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大学システムと学歴社会




日本の大学に教育目的は存在され得るのか

 日本における 「大学」 の歴史は明治以降のいわば 「欧米技術訓練校」 としてスタートし、その 「知識」 を伝達することが教育目的となり、その知識を得ることが 『立身出世』 の手段となることで発展してきた。 その構図が 「学歴社会」 神話を形成する理論的根拠となったわけである。 その後大正7年の 「大学令」 発布以後も、制度的に変化した戦後の新制大学発足においても、大学への教育人口が横ばいか緩やかな上昇に留まった時代までは、教育目的には大きな変化はなく、現在でもないといっていいかもしれない。

 一方で大学に対する権威という点では、戦後の大衆化がもたらした問題として、それまでの大学像が、大学の自治を主張した学生運動によって、大学の自治というベールに守られていた大学の価を相対化させ、 「沈静化」 以降の 「レジャーランド」 で、相対化は完成された。 そして 「学歴神話」 だけが 「学校歴神話」 と形をかえて残った。 これが現在の大学であるといえるだろう。

 そして、一言で言えば 日本における大学は 「大卒資格」 をとるための場であることが最大の目的であり機能となっているのである。 「京大卒業生の意識調査」 において、 「学問・教育の内容には満足していないが、京大に在籍したことはプライドを持っている」 という傾向が如実に示している。 したがって、学問内容は重視されない上に、研究を主としてきたため、教育は軽視されてきたという歴史がある。 そしてそれを 「大学をでて安定した職業につき、安定した豊かな生活を送る」 という 「学歴神話」 を持った日本国民は無意識のうちに支えてきたのだ。 この 「目的なき教育」 を大学において期待されている環境が維持されている限りは、少なくとも安易にアメリカのように 「入りにくく出にくい大学」 を創っても多くは期待できないであろう。


日本・日本人の教育観と国民・市民の意識

教育改革

 『新制大学50年、大学の改革が問題とされないときはなかった。』 と言われているが、 「教育改革国民会議」 をはじめとするここ最近の 「教育改革」 の動きは、教育内容の細部の改革と 『教育基本法』 の改正問題のような究極的な問題に集中し、学制改革などのシステム面の改革、そして 「教育哲学」 に関する議論が見えていない状況がある。

大学レベル=知名度&就職レベル

 大学の偏差値序列については多く研究者によって解明され、文献も多く出版されているが、大学のレベルが、知名度とそれに関連した就職状況( 一流企業に多く入っているか )という実利的側面と、イメージ的側面による人気によって構成され、仮に大学が学問においてよい事をしても人気に結びつかないということが問題である。 日本人にとっては 「大学レベル=知名度&就職レベル」 なのだろうか。 現に、大学案内を見る限り魅力的なカリキュラムを構築している大学が、偏差値ランキングでは 「F」 ランクになってしまう。 無論 「大学立地」 面における人気の優劣も重要ではあるが、特に新設大学の場合は就職の 「実績」 がないために、相当の苦戦を強いられているのである。

 大学案内に絡めていえば、どこの大学でも就職状況のページに力を入れ、どの学校も航空会社のフライトアテンダント( スチュワーデス )に進んだ出身者を取り上げている。 フライトアテンダントというある種の専門職な場合、学校の内容とはそれほど大きな関係があるとは思えなく、学校とはまた別の機関( ダブル・スクールなど )での訓練が必要とされている。 現にほとんどの大学で掲載されているということは、学校差がないということでもある。

 バブル崩壊以降、企業の学歴信仰も減少し、 「能力主義」 採用が増えたといわれてはいるが、現実には、確かにその傾向は見られるものの、景気低迷によって採用人数を絞った企業はかえって 「学歴」 に頼る傾向もある。 また、 「能力主義採用」 における 「能力」 は、フライトアテンダントの例を引くまでもなく、大学での 「学問」 を努力して修めた能力ではなく、 『日本の高等教育は、企業内教育にある』 と豪語される教育を先取りした人間の能力であり、大学で勉強をしない人向きにつくられたシステムといってよいだろう。 『専門的な大学教育は不要であるばかりか有害でもある。』 といった言説は形を変えて生きているといえる状況が続いている。 しかも、就職協定の廃止によって就職活動の開始時期も早まったということは、大学における学業が占めるウェイトはますます軽んじられていることの証左であろう。

ゆとり教育 vs 学力低下論

 最近、大学生の 「学力低下」 論が論壇で頻繁に論じられるようになり、あわせて文部省が導入する 「新学習指導要領」 の 「ゆとり教育」 についての是非論が喧しい。 しかし、これは 「大学生が勉強しない」 ということが問題にされているのではなく、 「分数ができない大学生」 のように、 「大学生になったときの学力」 が受験戦争の時期に比べて低下している。 ということであって、このようなセンセーショナルな報道のされかたを見ていると、分数計算ができないことが、そんなに深刻なことなのだろうかと考えたくもなる。 それほどまでに重要ならば、入試で課せばよい話である。 第2節の冒頭で述べたような事態が起こるのは、入試科目のカットによるものが多いのであるから。

 一方 「ゆとり教育」 論にも問題がないわけではない。 この 「ゆとり教育」 が 「愚民化教育」 になってしまうのではないかと、心配する出来事があった。 私は、個人指導の塾でアルバイトをしているが、小学生に算数を教えていたときのこと、図( 省略 )のような問題が出題された。 この答えは3.14cmになるわけだが、これが 「新学習指導要領」 施行後は、3.0cmになってしまう。 これは円周率が3.14から3になってしまうからである。 これによって弓の弦の長さと弧の長さが理論上イコールになってしまうのである。 物理的に間違っているにもかかわらずである。 私は理数系でもなく、数学を得意としていたわけではなく、むしろ苦手な方であったが、ここまでやってしまってよいものかという気もする。

 この事態が進んで公教育で行う教育内容だけでは、受験に対応できないという事態( すでに私立中受験で常態化しているが )が起これば、学校以外の教育費に資力を投入できる階層、また、教育にそれだけの重要性を認識する 「文化資本」 をもった階層だけに教育を受ける機会が限定される事態さえ起こりかねない。

 この論争では、教育哲学の問題がないがしろになっていまい、したがって議論がかみ合わない。 明治期から高度成長まで、欧米へのキャッチアップ段階までの日本における 「教育」 は確かに国家戦略であった。 しかし、キャッチアップに成功して以降の教育が、 「国家戦略」 なのか 「個人への公共サービス」 なのかの議論が深まらずに、 「不登校」 や 「中退」 「ストレス」 などの教育問題への対応として偏差値の 「廃止」 や、受験の見直し、そして 「ゆとり教育」 と、悪く言えば小手先の政策を行ってきたところに、この論争がかみあわない理由がある。 読売新聞は2000年11月3日の教育提言で 「国家戦略」 であることを公言した。 また村上龍などの議論も経済的側面からみた教育論である。 学力低下と教育問題の根本的解決は、国家的課題であるという認識である。 それならば一方で学校を 「ドロップアウト」 する状況をどうするのか、 「フリースクール」 などを公共的に行うことの是非などの問題にも言及するべきである。

 このような教育論議、すなわち 「国家戦略」 か 「公共サービス」 かの議論が国民的コンセンサスを得ていないところに、教育改革の目的が迷走する原因、地方自治体が 「教育委員会」 という形で一般行政と距離( 実際はそうでもないが )をおいているのに対し、国家レベルでは 「文部科学省」 という行政機構に組み入れられた組織が教育行政を司っていることに関しての正統性の議論が発展しない要因であるのではないだろうか。

日本人の 「勉強」観

 日本人の教育目的から 「立身出世」 「学歴付与」 という目的を取り除いた場合、 「学校教育」 とくに 「高等教育」 に関してどのようなニーズを持っているだろう。 「学校の勉強=苦労」 という意識が高等教育にまで影響しているのだろうか。 寺脇研は 「~は勉強しなくてもできた」 という言葉をいう人間は多いが、実際には 「好きなこと」 であったがために 「苦労」 を感じなかったというだけで、人並み以上の勉強はしているはずだとしている。 つまり 「苦学じゃない=勉強しなかった」 というようなイメージを日本人の多くが感じており、 「何かのために勉強する」 よりも、 「勉強する=苦労する」 こと自体に意味を見出しているのではないか。 という新たな疑問も現れてくる。

 学問研究にはもちろん結果として苦労することはあっても、苦労するために勉強するのではないはずである。 学力低下や私語問題等で、 「勉強はつまらないものだ」 ということを前提に、 「辛抱がたりない」 という論を唱える向きも多いが、そもそも 「目的のない勉強」 は 「辛抱するもの」 なのだろうか。 …… ということも議論しなければならないだろう。 「勉強しなさい」 という目的語がない言葉が何よりこのことの本質をあらわしているように思う。

このようなことのほかにも、日本人の学習観と、 『守・破・離』 に代表される成長・成熟観とが合致しているのかという問題があるが、これらは今後の研究課題としていきたい。

 国民・市民の意識としては、大卒であり、 さらに言えば有名大学の出身であるということが 「ハク」 となり、 「偏差値と就職こそが世の中一般から見た大学への評価である」 という状況を支える形となっている。 その背景として、 戦後、 「学歴の向上イコール生活の向上という神話が国民に広く浸透した」 という問題がある。 これらは、 「学歴社会」 を無意識に支え、 「目的なき教育」 を黙認しているといえよう。
( 社会学実用教育研究所より )