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出席・欠席・私語




 そもそも大学においては、授業に出席することは個人の責任における選択であって、出席しない自由もある( それに伴うリスクは個人が負う )。
 ここが高校とは根本的に異なるところである。
 欠席のリスクがどのくらい大きいかは、科目によって違いがある。
 とくに情報処理系の科目は積み上げ式で、一回欠席したら分からなくなるから、出席管理は厳しい。
 しかし、教養を身につけてもらうことが狙いの 『現代社会の基礎』 ではリスクは比較的小さい。
 授業に出席しないで勉強するという姿勢も否定はされない。
 したがって、出席するのは静かに話を聞きたい人だけのはずだが、例年の経験からすると実際はそうでもない。
 そこで私語の話題に移るが、これは大学教員を苦しめている現代日本の病である。
 

「教育とは知識を詰め込むことだと考えられ、生徒たちは、なんでも丸暗記するのは巧みになったが、論理的思考は不得手で、したがって意志決定力もすっかり弱くなった。 さらに …… 彼らは学ばず考えず、大声で私語した」

( 『なぜ日本は没落するか』 森嶋通夫 1999年 岩波書店 )

 「大学の先生はなぜ私語を注意しないのだろう」 という感想を持つ学生諸君が多い。
 大学の 「あるべき論」 からいうとこの感想はおかしい。
 大学は大人を相手にする場所である、しかも学びたい人が自ら戸を叩く場所である、という建前をとっている。
 だとすると、大人を相手に、しかも学びたい人を相手に、注意するのは失礼にあたる。
 社会人の世界でも研修などの機会は頻繁にあるが、その際にも教師の発話内容を確認するなどの理由で、参加者間のささやきが発生することはよくあるからである。
 私語を注意しないのは 「あるべき論」 からいうと当然であり、私語を注意するということは受講生を子供扱いしていることを意味する。
 しかし残念なことに、大学生のお子様化は年々進み、授業内容と関係ない大声の私語が頻繁に発生する ので、限界を越えたら教員は話を聞きたい人の権利を守るために権力を行使します。
 しかし繰り返すように本来、話を聞きたくない人はそもそも欠席しているはず なのだ。
 私は途中退席を容認するから、私語をするくらいなら教室から出ていってほしい

( 大学における講義の前提と作法より )