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大学は何のために存在するのか



~ 「大学の社会貢献」 を考える ~


大学は大衆化していいのか

 大学改革が叫ばれ、かく言う小生も大学改革を当たり前のこととして論じてきたが、もっとも大事なこと、前提にすべきことを忘れてきた気がしてならない。

 一つは、大学のユニバーサル化( 大衆化 )が当然のこととされているが、本当に18歳人口の半数以上が大学・短大に進学することが社会にとって、あるいは学生個人にとって好ましいことなのだろうか、ということである。 イギリスやフランスのように進学率が抑制されていい、という考えも成り立つのだが、その議論はこれまで避けられてきた。 それは、日本で大学・短大進学に匹敵するバイパスコースがなかったことに原因がある。 社会的に尊敬される職人や農民、商人への修行に若者が進もうという風潮はない。 親方に中学卒も大学卒もいて、純粋に技能によって評価されるということがあってもいいと思うのだが、ストレートに進学する単線型社会になってしまったのは不幸なことではなかったろうか。

 もしかしたら、このまま放っておいても、大学に行くより専門学校に行った方が技能が身に付くとか、いつでも大学に行けるからという理由で、多くの大学が見放され、結果的に進学率が下がることがあるかもしれない。 日本の資格は実力を伴わないものが多いとも聞くが、大学がいくら資格を取らせたり、認定したりしても、国際的に評価されなければいずれ集客効果は薄れるだろう。 しかし、成り行き任せで大学離れが起きることを放任しておいてもいいのだろうか。


人間にやさしくない大学

 もっと根元的なことがある。 それは、大学は何のためにあるのか、ということだ。 一つは、社会に貢献することであり、もう一つは社会に役に立つことかどうかはわからない研究をやる、ということだ。 後者は社会の多様性を保ち、もしかしたら社会の危機の時に思いがけず貢献することになるかもしれない。

 そこで考えてみる。 大学はいまの社会に貢献しているだろうか。

 日本ではリストラの嵐が吹き荒れている。 倒産や破産、夜逃げ、心中。 サラ金や商工ローン業者は倒産や破産を目の前にしている人間にたかって保証人から金を搾り上げる。 会社のなかでは労働者同士の連帯や助け合いもなくなったという報告も聞く。 バブル全盛期の頃、人々は人手不足で寝る暇もなく働いた。 バブルがはじけて不景気の極みの中でも( いや、それだからこそ )、職にしがみついている人々はやはり夜も寝ないで働いている。 一方では、失業者は増え、学生は就職難にあえいでいる。 そういう社会に対して大学はどういう働きかけをしているだろうか。

 これだけ地球規模で環境問題が取り上げられ、健康被害や災害が起き、将来の人類の危機も指摘されているのに、政府や企業はバブル時代と同じように 「消費は美徳」 とばかりに景気浮揚のための個人消費をあおっている。 それに対して大学人は問題点を指摘するどころか、時代遅れの公共事業や消費拡大のための金ばらまき政策を支えている。

 昔聞いた話だが、不況時にドイツの労働組合は首切りに反対し、賃金を下げても仲間を守る闘いをしたという。 労働時間を少なくし、仕事を分け合ったのである。 私が思うに、大学は( 知識人はとか、研究者はと言ってもいいのだが )、仕事がない時代こそ、仕事を分け合って労働時間を短くし、人間らしい生活を送るべきだと提言すべきではないだろうか。 賃金が下がっても生活が苦しくなるとは限らない。 物価が下がればいいのだから、大学はそういう政策を提言するべきだ。 また、失業者が少ない社会の安定感・安心感は生活者の精神を落ち着かせるのに大きな作用をするはずだし、消費が抑えられて環境負荷も少なくなるはずだから、研究者は正当にその効果を研究し、広く知らしめるべきだろう。 同時に、自分たちが送り出す若者に人間らしい生活が送れる職と生き甲斐が与えられるよう、社会に訴えるべきではないだろうか。


WTO会議にみる環境問題

 世界はパラダイムの転換を迫られている。 それは、地球規模の環境問題、限られた資源のなかでいつまで人類は生き延びられるか、という問題に関っている。 産業構造の転換とか国際的な競争とかいうレベルの問題ではない。 人間は自然環境との共生を図り、質素な生活をしなければ快適な生活も人類の未来もない、ということだ。 大学は、車のない社会や質素でありながら心豊かな生活を提言することはできないのだろうか。

 いま新聞・テレビを賑わせているのはアメリカ・シアトルのWTO( 世界貿易機構 )会議の反対運動だが、あのなかには環境や人類の未来に危機感を抱いている人たちが含まれている。 アメリカの大規模農業は土地の生産性を下げていく収奪型・自然破壊型の農業である。 農産物自由化になると安いアメリカの農産物が輸出され、各国の農業を破壊してしまう可能性が強い。 しかし、そのうち、アメリカの生産性が下がり、自国消費に回されるため輸出できなくなり、世界を飢餓が襲うようになる。 クリントン米大統領は生産性ダウンを恐れて収奪型農業から自然環境共生型農業への転換を図ろうとしているともいうが、農産物自由化は破滅への道になりかねない。 逆に、これまで以上に熱帯雨林などの資源が安い価格で先進国に流れることも予想される。 WTO会議を取りまく人たちの中には自分たちの利益だけを守ろうとする勢力もいるだろうが、環境や人類の将来への危機感から反対している人も多いということを日本のマスコミも大学の研究者も指摘していない。


大学存在のキーワードは 「思いやり」

 では、大学が養成すべき人材とはどのようなものになるだろうか。 私の考えでは一言でいうと教養人の養成である。 人は仲良くした方がいい、けんかをしても仲直りをする方法を考えよう、他人の体や心に傷つけてはいけないよ、もし傷つけるようなことがあったら逃げないでちゃんと対応しよう、というようなことがちゃんとわかる人間を育てることだ。 大学の存在意義のキーワードは 「思いやり」 と 「コミュニケーション」 になると思う。 人の命を助ける使命を持ちながらオーム事件で人を殺す医師のような人間を出さない教育システムを考えて欲しい。

 しかし、それは決してやさしいことではない。 たとえば細かい話だと思うかもしれないが、ディベート授業で言うと、単にやりっ放しでは逆効果になることもある。 すなわち、学生は自分の信念と反対の立場に立たされる場合もあり、自分が信じている考えを相手の論の立て方の弱みにつけこんで叩きつぶすこともあり得る。 そんなとき、人間の心の動きはどうなるだろうか。 この場合の勝ち負けは反対意見を冷静に受け取り、自らの問題として考え、総合的に判断するトレーニングだということを十分に納得させ、ディベートの勝敗がついた後もその人なりの思考を深めさせるフォローをしないと意地の悪い人間を育てる教育手段になってしまう、ということも考えなければなるまい。

 「思いやり」 「コミュニケーション」 と言うと、ユートピア的な幼稚な話で、幼稚園や小学校でやればいい、と言う人もいるかもしれない。 しかし、大学においても、そのような思考の範囲を宇宙や地球に広げ、歴史や倫理、思想を学ぶ中で深化させ、専門領域を包み込むことが重要であり、それが大学の重要な責務であると考える。

 ただし、教育は社会のルールを教えたり、さまざまな材料を提供したりするけれども押しつけがましく人間の心の中にまで侵入することはできない。 授業やゼミナール、部活動、ボランティア活動などによって教員や友人との人間関係を作ることができる場、やすらぎや環境学習をもたらす自然環境などを整備し、信頼と連帯の雰囲気を醸成することがその役割ということになるだろう。


社会の後追いでない大学改革を望む

 冒頭の話に戻るが、パラダイム転換が求められている時代にあって、大学は思想的にも科学技術の面でも教育の面でも、それに合った研究や提言、実践を世に問うているだろうか、というと、結論は否である。

 厳しい時代だから理想を言ってはいられない、現実的に対応するしかない、とか、理想は理想であって実現できるものではない、と言う人もいるだろう。 だが、例えばECを考えてみるといい。 ヨーロッパ大陸にあって戦争が続く時代にその実現性を信じた人がどのくらいいただろうか。 どんな時代にあってもECの理想主義を掲げ、推進した人がいたからこそ実現にこぎつけられたのだろう。 理想と現実は相反するものではなく、理想を掲げ、それに向かって現実を生きるからこそ、理想も現実も生きるのである。

 思い切った改革というのは既定路線の上を突っ走ることではない。 理想を見据えて確固たる信念の基に現実を変えていくことである。 車のない社会、質素な生活、経済成長がダウンする社会しか人類の未来を保証するものはない、あるいはそれでもだめかもしれないがそれをめざすしかない、という設定があるとしたら( この設定は私個人のものなので人によって異なるだろう )、現実がどんなに困難に見えようとも知恵を結集して提言や実践をすることが大学の社会貢献だと思う。

 何を子どもじみたことを、という人もいるだろうが、社会のパラダイム転換を意識し、それに基づく理想を構築し、その理想に向かって現実的な改革を提言することなくして、大学の改革とは言えない、と私は考えるのである。