が教室等で授業を行う時間、および②学生が事前・事後に教室外にて準備学習・復習を行う時間の合計で標準45時間の学習を要する教育内容をもって構成される。 これを基礎とし、授業期間は一学年間におよそ年30週、一学年間に約30単位を習得することが標準とされ、したがって大学の卒業要件は四年間にわたって124単位を修得することを基本として制度設計されている。」 しかし、問題についても答申から指摘されている。
 「単位制度の本来の趣旨にもかかわらず、学生の授業科目の履修については、講義等において必ずしも準備学習が要求されない、授業への出席状況が確認されない、学期末の試験結果のみで単位認定が行われるなどの理由から、学生が過剰な履修科目登録をして安易に単位を修得するという現象が生じ、その結果十分な学習を行わないまま三年で124単位近くを修得してしまうという指摘がある。 平成7年の文部省調査によると、学部学生の一学期間の平均履修登録科目は14.5科目であり、これは、およそ58単位に相当する。」 58単位の履修ともなれば、基準の単位計算によると 「授業を受ける時間」 と 「自学自習する時間」 とをあわせると週87時間の学習が必要となる。 果たしてそんな学生が今の日本にどれだけいるだろうか。 我々は中学、高等学校時代のほうがよほど勉強していたように思える。 学生一人一人が自発的に勉学ができる環境を整えたつもりの大学側としては、後はこれにそった勉強をしてもらえれば言う事なしだが、そう簡単にいく訳がないことは大学側が充分解っていることだろう。 こうした側面からも、大学の存在意義が問われている事は、是非頭に入れておきたい事実である。


第4章 国立大学( 独立行政法人化を中心に )


国立大学の現状

 独立行政法人化による国立大学民営化への動き近年、大学関係者の中で一番の話題はなんと言っても独立行政法人化への動きであろう。 独立行政法人化とは、市場原理にたてば、大学教育では、国立大学は非効率、私立ば当然である。 授業料の面で見れば、国立大生は私立大生のほぼ2分の1( 文系 )である。 では、独法化によってその気になる授業料はどうなるか。
 税金支出の60%がなくなるなかその分を授業料で補うと、学費などの収入のうち半分が授業料収入だと計算すれば、単純に計算しても現行の47万8000円から191万5000円に引き上げなくてはならなくなる。 民営化すれば当然私学助成金が交付されるが、その分は、基本財産への組み入れに回さなくては、既存の私立大学にとうてい太刀打ちできないだろう。 なぜなら金融資産ゼロからの出発であるからだ。
 人件費からみても、ほとんどの私大の給与は、若手教員( 助教授など )ではほぼ同年齢で国立大学の50%前後、教授では、20~30%高い。 もし、私立大学の教員の給与を国立大学教員並みにすると、私立大は教員数を今の1.5倍に増やすことができるほどである。 こうした事を踏まえると、国立教員の給与を私立並みにすれば、年間授業料は250万相当に計算されることになる。 こうして見ると独法化が行財政改革を出発点としている以上,国の教育費負担軽減を目指すのは当然予想されるべき事態である。 そうなると、基礎分野,文学など 「金にならない」 学問教育の切り捨てが一層進むのではなかろうか。 また、大学間競争の激化が発展する事も考えられる。 独法化は教育へや研究の競争を促して活性化をはかるというものだが、競争のあり方が問題なのである。 心配される、学生集めのための競争になりはしないのか。 そうなると学生を集めるのに不利なところ、地方では非常に厳しい状況になることは当然起こりうる。 そしてさらなる授業料の格差が生じてしまうことになる。 大学間、学部間の格差、大学統廃合にも拍車をかける結果をもたらす可能性は高い。 大学は、競争ではなく、 「共生」 の基に成り立たなくてはならないという根本的なことをもう一度考える必要があるように思う。


東大に行きたくない?

 その中でも気になるのが日本のトップ、東大である。 東大が民営化されるとしたら、現在の大学予算をベースに今の研究・教育水準順を維持するのに必要な授業料を算出すると、約400億円の私学助成金を前提にしても、360万円以上にしなければ大学運営に支障がでる。 それほど大学院の拡充、研究所などの体制が東大は他大学に比べずば抜けているのだ。 これはアメリカのハーバード大学より高く、その原因はハーバードのように膨大な基本財産をもっていないからである。 これはまさに大問題である。 一般国民の子弟はいくら成績がよくても、民営化された国立大学には進学できにくくなる。 教育の機会均等はくずれ、 「教育は公の仕事」 という言葉はたちまち意味をなくすことは目に見えている。 となると、東大に進学させることはさらに困難となり、そうなれば東大入試容易化も否めない状況におかれてしまうのではなかろうか。 そうなれば、地方国立大でももちろん定員割れがおこり、日本はたちまち二流以下の国へと落ちていく。

 では、独立行政法人化の利点はなにか。

 これは、とくに運営や人事の面でこれまでより自由な裁量が許され、学科の新設、改廃は各大学の判断で行え、教職員の給与基準も各大学で定めることができる。 また国の交付金は使徒を問わず弾力的に支出できる。 企業からの受託研究費や寄付金は国庫に入れることなく直接大学に収入できる。 などがあげられる。
 そもそも日本の国立大学への税金投入額は約1兆5千億円となっており、他方、私立大への税金投入は直接補助を含めて約3千4百億円で、国立大は私立大の4.4倍の税金額となる。 授業料は上記で述べたように国立大生は私立大生のほぼ2分の1と安い。 だからといって容易に日本における国立大学の授業料は安いと言ってしまって良いのだろうか。


他国との比較

 では、他国の状況を少し見てみたい。 バカロレア( 大学入学資格試験 )いうシステムを持つフランスでは、バカロレアに合格すれば誰でも希望の大学に入学できる。 もちろんパリ大でもリヨン大でも好きな所に行ける上、学費は登録料として1000フラン、日本円でやく1万6000円ほどである。 だがこれには訳がある。 フランスでは大学への進学がエリートコースの道ではないということだ。 フランスにおいて日本でいう高学歴社会を担っている機関は代表的なグランゼコール( 専門学校のようなもの )への進学がそれとされる。 しかし、それでも私立系は16万~48万の範囲で、高くても日本の国立並みであり、それが国立になると1万~3万円で、日本の国立の15分の1~30分の1である。


アメリカ

 94年の私立大学の平均授業料は1万5568ドルで、日本円約171.2万円、公立は約46万円で日本の国立とほぼ同額である。 アメリカの私立大学授業料の平均は、日本の私大よりも3割以上高い。 ただ、アメリカの超一流大学は話が別である。 アメリカの私立大学は有名校であるほど莫大な基本財産を持ち、教育環境、条件は完備されている。 だが、これらの超一流大学がアメリカ社会で果たしている役割はごく限られた上流および中流上層におけるエリート再生産であり、一般国民を対象とした高等教育は州立大などの授業料の安い大学によって支えられている。 アメリカの大学では公私の授業料格差は、日本における国私との格差よりもはるかに広い。 このような日米の差は、日本の国立の授業料が高騰したことにある。 国立大学の授業料は75~97年度の間に12 倍跳ね上がった。 この間、私立の上昇率は3.3 倍であることからも、その上昇率は明らかに高い。 しかも、この間の消費者物価上昇率は83%であり、国私ともいかに大幅な授業料の値上げだったかがわかる。 こうした事は、少なからず国民に対して教育費の増加の懸念への対象となり、少子化現象の原因の一つであると考えても決しておおげさなことではない。 日本の高等教育への国の財政支出は欧米に比べてきわめて少ないのが現状である。 それに加えて財政健全化をたてに教育費の削減や国立大の授業料の引き上げが実行されるというお粗末な政索がなされている。 こうしたなか国立大学を民営化しようという動きにはとうてい納得がいかない。 ここで遠山敦子現文部科学大臣のインタービュー( 週刊東洋経済 )を見てみると 「大学の経営のあり方についてもう少し民間的な発想が必要であり、第三者評価による競争原理を導入し、そこから国公私を通じたトップ30 への重点投資を行っていく。 日本の高等教育に対する公財政の支出はあまりにも低いのは事実であり、いかに削るかではなく、以下に良い大学を作るために予算を使うかが大事である。 とは言ってもどの大学にも同じように予算を増やすという事ではなく、競争の原理を取り入れ、成果を出している大学へ効率よく重点的に投資していくことが必要である。 これは大学側にとっても大きなチャンスである。」 とある。 戦前からの伝統を踏まえて、上流・中流上層部からエリートを再生産するというイギリスやアメリカにおける一握りの有名私立大学の役割を背負うことが必要とされるときがくると考えれば、上記の遠山氏の見解は是非とも実施してもらいたいものだが、教育機関としての考えからすればやはりすんなりと賛成とは言えない。


おわりに

 大学改革は今までも叫ばれ続けていたことだが、独立行政法人化を機に、それまでとは違う新たな局面を迎えている。 大学は教育機会を均等にするべきか、今後の日本を背負っていくエリート生産を担っていくべきかという大きな焦点に別れるように思う。 前者をとるならば、独立行政法人化には全くといって賛成はとれない。 だが、遠山氏の掲げるトップ30 政策などはあきらかに後者の視点をとらえている。 これからの少子化現象に対して大学がどうあるべきなのかを明確にださなければ、この問題は解決しないだろう。 大学の成り立ちから見れば、どちらであるべきかは明らかである。 二極化は、そうした面からみれば当然の成り行きであり、また、そう悲観するものでもないように思う。 そうすると、問題は大学の中身にある。 二極化が進むにつれて個性ある大学というものが必要なものとなってくる。 大学はこれから体験したことのない選ばれる存在へと変わっていくなかで、本当の意味で強い大学とはそのニーズに応えることができるかどうかであろう。 教育は基本的に営利を求めるものではないが、違う視点からとらえれば、そこに一番の問題が根付いているように思う。 大学とは、その狭間にゆれている現状から、どちらの道を選ぶべきか答えを出さなくてはならない時期にきているのだ。