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大学入試制度の問題




 私は各種 「審議会」 の改革案にはまったく期待していないし、教育を考える手掛かりを得ることもできていない。 ここでは、社会学者・橋爪大三郎氏の 「これでなくせる大学入試」 ( 8月下旬の朝日新聞夕刊 … 正確な日付を控えておかなかった、ごめん )から考える。 この提案に対する反響というのを、私はまだ見かけていない。 そこで 「ひょっとすると、これはまともな提案として受けとめられているのではないか」 と考えるわけである。 私も橋爪氏に劣らず変わった発想をしているのかもしれない。

 国会では、国立大学出身の文部大臣に私立大学出身の議員が迫って 「国立と私立との云々」 が議論されたそうだが、いずれにしても政府資金から 「もっと金を出せ」 と要求することでは一致できるわけであって、いかにも特殊利害を引きずった人々が集まる国会らしい 「話し合い」 である。 もっともこれは、大学に勤める人が大学を論ずる時の落とし穴や、高校教員が高校教育を論ずるときの落とし穴に通じるのであって、けっして他人事ではない。

 そういう視点で見ると、 「大学の学費は安すぎる。 本当はもっと経費がかかっているので、原則として学生がそれを負担するようにする」 という橋爪氏の提案にはじつに感心させられてしまう。 私たち高校教員が、 「高校の授業料を値上げせよ」 という発想をもてるだろうか。 しかし、いまこのような根源からの発想転換がなければ、学校教育に関しては何も変わりようがないのではないか。

 橋爪氏の主張は、
 「学生定員を廃止する → 多めに入学させ、進級試験で絞る → 奨学金を全員に貸す」 と要約されているが、ポイントを少し丹念にたどってみよう。

大学入試のせいで、偏差値による大学ランキングが日本人の頭にしみつき、教育や研究のレベルとは関係なく、学生も教授も入試偏差値でランクが計られる。 愚かなことだ。
入学試験をなくし、書類審査で多めに入学させるかわりに、後からしぼる。 そのために、大学の学生定員を廃止する。
現状では、学生定員が文部省で決められ、多すぎても少なすぎても怒られ、入学したのと同じ人数を卒業させないとまた怒られる。 学生は入学すれば卒業できると思ってしまうので、大学がディズニーランドと化した。
正常化には、学生定員を廃止し、各大学が卒業予定の人数や必要な学力を決めておき、学生を自由に入学させる。 そして進級試験でふるいにかけ、留年・中退させる。
大学の学費は安すぎる。 学生が実費を負担するようにして、全員が奨学金を受けられるようにする。 学生は、お金をかけて大学にいることの意味を考え直し、本当に必要のある人だけが大学に来るようになる。
大学の成績に応じて奨学金の条件を設定すると、優秀な学生がどの大学にも散らばり、大学間格差が縮まる。
奨学金は将来への投資であり、両親の可処分所得を増加させる効果がある。
大学の研究の活性化のために、研究ポストや研究費の配分を実績に応じた公正な競争の仕組みに改める。
 さて、 「これでなくせる大学入試」 という題名からして、橋爪氏は、大学入試をなくすることを重大な目標としている。 しかし、なぜ大学入試のスクリーニング( 人材選抜 )機能がまずいのか、という理由はここで触れられていない。 限られた紙面の中ではやむを得ないことであろうが、この根拠の問題は重要である。

 私に言わせれば、企業が出身大学を目安にして採用を決めるのは勝手のような気がする。 そういう企業が結果としてまずい人材を採用して、損をしようが潰れようが、それは企業の自由であり責任も負うべきであろう。 ただし、情実入試は、公立大学はもとより、政府から補助金を提供してもらう私立大学もまずい。 また、入学試験の時点でのスクリーニングをやりたいという企業が惑わされないよう、内容を公表された入学試験を表門からパスした学生か、情実入学生かは公表すべきであろう。 政府資金の提供を受けない大学が情実入試を行うことは、その枠や内容などの実態を公表するなら、何ら差し支えないであろう。 そのことによって然るべき社会的評価をその大学自体が受けることになるのであるから。 しかし、公正な入試を行ったかのように装うことは、一般の受験者や入学試験でスクリーニングを行う企業などに対する 「詐欺行為」 となる。

 「大学入試をなくす」 ことを目標とすることには、実際のところ難点がある。 数学者の森毅氏は 「受験を悪く言うようだが、あれには 『御破算で願いまして』 の気分があって、それほど悪いものでもない。 内申書重視の傾向もあるが、それではせっかくの受験の一発気分がなくなりそう」 と言う。 ( 『文学界』 8月号 「学校社会の拡散」 ) また、無理に 「大学入試をなくす」 ことで生まれる歪みも深刻である。 現状で学生の定員を廃止すれば入学者のさらなる学力低下は避けられまい。 加うるに、入学後の競争試験がなくなるわけでもなく、たんに時期がずれただけということにはならないか。

 橋爪氏は、文部省が 「過度の受験競争を緩和」 するということについて、 「適度な受験競争ならあってよい」 と認めている、と批判する。 しかし、橋爪氏自身、入学後の競争自体を否定しているわけではない。 入学後の 「過度の競争」 はどうするのか、明確にしてはいない。

 もちろん、国民に対して 「競争しないように」 と説くのは、国民を愚弄する、無益でおせっかいな啓蒙であろう。 大学入試の問題は、 「大学制度のあり方」 の問題であり、同時に 「社会制度のあり方」 の問題なのである。 とにかく、入試のやり方を変えたり、入学の枠を工夫する程度で事態が改善できるとは、とうてい思えない。 私は大学入試のよりよいあり方を考えられる立場にないこともあって、 「大学入試をなくす」 という発想を持たない。

 ただし、外的条件の整備を積み重ねることで 「大学入試がなくなっていく」 ことは十分に考えられるであろう。 企業が入試によるスクリーニングに愛想が尽きるようになればよいのであって、実際その兆候は現れており、これを、大学内情報の徹底公開、あるいは一切の非公開( 大学に成績証明の発行を禁じ、企業に出身大学名を問うことを禁ずる )などの法的措置で後押しすればよいのである。

 次に 「入学試験をなくし、書類審査で多めに入学させる」 という点はどうか。 仮に、 「偏差値によるランキング」 がなくなっていれば、受験生自身が 「ランクの高い大学」 に固執することもなくなり、高校教員の側も無理に 「進路指導の実績」 づくりに励む必要もなくなる。 高校から提出される 「書類」 も、大学に関する的確な情報と生徒の実情とを把握した上で 「正常に」 整えられるかもしれない。 しかしこの仮定は、思い切った決断がなされないと、早急には現実化しそうにない。 たとえば、 「ランクの高い大学」 のいくつかを廃学することなどである。 これができないとすれば、 「書類審査」 の横行で、生徒の日常は評価されることの息苦しさに覆われ、 「受験の一発気分」 ( 前述 )がなくなって救われない生徒も増えよう。

 大学の側からの視点でなく、高校側からの視点に立つと、生徒が大学から 「書類審査」 される前に、受験生が 「大学を審査する」 ことになる。 そういう点でいうと、たいへんな労力を要することではあるが、大学の 「偏差値」 でなく、大学を教育や研究の内容で正当に評価することが必要になる。 現状は、あまりの情報不足である。

 少なくとも、すべての大学教員とその論文のリストと、主要な講義・演習一覧、それぞれについて、800字程度の内容説明がほしい。 これぐらいの作文は、小論文として受験生に課しているぐらいであるから、大学教員が自分で書けないわけはない。 生徒と教員とが協力して読みこなし、目標とする大学・教員を捜すことは、まともな進路指導になっていくであろう。 インターネットを通じ、各大学のホームページを開くことができれば、経費の面でも労力の面でも問題なく、つねに最新の情報に触れることもできる。 内容が事実に則しているかをチェックするホームページサービスも、今という時代には自然に生まれる。

 もちろん、これで満足する生徒ばかりではない。 学問の最先端を目指したい生徒を対象に、各大学が自信を持ってピーアールしたい研究成果を披露することもできる。 これが欠ける大学は、はっきり言って魅力がない。 最良の学問こそが、最良の教育に結びつくはずである。 こうしたことは、大学の研究・教育そのものの活性化にも結びつくはずである。 おまけに、高校教員の教育活動の活性化にもなる。

 以上の意味で、大学が受験生に求めることと、受験生が大学に求めることとの 「幸福な一致」 のために、 「書類選考」 が行われることは望ましいであろう。 しかし、 「不幸なすれ違い」 となった場合に、 「キックアウトされた学生は、もっと卒業のやさしい大学に転校する」 というのは、どうも大学側の勝手な言い分のような気がする。 「卒業が難しい大学」 と 「卒業がやさしい大学」 というのが最初から区別されているのなら、入学させる前に教えてくれるのが親切である。 ( 「偏差値」 とどう違うのかという疑問も出る )。 「期末試験の問題や合格点を事前に公表しておく」 とは言うが、大学での教育を未だ受けていない者が、将来の自分の成績を判断するのは難しい。

 なお、 「不幸なすれ違い」 は、入学生が多すぎる場合だけではない。 大学が望む数の受験生が集まらない事態が継続するなら、当然のこととして、今度は大学側が 「キックアウト」 されることを覚悟しておかなければならないであろう。 大学側が入学者の数合わせを第一の目標にするという事態は避けなければならない。

 「大学のディズニーランド化」 は深刻である。 一部には、 「ギスギスしないで、ゆとりを持ってものを考えることも若い時期に大切だ」 という寛容な意見もある。 古き良き時代の 「高等遊民」 という発想である。 しかし、問題は、これを支えているのが国民の税金だという点にある。 自分の金でディズニーランドに行くのはあくまでも自由である。

 「大学の学費は安すぎる」 という理由は、公立大学だけに当てはまるでなく、文部省の補助金を受ける私立大学も同様である。 免税措置だけでなく、直接に政府の資金が投入されることで学費が安くなり、勉強したくない学生にも税金を費やしてしまうことになる。

 したがって、 「本当はもっと経費がかかっているので、原則として学生がそれを負担するようにする」 という提案は、正常な大学教育を取り戻すために、不可欠である。 「金持ちしか大学に入れない」 という問題に対しては、十分な奨学金を全員に貸し付ければよいのである。 「学生は、これだけお金をかけて大学に入ることの意味を考え直し、本当に学ぶ必要のある人だけが大学に来るようになるだろう」 。

 もちろん、この結果、本当に大学へ入ることが必要かという、当然の問いが生まれる。 この問いに耐えうる大学のみが存立しえることになることを、各大学は覚悟しなければならない。

 政府の資金に支えられ続けてきたことで、研究・教育への意欲を持たずに過ごしてこられたような大学教員がいたとしたら、まったく同じ事情で勉強しなくなった学生を他人事のように嘆くことはできないだろう。

 そこで、最後に、大学の研究の活性化の問題である。 「大学の研究の活性化のために、研究ポストや研究費の配分を実績に応じた公正な競争の仕組みに改める」 という提案自体は目新しいものではない。 実施の方法が問題となって、実現していないのである。 もちろん、論文の数だけでとか、密室の審査は、論外である。

 大学の外部から言わせていただければ、ドイツの大学で見られるような 「公開審査」 以外にないであろう。 大学外の学識者に限らず、市民にも開かれた公開の場で、同分野の複数の専門家から質問と審査を受ける。 この場では、当然にも、審査される者だけでなく、審査する者の学的な質も問われることになる。

 模擬講義にすべきか、論文に関する審査にすべきか。 新規採用と継続採用とを同一方式にすべきか、一部を変えるべきかなどは、大学ごとに工夫の余地があってよい。 公開審査の魅力は、まず公開に値する専門家かどうかを無理なく判別できることである。 そして、公開によって、大学が学問以外の要因( 小政治力など )を少なからず排除して大学運営を考えられるということである。 付随して生まれる欠格者の問題については、他大学へ変わる道を作ったり、再び審査を受ける機会を設けたり、 「社会保障」 の対象者となり得るような配慮も速やかな変革のために必要となろう。

 大学の研究と教育の質が高くなることは、高校以下の学校教育の活性化につながる。 ぜひこれを実現し、その内容を情報公開することで、受験生たちの夢を広げさせてほしい。 大学入試をなくしたり、入試方法を変えたりの工夫を頭から軽蔑するわけではないが、ゴチャゴチャ変えてだれが得するというのか。

 希望する講義が受けられ、希望する資格を取得することができる場所を( できれば複数 )選び、身銭( 貸与された奨学金も可 )をきって入学できるような仕組みを、できるだけ簡単に作ることが望ましい。 場合によっては、大学の固有名詞をはずしてもよいではないか。

 また、教育を受ける機会を保障するという点では、一定年数の勤労を経た社会人を一定枠で優先することを全面的に進める必要もある。 たとえば、21歳以上を対象とした枠や、累積一定額以上の所得税を納めた者の枠とかである。

 教育に限らず、小さな常識を重ねていって、全体で大きな非常識になるという例は、たくさん見られる。 そういう点でいうなら、私は、橋爪氏の提案を、近年まれな、まともなものと受けとめている。 これぐらいの大胆さでもっといろいろな面を考えていくなら、こんにちの学校や教育の行き詰まりを打開する道が少しでも拓けるのではないかと、ささやかながら希望を持ち、本論となった次第である。






  
    


 愛する我が子をどう育てたらいいのでしょう。

 時代の流れの中で、教育論もファッションのように目まぐるしく変化しているものかもしれませんが、その核となることは、どんなに時代が変わっても本質的には変わらない。 好きなことを伸ばしてやることこそ、親の大切な役割だということです。

 子どもが苦手な教科、嫌いな教科の勉強を無理してやらせることは止めるべきです。 理由はシンプルで、苦手なものや嫌いなものは、やっても面白くないからです。 面白くないものを強制されたら、子どもは嫌悪感を覚え、ますますその教科からそっぽを向く。

 その代わり子どもが得意なこと、好きなことはどんどんやらせるべきです。 ただ、子どもが何かに夢中になっているのを、温かく見守る程度では不十分です。どもは、嫌いなことでもおとなしく取り組んだり、上手にできることでも好きでなかったりすることもあるので、親は細心の注意を払って子どもと向き合う必要があるのです。

 そして、何に子どもが興味を持っていて、何に秀でているかがわかったら、とことんそれを褒めることです。褒められれば、嬉しくなってまた夢中になる。 これは、大人でも子どもでも同じことです。

 米国の子どもを眺めて思うことは、教育はある年齢までは親が主導しないといけないということです。 それは高いお金を払って、名門高校や塾に通わせ、いい大学に入れるということではありません。 ましてや学校教師や塾講師に子どもの成績が伸びない責任をなすりつけ、文句を言うなんてもってのほかです。

 私か小学校に入ったばかりの頃、算数ができずに困っていたことがあります。 嫌い・苦手以前に、理解できずにいたのです。 その時に丁寧に算数を教えてくれたのは父でした。 父は戦前の尋常小学校しか出ていませんが、小学生の算数くらいなら教えられます。

 わかりやすく丁寧に説明してくれた父のおかげで、私は算数が好きになり、理系科目の配点の多い徳島大学工学部に入り、地元企業に就職しました。




 「うちの子には得意なものなんてないんじゃないか」 という心配は無用です。 どんな子どもにも、開花するのを待っている才能の芽があります。 ただ、その芽は人それぞれで、ウルトラクイズ王選手権のような日本の入試を勝ち抜くのには役に立たない才能もあるでしょう。かしそれは、その芽を摘む理由にはならない。

 受験という名のくだらんクイズを勝ち抜くために、大きく育つはずの芽を犠牲にする必要はないのです。 仮に学校の成績がよくなくても、それは、歓迎すべきことです。

 受験競争をリタイアすればやりたいことに取り組む時間が十分にとれるからです。 極論になりますが、好きな道で成功したかったら、今の日本の学校からは早ぐ落ちこぽれた方がいいくらいです。
 私は、大学入試は全廃すればいいと本気で思っています。 そうすれば、クイズが得意な人ではなく、本当にその分野の学問が好きな人、得意な人、つまり一芸に秀でる人が集まるようになるでしょう。

 では、我が子はどんな一芸を極めるべきなのか。 それは、くどいようですが子どもが好きなこと、得意なことです。 そしてそれを見つけ出すのは、親の観察眼というわけです。





( 2015.02.02 )

   


多数の参考書が並ぶ大型書店の世界史コーナー。
私大世界史の難問に対応したものも少なくない。
 難関大を中心に、解答困難な悪問・奇問が出題されることが珍しくない大学入試の世界史。 専門家は 「あまりにもマニアックな出題とその対策は、世界史嫌いを増やしてしまう」 と危惧する。 なぜ、こうした出題は尽きないのだろうか。

 「仏教の八正道に入らないものは 『正見』 『正精進』 『正則』 『正命』 のうちどれか」 ( 平成26年早稲田大教育学部、正解は 「正則」 )、 「甲骨文字は占いに用いられたことから( ○ )とも呼ばれた」 ( 26年慶応大文学部、正解は 「卜辞」 )、 「彼ら( 中華民国期の地方軍司令官 )は立法府の( ○ )や行政機関を巧みに操り、軍閥と呼ばれた独裁体制を構築した」 ( 24年上智大、正解は 「省議会」 )、 「エジプトの神聖文字が解読された年は?」 ( 23年上智大、正解は 「1822年」 ) ……。

 こうした難問を大量に収録した 『絶対に解けない受験世界史』 ( 社会評論社 )を昨年刊行したのは、受験世界史研究家の稲田義智さん( 筆名 )。 大学受験産業に長年関わってきた立場から、早慶や上智大、一橋大など難関大を中心に、世界史の入試問題で悪問が頻出している現状を告発する。

 「高校教科書の範囲を外れた問題がアンフェアであるのはもちろんだが、教科書の一節を丸写ししてその一部を空欄にしただけの 『コピペ出題』 や、自分で書いた学術論文のテーマを入試問題に転用したために異常に難しい奇問が生じるなど、作問者の良心が問われるケースも少なくない」

 青磁か白磁かの区別が重要な出題で問題用紙の写真がモノクロだった事例( 26年早大文学部 )や、出題文が 「南ア戦争は、イギリスにとっては( ○ )戦争以来の長期戦になった」 とあいまいだったために、4大予備校の正答予想が 「ナポレオン」 「クリミア」 「第2次アフガン」 「アロー」 とバラバラになった問題( 24年慶大文学部 )など、チェックの甘さを感じさせる出題も多い。 稲田さんは 「最低限、問題を作った後にクロスチェックしてほしい」 と苦言を呈する。

 入試問題は、原則的にその大学の教員が作成する。 世界史の場合は歴史学などの研究者が中心で、過去問題との照合作業が必要になるなど負担が大きく、あまり人気がない仕事だ。

 入試に関する話は、どの大学でも機密性が高く、問題作成の詳細はもちろん作問担当者も非公開とされるなど関係者の口は堅いが、東大の入試問題を作成した経験のある同大教授は、匿名を条件に作問側の事情を明かす。 「単純に知識量を問う○×式ではなく、思考力を問う論述式の問題を出すのが王道だが、そうすると大学側にとっても採点しづらくなる」 と、大量の受験生を短時間で処理するための制約が存在するとした上で、 「作問を担当する研究者の水準が低ければ、よい入試問題は考えつかない。 あまりにも変な出題が多い大学は、教員のレベルが疑われる」 と、厳しい意見を示す。

 悪問は、特に難関私大に多い。 稲田さんはその理由として、大量の受験生をふるいにかける目的でマイナーな用語や教科書範囲外の内容が出題されていることを挙げる。 難関大の受験生は基本的に教科書の重要語句はすべて押さえているので、普通の問題では差が付かないためだ。 「ただ、そうした難問を作る過程で往々作問者の専門分野から外れた細かい知識を問うことになりがちで、これが出題ミスや悪問を生む根本原因」

 もともと私大は学部ごとに出題する上に入試日程も多く、大量の作問を必要とするという構造的問題も大きい。 加えて、受験生の側も面倒な論述問題を出す大学を避け、対策が単純な暗記問題の方を好む傾向があると指摘する。 「受験料収入に依存する私大にとって受験者数の確保は重要。難関私大の世界史が “クイズ大会” になるのは、双方の利害の一致による」 として、現状は容易に変えがたいとみる。

 ただ、その中でもせめて悪問と出題ミスは根絶する必要がある。 「作問する先生が自分の専門分野から出題することを守るだけでも、効果はある」 ( 稲田さん )。 歴史嫌いを増やさないためにも、学者の良心が問われそうだ。