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「生きる力」 や 「問題解決能力」 は
        どうやったら身につくのか




~ 「現実感のある日常性」 からの出発 ~
 あっという間に小泉政権が誕生し、改革の大合唱が始まった。 文部科学省では遠山敦子大臣が 「学力低下は実証されていないが、真剣に学力低下の問題に取り組む」 と発言しているそうだ。

 私は学力低下の議論を冷ややかに眺めている。 やれ 「詰め込み主義」 だの 「受験知識偏重」 だの 「考える力が育っていない」 などの批判の嵐の後、その検証も克服方法もあいまいなまま、今度は 「教科内容の削減で学力低下が加速される」 という風潮に世の中が流されている。 そこには、子供達や教育現場や地域社会の姿は見えない。 議論のための議論になっているようでどこかばかばかしいのだ。 その先導役を軽薄な出版界やマスコミが担っている。


「学力低下」 の根底にあるもの

 日本経済新聞の4月22日号で編集委員が学力低下についてまとめている。 学力低下の議論を紹介し、不安が広がっているというだけの深みのない文章で、安易な表現が目に付く。 たとえば 『学力低下が国を滅ぼす』 という本の著者が、学力低下の要因として 「学習指導要領が教科内容を大幅に削減したこと」 「大学入試の教科削減」 を挙げているそうで、編集委員は 「さらに大学進学率のアップが学生の質の多様化を進め、学力低下に拍車をかけた」 と続けている。

 しかし、学力低下についての指摘はかなり前からあり、それは必ずしも学習指導要領の教科内容削減とリンクされてはいなかった。 当時の記憶からすると、知識の詰め込みになってしまっていて十分に消化されていない、従って教科内容を厳選して考え方や問題解決のプロセスを重視すべきだという議論だったように思う。 それがいまや 「教科内容が削減されると学力が低下する」 という単純思考に陥っている。 知識の量を減らしすぎたということなのだろうか、それとも教科内容の厳選に伴ってやるべきだったプロセスを教えるということが無理だったのだろうか、あるいはうまく行ってその実践が蓄積されたので内容の削減は必要ないというのであろうか。

 大学進学率のアップが学力低下につながってるという指摘はほとんど間違えに近い。 大学進学率が上がれば相対的に学力が低い学生が増えるのは当たり前の話で、平均を取れば明らかにレベルは下がるが、それを学力低下とは言わない。 学生の多様化はそれだけ大学の中の構造が豊かになったということであって、もしそれが学力低下の問題だとすると、多様化した学生に対する教育力を大学が持っていなかったということの裏返しにしかすぎない。 大学が単純な機能しか持っていなかったことをまず問題にすべきだろう。 大学入試おける教科削減の影響は現実にいろいろな面に現れているが、短絡的に学力低下に結びつけるのは 「大学入試をえさに強制的に勉強させよう」 という安易な方向に見える。 「内申書のために勉強する」 という本末転倒な考え方と同根なので、教育をよくしようという議論にはつながらないだろう。


教育現場のダイナミックな実践活動に期待する

 私は、学力低下があるとすれば、問題は教育実践の在り方にあるのだと思う。 学校( 教室 )という枠の中で教員が子供に知識や考えかたを伝達するという旧来の手法が成立しなくなっているからだ。 それなのに、教員は“一国一城の主”という幻想の中でいまだにクラスを統括し、評価しようとしてもがき苦しんでいる。 文部科学省は一律の指導規範を示そうとし、学校では画一的な運営が行われ、教員は教科書に縛られている。

 私は、文部科学省は不要だと思っているので、規制がなくなっっても、教科内容が削減されてもいっこうにかまわないと考えている。 これまで、旧文部省が 「ゆとりある教育」 と言ったときになぜ、それを逆手にとって現場感覚を生かした生き生きとした教育実践が展開されなかったのだろうか。 「生きる力」 と言わざるを得なくなったときに 「文部省の言うとおりにやっても“生きる力”は育まれない。 我々こそが本当の“生きる力”を育ててみせる」 というダイナミックな活動が生まれなかったのだろうか。 「総合的な学習の時間」 の提唱に対して 「教科の時間が減る」 と時間の奪い合いをやったり、 「何をしていいかわからない」 と逃げるのではなく、 「子供達が望み、自分たちが本当にやりたかった教育を実現しよう」 と前向きに取り組まないのだろうか。

 前回の学習指導要領改訂によって教科内容の削減が行われたとき、高校世界史の教科書を見た私は 「途中を抜きすぎてつながりのない歴史の記述になったので生徒は単発の知識を覚え込むようになる」 と問題点を指摘した。 しかし、そのとき教育現場では 「途中の説明や教え方は現場に任されており、自由にかつおもしろい実践を工夫しよう」 と捉えるべきだったのである。 私の指摘通りの問題が発生したとすれば、それは現場の教育力が衰えていることの証左であろう。

 それでもやはり教育問題を克服するためには現場の実践が中心にならなければならないと私は考える。 創造的な教育実践が蓄積されれば検定教科書は不要になり、文部科学省がなくなっても混乱は生じないと思うのだ。


「“ケ”( 日常性 )の復権」 で現実感のある学習を

 学力低下をどう捉えるかはともかくとして、教育に対する危機意識の根底に 「考える力」 「問題解決能力」 の衰えがあると考えるのは多くの人に共通しているようだ。 では、どうすればいいのだろうか。 私なりに考えてみることにする。

 私は南西諸島の北辺の島で生まれ育った。 小さい頃から暗くなるまで毎日山で遊び、ヤマモモや山イチゴ、フトモモ、桑の実、椎の実、タケノコなど一年中木の実や山菜を採って食べていた。 山で遊ぶうちに森の色を見ればどこにどんな樹があるかわかるようになり、樹木の性質も自然に覚えた。 樹木名は実のなる樹か役に立つ樹しか知らなかったが( それも方言で )、そのような日常的な体験がその後の学習のベースになったように思う。 私は、このような日常生活の中でのなにげない体験が 「考える力」 や 「問題解決能力」 につながるのではないかと考えている。

 民俗学に“ハレ”と“ケ”という言葉がある。 “ハレ”は非日常の出来事であり、“ケ”は日常の行いのことを言う。 日常の苦しい農作業は“ケ”の出来事であり、開放的な祭りは“ハレ”の行事である。

 教育で言えば、学校は理想や倫理を教える“ハレ”の場であり、日常や現実からある程度遊離した存在である。 それが“ケ”に支えられた存在であった時代は学校として成り立ったが( かつて学校は外部社会への窓口であり、雄飛のための特別の存在だった )、学校外の日常体験が希薄になるにつれて、子供にとって学校は“現実感のない日常”になってしまった。 すなわち、学校は非日常の存在というタテマエの中で、昇華された形での知識の修得、理想や倫理の学習を進めはしたが、現実感のない 「嘘っぽい知識や理想、倫理」 の強制として受け取られているのではないだろうか。 子供達にとって学校は日常の中の存在えあり、“ハレ”の存在ではなくなったのだ。

 いま教育問題を克服するために必要なのは 「“ケ”の復活=現実感の獲得」 なのではないか、という気がしている。 最近指摘される若者の 「自分探し」 という現象も、そういう根っこがない不安な状態から出ているのではないだろうか。

 前述した私の山での体験も日常生活の中での出来事である。 似たようなことは現在でも擬似的に体験させることはできる。 盛んになりつつある学校ビオトープはその一つの形であろう。 また、障害児とともに学ぶ統合学習、地域社会におけるボランティア活動などもかつての日常を取り戻す活動と見ることもできる。 「総合的な学習の時間」 もその路線上で捉えることができよう。 しかし、学校という枠の中で“ハレ”と“ケ”の両方の復活を実現することは不可能である。 むしろ、学校という枠を取り外して考えるべきであろう。

 まず子供達にたくましい現実の世界を取り戻すことが必要だ。 地方だろうと都会だろうと身の周りには形は違っても( 破壊の程度は違っても )自然は存在する。 日常生活の中で自然に接することは可能だ。 地域社会の中で老人や障害者、さまざまな仕事で生計を立てる大人との交流が自然にできることも立派な 「生きる力」 を育むであろう。 そのようなことが 「ある時間」 「ある場所で」 という限られた体験ではなく、日常生活の中にたっぷりと浸かった現実感を持った体験であることが重要だ。 「ゆとりある教育」 も 「教科内容の削減」 も 「総合的な学習」 もその方向で活用すべきだろう。

 では、学校はどういう存在になるのだろうか。 私は、学校は 「物事を教え込む場」 ではなく、 「多様な体験や学習、能力を評価する場」 になるべきだと思う。 「生きる力」 や 「考える力」 、 「問題解決能力」 などは決まったプロセスによって培われるものではない。 従って、プロセスは問わず、その時点での多様な種類、多様なレベルの力を評価するのである。 子供達はその評価を持って社会に飛び出すことになるから、学校は地域社会から外部世界につながる窓口として“ハレ”の存在を取り戻すことになるだろう。 現代の若者が“十三無主義”だとすると ……

 ある会合で大学教授から聞いたことがある。 昔の若者は 「無気力」 「無責任」 「無関心」 の“三無主義”と言われたが、現代の若者はそれに 「無感動」 「無抵抗」 「無批判」 「無能力」 「無作法」 「無学力」 「無教養」 「無節操」 「無定見」 「無思想」 を加えた“十三無主義”なのだそうだ。 それほどまでに危機が広まり、切羽詰まっているのなら、制度や形ばかりの議論に終始する余裕などない。 あらゆる立場の人が立ち上がってさまざまな実践を積み重ね、この危機に立ち向かっていくしかない。 その行く先は多分、 「生涯学習社会」 の実現になるのだと思う。




( 2008.01.09 )




《 欠落部分に耐えられず 》

 戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして私流の判断をつけ加えれば、今日食べるものがないというのでもなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞社が昨年12月行った全国世論調査では、30、40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。

 しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。 ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。

 ストレスは文明の先端を行く国に多いのだろうと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会にも実はあるのだと或る時教えられた。 社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとしたり、同族のきずなの強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。

 私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも 「足し算・引き算」 の方式で自分の心を操って来た。

 健康で、すべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。 私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。 それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。


《 完全な平等だけを評価 》

 食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。

 何よりも日常生活の中に爆発音がしない。 それだけでも天国と感じている。 これが足し算型の人生の実感だ。 これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。

 しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。 子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。 平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。 しかし不平等な才能があちこちで開花している。 それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心をむしばむ。

 しかる先生は父兄に文句を言われるから 「生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師」 のようなことなかれ主義になった。 何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。 生活を別にしている教師など、子供の生活のほんの一部を見ているに過ぎない。


《 人のためを考えること 》 

 しつける親も少ない。 子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。 親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったというから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。 だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。 この自信のなさが、荒れた人間性を生むのである。

 何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ。 つまり自分以外の人生を考えたこともない身勝手な意識のままの大人になる。 本の知恵はテレビやインターネットの知識とは違う。

 戦後教育は 「皆いい子」 と教えた。 ところが人間性の中には、見事さと同時に底なしの身勝手さと残忍さも共存している。 このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから、思いつきで人を殺す。 多分罪を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ。 今はDNA鑑定にも何故か黙っているが、昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた。 言うことの筋が通らない。

 人間は自分のためだけでなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主義の悪に利用されるだけだ、という人は今でもいる。 人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、自分の意志で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。 受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら、今後も不安と不幸にさいなまれる人は増え続けるだろう。 今年は政治や社会がそのことに気づくかどうか。





問題解決について