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大学生は変わったか?




 え~、私は今大学生ですが、15年前も大学生でした。

 15年前と今の大学生を比較してみると、外見的には確かに変わったなぁ、と思います。 茶髪なんてほとんどいなかったし、女性の髪型も服装も今ほどのバリエーションはなかったですね。 ただ、そういった外見的な面で判断すると本質は見えないと思います。

 例えば、15年前の大学進学率は短大を合わせても30%そこそこでした。 でも最近は短大を合わせると50%くらいになります。 つまり昔なら大学に行かなかった層の若者が大学に来ているんですね。 だからそういった社会状況の変化を考慮しないと、 「大学生の変化」 というのは正確に見えてこないような気がします。

 学力については、確かに落ちたように思います。 私のHPに再受験時の成績が載せていますが、正直言うとあの成績では15年前なら合格できなかったでしょうね。 ただ学習指導要領が変わってますし、学校週5日制などによる絶対的な時間数の減少、大学生の増加による地盤沈下といった面を考えると、評価は難しいと思います。

 精神面では 「幼くなった」 と言われますが、う~ん、どうでしょうかね。 私も15年前はあんなモンだったような気がしますけど ……。

 確かに幼いなぁ、と思うことはありますが、それはむしろ私が年をくってるからそう思うだけなんですよね。 どうしても自分がかつて大学生だった頃を基準に考えるから、 「今の若い人たちは ……」 などとどうしても思ってしまうんですが、それは 「昔の視点」 で彼らを見ているのであって、じゃあ 「今の視点」 から見ても未熟なのか、という点は議論の余地があると思うのです。

 大体 「何をもって大人と見なすか」 というのは時代によって違うわけです。 極端な話ですが、大昔なら生殖能力、つまり第2次性徴の終了をもって大人とみなしていたでしょう。 でも今はそれだけでは大人と言えないわけ ですよね。 そこまで極端な時間差じゃなくても、15年というのはそれなりに長い期間ですから、やはり大人の基準というのは変わっていると思うんです。 単純に比較は出来ないですね。

 大学の先生は 「本を読まなくなった」 と言ってますが、テレビの発達やインターネットの普及を考えると、活字だけを情報源と考えて比較するのは難しいですね。 ただ、活字でものを書いたり読んだりするのは自分の内面との対話を促すと言う面はありますから( 実験のレポートを書いている時ですらそう思うことがあります )、それはそれですごく意味のある事だと思いますが。

 たとえば昔でもアフリカなどで餓死する子どもたちというのはいたわけですが、私の子どもの頃はそういう情報は活字でしか入らなかったから、具体的なイメージというのが湧きにくかったんですよね。

 でも今は映像でダイレクトに情報が入ってくる。 私の上の息子は3歳半ですが、この間北朝鮮の栄養失調の子どもをテレビで見てショックを受けたようで、 「かわいそうやなあ、ゴハンちょっとあげられへんかなぁ」 としきりに言ってました。 今ではこういう風に自分と同じ子どもたちがどういう状況に置かれていて、自分がその子たちに対して何ができるか、ということを3歳児でも考えることができるわけで、それはやはり映像でなければ無理な話だと思います。 だから一概に 「テレビ=教育に害」 とは言えないんですね。

 何か話がずれましたけど、まあそういうことです( 笑 )。




( 2010.01.11 )


≪大学のタテカンもなくなり≫

 機会あってひさしぶりに京都大学を訪ねた。 1960年代後半、学生運動の激しいころ、バリケードを築き、いろんなセクトの学生たちが入り乱れて窓ガラスを破り、流血の激戦をくりかえした時計台のある本部ビルはみごとに改装され、いまでは瀟洒しょうしゃなフレンチ・レストランが営業している。 まさしく滄桑そうそうの変、スズメ変じてハマグリとなるのたとえ。 わたしは心境大いに複雑であった。

 変化したのは本部の建物だけではない。 京都在住の20年間、大学の石垣いっぱいに立てられていた看板、俗にいうタテカンがひとつもなくなっていたのにもびっくり。 安保粉砕、授業料値上げ反対、成田空港阻止、組合弾圧糾弾、その他もろもろ、学生たちは闘争のスローガンを大きな文字で書きつづけていた。

 京大はとくに学生運動がさかんだったが、日本国中どこの大学にいってもタテカンがあった。 タテカンのない大学なんてワサビのない寿司すしのようなもので、どことなくさびしく、またおかしな感じがした。 それがキレイさっぱりと消滅したのである。

 タテカンの消滅というのは学生運動の消滅ということである。 いつ消えたのかといえば、さきほどふれた60年代の 「紛争」 が機動隊によって制圧されてからであろう。 その余波はこれまたいまや伝説となった浅間山荘事件までつづいたが、その後のことはほとんど耳にしない。 わたしなどの世代は1950年代の全学連時代から学生運動を直接間接に体験して育ってきたから、まことに夢のような歳月であった。

≪ネット・携帯で不満解消?≫

 その 「紛争世代」 つまり当時、石を投げたり鉄パイプで暴れまわった学生、院生諸君もいまは還暦をすぎたいいオジイサン、オバアサンになって、孫の自慢なんかしている。 あの世代が 「学生運動」 の最後だったのだろう。

 学生にかぎらず、いつの時代でも若い世代というのは既成の価値や制度にもっとも敏感に反応し、批判し、ときには攻撃的になるものだ。 それは若者にとって本能にちかいものであり、またそうした元気を社会はひそかに期待してきたのである。 多少は暴れてもいい。 守旧派の年寄りに反抗するのが若者の役割なのだ。 古今東西をつうじて革命や改革の担い手になったのはつねに若者であった。 それが 「学生運動」 の根底にあった。

 それがなくなった、ということはとりもなおさず、現代の若者に批判精神、あるいは覇気がなくなった、ということなのであろう。 じっさい、いまほうぼうの大学にでかけてみると、まことに平穏無事。 学生たちはまるで羊の群れみたい。 批判どころか気味わるいほど静かである。 「若者文化」 といってもそれはファッション、流行語のたぐいであって、けっして 「思想」 や社会的な 「運動」 につながるものではなさそうだ。

 もちろん不平、不満、疑問がないわけではあるまい。 しかし、それが 「運動」 という目にみえる形態をとらないのはインターネット、携帯電話などの電気通信技術によるものだ、という説をきいてなるほど、とおもった。 腹が立っても、それを口にせず親指一本で画面に打ち込んで送信する。 読者の有無は問うところではない。 いうなれば 「ひとりごと」 である。 古人いわく 「物いわざるは腹ふくるるわざ」 。 キーを打って、送信すればそれだけで気が晴れる。

≪芸能人・スポーツ選手に偶像≫

 じっさい、ネットの世界をちょっとのぞいてみると何百万ものブログの書き手たちは世間を憎み、恨み、権力者に罵詈讒謗ばりざんぼうを浴びせ、ときには 「くたばれ!」 「死ね!」 などと叫んでいる。 それほどに不満は鬱積うっせきし、怨念おんねんの根は深いのだがすべては個人の 「ひとりごと」 になって雲散霧消してゆく。 いうなればネットでの 「発言」 は安全弁であり 「ガス抜き」 なのである。 その結果社会的な力にはならない。

 そんな社会参加などには目もくれず、ひたすらゲームその他の 「仮想現実」 のなかにひとり浸りきってホンモノの世界と向き合うことを知らない若者たちもいる。 あるいは偶像化された10代、20代の芸能人、スポーツ選手に 「若者文化」 を代弁させて満足しているようなところもある。

 日本だけではない。 この傾向は世界的な規模で進行してきているらしい。 仄聞そくぶんするところではフランス学生運動の激戦地カルティエラタンは、いまでは 「戦跡」 として観光コースにはいっているそうな。 我が国の学生運動諸派もどうやら健在らしいが、デモもストも、ましてや武闘も絶えて耳にしたことがない。 いまの学生たちはモヤモヤを抱えながらそれを社会的に表現することなく黙ったまま4年間を大学ですごし、卒業してゆく。 はたちになるかならないか、という若さでその精神はもう朽ちているかのようなのである。

 大学生をふくめて若者に元気がなければ社会ぜんたいの元気がなくなる。 ちょっと不気味ではないか。